近代日本語に弔いを(1)〜(8)と(中休み)

ちょっとした分量になったので、ちょっとまとめてリンクしておきます。
近代日本語に弔いを(1)−公用語のリアリティ− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(2)−近代日本亡霊− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(3)−残された文字は死なない、消え去るだけだ− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(4)−言語があるとも言えないのに− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(5)−母国語と母語− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(6) −残された音の痕跡− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(中休み) - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(7)−複式夢幻能としての『日本語が亡びるとき』− - 白鳥のめがね
近代日本語に弔いを(8)−国家と仮名遣い− - 白鳥のめがね
このシリーズはあと二回で終りにします。
「文(かきことば)」の上演についてと、弔いについて、書きます。それで当初書きたかったことの全部。
しかし、何で国際公用語の話から始めたんだろうか。そこに話をつなげて終われたら美しいですが、宙に浮いたまま終わるかもしれません。


これ書いていて近代や戦後についていろいろ思うこともあったので、それは別に書き継ぎたい。
あと、せっかく買ったので、『日本語が亡びるとき』をちょっとしつこく読んで close reading みたいと思います。『反=日本語論』を読むシリーズと並行して合い照らすものにしたい。

あと来年は、丹生谷貴志をしっかり読み直そうかな。
みんなもっと丹生谷貴志を読もうよ!