山本健吉『詩の自覚の歴史』/人の孤独と小さな舟と

今までこのブログで何度か万葉集について触れた。例えば、吉増剛造がどんな風に万葉集を読んでいたかについて言及した次のエントリーとか。
近代日本語に弔いを(6) −残された音の痕跡− - 白鳥のめがね
でも、万葉集について触れても反応が薄いので、ちょっとがっかりしていたものだ。アクセスログを見ても、蕪村で検索して見に来る人は途切れないのに、万葉集で検索してくるひとなど皆無である。
品田悦一氏の『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』を読んでみると、日本の古典教育は平安時代を中心にしていて、万葉集など入試にも出ないので、読む人が少ない、という話が序文に書いてあった。なるほどね。まあ、私も、歌人と結婚することにでもならなければ、万葉集に興味を持ったりしなかっただろう。

さて、私が万葉集に興味を持ち始めたのは、斉藤茂吉の『万葉秀歌』を読んで以来で、それまで持っていた平安朝的和歌のイメージとは違って、磯の香りとか軍馬の佇まいとかが生々しく迫ってくる感じに感銘を受けたのだった。その後、西郷信綱の『万葉私記』を読んだりもした。まあ、そういう読書をしていると、当然、柿本人麻呂万葉集の頂点だということを疑わないことになる。

そんな自分にとって、もっと別の万葉集のよみ方があるということを教えてくれたのが、山本健吉の『詩の自覚の歴史』だった。タイトルだけ見ているとわからないが、万葉集に収められた和歌の史的展開のうちに、詩が自覚される歴史を見るという本だ。

なかでも印象深いのが、この本に納められた高市黒人論だ。「旅人の夜の歌」と題した高市黒人論の一章を初めて読んだときの感銘が忘れがたい。日本語で詩について書かれたもので、今まで読んだうちで僕が一番好きな文章だ。

[原文]何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟

[訓読]いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

[仮名],いづくにか,ふなはてすらむ,あれのさき,こぎたみゆきし,たななしをぶね
http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html

山本健吉高市黒人論の中心に上に引いた一首がある。この歌を夜になってからの回想としてとらえて、古代の旅の心細さを説き、孤独な心象を読み取り描いていく。高市黒人を高く評価するのは、山本健吉が師事した折口信夫の説であるということで、山本健吉は折口を引用しながら議論を組み立てている。人麻呂を中心にするのではない折口的な万葉集の読み方を初心者にも分かりやすく解説してくれている。

山本健吉は、広い海のなかですれ違う舟の行方を思いやる高市黒人の心情に踏み込むように注釈を進めていくのだけど、深い夜の闇のなか、大海に浮かぶ小舟があてどなく揺れているというイメージを喚起する筆致において、人が生きていく限り逃れることができない根本的な孤独さみたいなものに思いを寄せていく。

それは、ポエジーを増幅させるような注釈になっていて、古代の万葉集を現代に引き寄せすぎているのかも知れないけれど、原典をあらたに創造し直すようにして、古典に新たな生を与えているとも言えると思う。詩と響きあう散文であり、詩が染み透った散文になっている。

『詩の自覚の歴史』は、万葉集の最後を飾る大伴家持の歌をもって、詩が完全に自覚されるに至るという文学史を描いてみせる。そういう、発展史的な読みかたを疑う視点も必要なのかもしれないけれど、家持の憂鬱に分け入っていく山本健吉の緻密に考証を重ねながら叙情的なものを浮き彫りにしていく描き方は、まるで長編小説のようで、ドラマチックであり、読む悦びにあふれている。

山本健吉の本では僕は『詩の自覚の歴史』しか読み通していないし、山本健吉が引いている折口の本もちゃんと読んでいないのでえらそうなことは何も書けないのだけど、『詩の自覚の歴史』が絶版になっているのはなんとも勿体無い話だと思って、この機会に読書メモを残しておこうと思った。