批評

テン年代とか言いたくないあなたへ+

60年代とか80年代って言葉には、それぞれ明確なイメージが与えられているので、自分が高校を卒業した1990年頃には、「これからいよいよ90年代を自分は目撃するんだな」とかと思ってひそかに興奮したことがあったけど、別に90年代と言ってひとまとめにできる…

「英雄としての文化人類学者」再読/冷たい社会と歴史の外の自由

あの人もこの人も鬼籍に入っていくので高齢の方々がご存命かどうかあやふやになってしまう昨今ではありますが、つい先だって、レヴィ=ストロースってたしかまだ生きてるよね、とかと知人と話したばかりだったのを思い出す。寒い朝にtwitterで訃報に接する平…

近代日本語に弔いを 2.0

去年の年末から春ころにかけて「近代日本語に弔いを」というシリーズ記事を9本書きました。 近代日本語に弔いを(9)−「文(かきことば)」の演劇− - 白鳥のめがね 私のこの散漫なダイアリーにしては、ちょっとばかりintensiveなシリーズになっていた気がす…

『動ポモ』再読(3)―スノビズム=シニシズムという短絡

東浩紀の『動物化するポストモダン』(『動ポモ』と略しています)を読み返すシリーズの続きです。 いままでのまとめと今回の論旨 第一回で私は、コジェーヴの日本的スノビズム論には「特攻も歴史的意味を持たない形式的な自殺の一例である」という主張があ…

栗原裕一郎の宇野常寛批判について+

大航海の終刊号に載った 栗原裕一郎「『ゼロ年代の想像力』に掲げる「決断主義」は果たして「ニヒリズム」なのか」 を読んだ。大航海 2009年 07月号 [雑誌]出版社/メーカー: 新書館発売日: 2009/06/05メディア: 雑誌購入: 3人 クリック: 17回この商品を含む…

『動物ポモ』再読(2・改)―社会と死

人間は動物である。だから人間が動物化する、といっても別に驚くべきことはない。石が鉱物化すると言っても別に驚くべきことはないように。では、なぜことさら「動物化」という言葉を東浩紀はキーワードにし、問題にするのだろうか。人間には、ただの動物で…

『動物ポモ』再読(1)―Kojeve/Yiyeasu/Snobisme

東浩紀の『動物化するポストモダン』(『動ポモ』と略す)のキーワードとなる「動物化」は、ロシア出身の哲学者アレクサンドル・コジェーヴの議論からヒントを得て用いられた言葉だ。東浩紀自身が、同書の中で『ヘーゲル読解入門』(Introduction a la lectu…

『ゼロ年代の想像力』を読み直すためのレッスン+++

アクセス状況を見ていると、5月に入ってから『ゼロ年代の想像力』で検索して 『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版) - 白鳥のめがね の記事を読みに来る人がちょっと増えている。あれかな、新大学生が受験が終わってさあ読み始めよ…

山本健吉『詩の自覚の歴史』/人の孤独と小さな舟と

今までこのブログで何度か万葉集について触れた。例えば、吉増剛造がどんな風に万葉集を読んでいたかについて言及した次のエントリーとか。 近代日本語に弔いを(6) −残された音の痕跡− - 白鳥のめがね でも、万葉集について触れても反応が薄いので、ちょ…

近代批評としての『YASUJI東京』

このあいだ杉浦日向子の『YASUJI東京』を読んで、これはマンガによる批評だと思った。YASUJI東京 (ちくま文庫)作者: 杉浦日向子出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2000/03/01メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 13回この商品を含むブログ (23件) を見ると思…

『日本語が亡びるとき』を読む#2 −貴族が詠む『万葉集』−

『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読んでいて次の文章を読んで・・・絶句。した。 天皇から庶民まで詠んだと謳われ、近代に入ってから栄光ある「国民歌集」の地位を与えられた『万葉集』も、実は、奈良時代の貴族によって詠まれたものだと言われて…

地元/地政学/ポストモダン以降

2008年は、一連のケータイ小説研究と、『ゼロ年代の想像力』と『日本語が亡びるとき』が出版される必然性があった一年であったということでしょう。これらの著作は同時に読まれなければならない。 というわけで今日は、昨年考えていたいくつかのテーマに響く…

『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版)

※件の本を冷静に読みたい方は、まず(↓)をお読みください(5月27日追記)。 『ゼロ年代の想像力』を読み直すためのレッスン+++ - 白鳥のめがね この本から学べることは、こんなパフォーマンスに需要があると思われるほど文化的状況は貧しいことになってし…

『ぼくの大好きな青髭』メモ

庄司薫は、近代日本文学の終りを見据えてこの小説を書いているのだろうなと思う。ひとつの時代をまるごと描き、そこに人生の課題を示してみせるような小説は、もうこれ以降書くことができないという認識が透けて見えるようだ。*1 単行本の刊行は1977年*2。作…

近代日本語に弔いを(1)〜(8)と(中休み)

ちょっとした分量になったので、ちょっとまとめてリンクしておきます。 近代日本語に弔いを(1)−公用語のリアリティ− - 白鳥のめがね 近代日本語に弔いを(2)−近代日本亡霊− - 白鳥のめがね 近代日本語に弔いを(3)−残された文字は死なない、消え去る…

近代日本語に弔いを(6) −残された音の痕跡−

*170年代初頭、30歳を過ぎたばかりの吉増剛造が万葉集を読む。 昭和三十年代後半に青春期をむかえたものの例にもれず、ロックの発生期あるいはモダンジャズの世代であり、(略)・・・朝にモダンジャズを聞き、「万葉集」を読んで巻三の「みつみつし久米の若…

近代日本批評について(お蔵だし)

*1 この「批評」っていうカテゴリーは僭越というかおこがましいというか、私みたいな不勉強な人間は使わないのが慎みってものではないかと思ったりしなくもないけど、若いころ批評家気取りをたしなめられたりしていたようなことがあって、そんな頃書いた文章…

近代日本語に弔いを(5)−母国語と母語−

国家と言語っていったらまず田中克彦でしょ。でしょ? 田中克彦(社会言語学) 「言葉は単なる人間の道具ではない。」 それを万感の思いで語るのは、社会言語学者、田中克彦だ。70歳を過ぎた現在も、世界各地の様々な民族をフィールドワークし、その言葉を研…

近代日本語に弔いを(4)−言語があるとも言えないのに−

なんだか『日本語が亡びるとき』をちゃんと読んでみようかと思い始めた私ですが、「近代日本語に弔いを」と言うからには、比喩的にであれ、近代日本語というものがかつて生きていて、あるとき死んだ、と述べていることになります。日本語が亡びるとき―英語の…

近代日本語に弔いを(3)−残された文字は死なない、消え去るだけだ−

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/24e707ffa42cb9da8fd0b58857c79e0b 日本語が亡ぶっていうメタファーはあいまいすぎるので、「近代日本語」はもう亡んでいるけどその亡霊がさまよっているのだっていった方がわかりやすいという記事を書いたのでした。 近…

近代日本語に弔いを(2)−近代日本亡霊−

私も、水村美苗の『日本語が亡びるとき』は新潮9月号でしか読んでいなくて、その先を読みたいとは思わなかった。ネット上の議論とかを見れば水村の主張の概要はわかる。 『日本語が亡びるとき』を読まずに騒動だけ見た感想 - ARTIFACT@ハテナ系 多分、評論と…

近代日本語に弔いを(1)−公用語のリアリティ−

水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』をめぐる議論に関連して、私でも思いついたことを幾つかメモします*1。 フランスが消滅してもフランス語はケベックやアフリカで細々とではあるが生き残るだろう。 404 Blog Not Found:日本語は誰のものか? 弾さんがあえ…