『ゼロ年代の想像力』を読み直すためのレッスン+++

アクセス状況を見ていると、5月に入ってから『ゼロ年代の想像力』で検索して
『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版) - 白鳥のめがね
の記事を読みに来る人がちょっと増えている。あれかな、新大学生が受験が終わってさあ読み始めようという感じか、あるいは授業の課題図書にでもなったのか。

かつての自分のつたない議論もなんかもうちょっとなんとかできないか、と思っていたところ、転叫院さんが同書の「用語整理」をしていて面白かったのでまずリンク。

まず、『ゼロ年代の想像力』が一貫して「洗脳ゲーム」の話であったことを確認しよう。これは何が正しいかについての客観的な知について書かれた本ではなく、「何が正しいかについて、人はいかにして政治的かつ洗脳ゲーム的に、信じさせられるのか」について書かれた本である。「《大きな物語》が失効し、何が正しいのかについて誰も正解を与えてくれなくなった」時代として、00年代を捉えるところからこの本の論旨は始まっている。そしてその問題意識は、後期近代における個人の再帰的自己決定について語るリスク社会論の問題意識とも共通している。リスク社会論の社会学者が、(90年代の本なので少々喩えが古いが)「バターとマーガリンのどちらがよいかを選択する消費者」について語るとき、彼らは疫学的な立場から正解を語っているのではなくて、どちらがよいと思い込むように消費者が「洗脳」されるのかについて語っている。また、著者が「洗脳ゲーム」について語るとき、その文脈はおそらく多くを、岡田斗司夫の『僕たちの洗脳社会』に負っている。
『ゼロ年代の想像力』の用語を整理してみる

この洗脳ゲームを、動員ゲーム、抗争ゲーム、搾取ゲーム、に分類し直し、ベン図的に相関関係をまとめて、宇野の用語と議論を整理し、宇野の話の帰結を明確化している。とても明晰。

ロジックも明解だけど、議論が踏まえている諸々のレベルでの社会的事象のおさえかたもリアリティがあって、上の用語の整理は、それまでの考察(↓)を踏まえたものになっている。

本当に00年代ってそこまで動員ゲームやバトルロワイヤルが吹き荒れた時代だったのか? というのが率直な自分の感覚。
「動員ゲーム」「バトルロワイヤル」がわからない

ゼロ年代初頭の「バトルロワイヤルのエレガント化」というのは、仮想敵を名指しせず、政治的に正しい言い逃れを続けることであった。つまり、動員ゲームの「指し手」たちはこぞってPC化したのである。
そのような「エレガント化」によって、「エクスプリシットな抗争から、インプリシットな搾取へ」という動員ゲームの質的転換が起こった。
:::略:::
したがって、今後必要になる「動員ゲームをサバイブする知恵」とは、「政治的に正しい言い逃れの背後にある搾取を暴くこと」である。政治的に正しい「動員ゲームの指し手」たちに「政治的に不適切な失言」をさせ、その言質を取って戦うすべを、一般構成員たちに教えるのが、ゼロ年代終盤の啓蒙だ。
社会は本当に「決断主義化」しているのか?

「ほかならぬこの現実がヴァーチュアリティ(潜在性)においていかに多層的で豊かであるかを発見することが重要なんだ」(by 浅田彰ということを踏まえたうえでの、アイデンティティの多層性を論じている、宇野常寛の「モバイル的実存」は、浅田彰が80年代に言っていた「スキゾキッズ」なんかより、ずっとリアリティのある現実認知である!
宇野常寛が浅田彰と戦うために読んでおいたほうがよいであろう文章

関連する記事に次のようなものも。
サークルクラッシャーと母性のディストピアについて
個性からキャラへ
まあつまり、観察が精緻で、仮説が鋭い、というか。

ともかく、私もじっくり読んで考えたいということで、まとめてリンクさせていただきました。

追記)
※『ゼロ年代の想像力』がどう読まれているか、について。
「大学読書人大賞」―『ゼロ年代の想像力』推薦文一覧
http://book.akahoshitakuya.com/b/4152089415

※宇野さんが批評家デビューするまでの黒歴史(笑)について
http://d.hatena.ne.jp/kossetsu/20080410/1207837397
(5月28日)

追記2)
そうそう、これを探していたのよね。(同じ転叫院さん)

では、カフカに倣ってこう書いておこう。「君の宇野常寛への反駁においては、「新しい感性」を支援せよ」と。
http://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/zero_memo.html

僕は、なんか、古い感性を支援しているみたいだね。
宇野がどんなにくだらないやつとしか思えないとしても、だからといって宇野の脳が生み出したものが宇野以上にすばらしくないとはいえないのだ。そこは冷静に考えよう。

それから、上のid:kossetsuさんのまとめに、あるバイアスがあることはコメント欄にも指摘されているけれど(だからってそんなに不公平ともゆがんでるとも思わないけど)次のようなバイアスがかかっているのだということは踏まえておきたい。
http://d.hatena.ne.jp/kossetsu/20080407/1207588505
(5月28日)

追記3)
物語論の専門家による宇野同書の批判。

決断主義の必然と克服は物語文法論的には、物語は状態変化の回復構造を持つことが多く、それと選択された立場の帰結が対応しているのだとは言えよう。ただし、ゲームのルール、フィールドの設定には大きな物語が作動し、様々な諸力のヘゲモニーとカウンターの交錯としてあることに宇野は想像力を働かせない。大きな物語の終焉という図式の背後にはより強力なアメリカ帝国という物語の支配がある。そもそも本当にプレーヤーは同格なのか。ハヴィトゥスはプレーヤーの実践を階層的・慣習的に構造化し、この時点において既にプレーヤーは対等ではない。そして、域外に価値を設定する力は誰が持つのだろうか。東の場合には、バブルによる資本の蓄積が、企業体としてはともかく、個々の家族においてはバブル崩壊後も非生産的なゲーム享受を可能にしたという前提が不可視化されている。この場合、蓄積は消費されればなくなり空間の自律性が失効する。東のポストモダンならこうならなければおかしいといういらだち=論理的破綻は必然であり、それに対する理論的時代錯誤感の発生は必至であったというべきであろう。宇野の場合は、母性を批判するが、しかし、その母性なるものによって利得を得ていたのは他ならぬ男性主人公である。とするならば、押井と高橋との対立も父と母の対立とは異なる。政治と文学に割り当てられる対応関係にも疑問が残る。自説を説得的に示したいのであるならば、様々に意味をまとい、時に相反する意味を割り当てられてきた政治と文学というフレームを採用すべきではないのである。さらには、対立軸を設定するとき、両項はそれぞれ等質化されるのであるが、そのカテゴライズが強引なのであろう。
ゼロ年代の想像力: Poetic Effects

(5月29日)