近代日本語に弔いを(1)−公用語のリアリティ−
水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』をめぐる議論に関連して、私でも思いついたことを幾つかメモします*1。
フランスが消滅してもフランス語はケベックやアフリカで細々とではあるが生き残るだろう。
404 Blog Not Found:日本語は誰のものか?
弾さんがあえて詳述しなかったことを補足すると、ケベックのフランス語が母語であり公用語である仕方と、アフリカの国の一部でフランス語が公用語であり、母語でもあったりすることには、歴史的に言って大きな違いがあるはず*2。
そして、弾さんは、国家の名前ではなく、領域の名前としてケベックとアフリカをあげ、国家としてもフランスを名指しているのだと思うけれど、弾さんが言い落としていることのひとつが、国際公用語としてのフランス語、というステータスだと思う。
世界のコトバ
国際機関の公用語の一覧 - Wikipedia
近代的な国家という制度がこの先どうなるか知らないけど、国連とか国際機関の活動が継承されていくことを抜きに、国際的な秩序は変わっては行かないはずで、国際的な司法とか国際的な行政がどのように遂行され、その業務に携わる人がどのような言語能力を求められるのかってことも、この手の問題を考えるときに重要なことかと思う。
http://kw.allabout.co.jp/glossary/g_career/w003650.htm
そういうことに関しては、前にこんなことを書いた。
なぜ死刑をとめるために様々な努力が傾けられてきたのか。そんなことを考えていて、国際刑事裁判所のことを思い出した。
何百人、何千人を殺すような犯罪を犯した個人を有罪として裁いても、死刑にはしない、という制度をすでに日本も含めた多くの国が認めてその運営に協力しているわけで、そのために払われた知的だったり政治的だったりする努力は、そう簡単に無かったことにできるものではないというのは、そんなに考えなくてもわかる。
死刑のこと - 白鳥のめがね
国際機関と諸々の国家とNGOとの複雑な関わり、そこで国際的な政治秩序がさまざまなステータスの遂行者によって作られてきたことについては、僕は主に最上敏樹さんの本から学んだので、紹介しておきたい。
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さて、弾さんが参照しているid:reponさんの文章が多少なりとも混乱しているのは、公用語という言語のあり方にリアリティを感じられていないからだと思う。
そもそもなぜ「言文一致」という行為、つまり話し言葉と書き言葉を一致させる運動が起きたかというと、「国民共通の書き言葉」が必要だったからです。
なぜか。国民共通の言葉がなければ、「法律」が書けないからです。そして、国家としての統一が取れないからです。
まず、明治時代に整えられた法律とかを考えてみると、決して、二葉亭四迷とか漱石とかの「言文一致」と同じ質の文ではないですよね。法律家の間で共有できる書き言葉を明治国家は形成し、法律に従って行政やら司法やらを運営できる専門家を養成したわけです。法律に使われる公用語としての近代日本語は、とても一般庶民が理解できるものではなかったはずで、近代国家を成り立たせるためには、むしろ一般庶民が使うのと別の言語を作る必要があったとさえ、いえるかも知れない。
明治期の公用語としての文語調日本語は、西欧の法律を模範にした翻訳の中で生み出されてきた、それ自体奇妙なキメラ的産物だったはずで、その言葉の成立自体が、江戸時代の司法や行政の言葉を駆逐し、新国家を樹立し、旧秩序を葬り去る運動だったわけです*3。
そういういきさつについて、『滝の白糸』のストーリとかを思い出しても良いかもしれない。
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法律家を目指す学生と女芸人は、親密な間柄としておなじ言葉でコミュニケーションできるけど、法廷では、まったく別の言語遂行能力を持ったものとして、対面するわけです。
向学心を少なからず持っているreponさんがそこを見落としてしまっているのは、reponさん個人の不勉強というよりも、日本で公用語と母語の違いが意識されないようになっている、それこそ戦後教育なり何なりが隠微に抑圧してきたものがあるからじゃないかと思ったりする。
富国強兵による国民皆兵制度を支えるためにも、言葉を共通のものにすることが必要でした(略)。
命令が正しく伝わらなければ、軍隊が統一した行動を取ることは出来ませんから。
(同上)
ここでも、文語と口語の違い、母語と公用語の違いが、整理されていない。
たとえば、教育勅語や軍人勅諭は文語調だったはずです。言文一致運動と、国家の指令を口語や文語で下すこととは、とっても別のことだ。
そこで、文語調が持っていた権威と、日本になっていた地域で使われた諸々の母語との落差を考えてみるべきかもしれません。
それから、軍隊では、口頭でも使われるとても奇妙な軍隊用語を覚えなければならない。
軍隊用語が文学と切り結んだ本質的な関係については、井口時男さんの本が重要な指摘をしています。
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ちょっと考えてみたらわかるけど、日本という領域で英語が公用語となり、日本語が公用語として一切使われなくなる状況というのは、法律にかかわる文章がすべて英語に置き換わるということで、過去の判例とかを日本語では読まないで裁判がなされるようになる状況っていうのは、不可能ではないにしても、そこで実務的に要請されるコストや現場での混乱というのは、秩序を維持するという観点からは、桁外れのものかと思います*4。
あるいは、公務員すべてに、英語で下された通達や法律文書通りに行政を行うように行政事務遂行上のコミュニケーションが混乱なく行えるように秩序を切り替えるというのも同様です。
現状でも、明治期の法律文書が修正を施されているにしても、機能しているわけですから、まあ、明治維新くらいの社会変動が起きないと、公用語としての日本語が亡びることはない。
逆に言えば、行政や司法や政治の場で使われてきた近代日本語のレガシーは、正の遺産でもあれば、負の遺産でもあるということです。
むしろ、負の遺産が清算できないことのほうが、大いに問題なのかもしれませんが。ゾンビ化する近代公用語としての日本語。
あるいは、今まさに「公用語の言文一致化」を日本国は進めていると言えるかもしれません。そのことの意義やそのもたらす結果がどうなるかは、別に考えるべきことでしょうが。
国際公用語としてのステータスを持った言語が、その地位を失うとはどういうことかも、ある程度類比的に考えられると思います。維新みたいな政治的な盛り上がりが国際的に要請されるでしょう*5。
蛇足として付言すれば、公用語としての言語の地位は、文学語としての言語の地位を左右しないわけがないでしょう。議論のうえでそれらの水準を区別するとしても、それは便宜的なものにとどまるはずです。
あと、「近代日本語に弔いを」というタイトルで何回か書くつもりですが、私の目標は、岸井さんのやろうとしていることの宣伝を請け負うようなことです。
『日本語が滅びるとき』を読んだ | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ
終わるルーチンワーク、始まる何か - 白鳥のめがね
*1:同じようなことを考えて書いていた人が先にいたかもしれませんが、時間が無いので十分検索調査できなかったことをあらかじめお詫びしておきます。そういう話先に書いているひとがいるようでしたら、コメントなりトラバなりでお知らせください。
*2:ケベックとアフリカが同等に並べられることにめまいを感じないといけない。どちらも地域の名前だとしても、名前が公的機関に結びつく違いをちょっと考えておいても良いかもしれない
*3:日本の近代が成立する上で、王党派的なナショナリズムが江戸復古、徳川復古という方向では育たなかったってことはいろいろ考えてみて良いことの様な気がする。江戸時代が江戸時代と命名されて回顧されるようになったときに、幕藩体制という前近代的(?)な国家秩序とその下でしか成り立たない文化的な土壌があったということが、すっかり弔われて成仏してしまったみたいだ。
*4:一連の議論でそこまで強い脱日本語論を説いている人はさすがにいないのかもしれないけど
*5:追記:水村美苗さんはEUでも公用語は23あるけど英語が共通語として幅をきかせているのは誰もが知ること、という風に書いていた。私はまだ新潮に掲載されていた部分しか読んでいないので、国際公用語としてのフランス語の地位について、それ以上の議論があるのかどうか知らない。実際のところ、公用語としてのフランス語が国際機関でどんなふうに用いられているのかもあまり知らない。国際公務員になるくらいの人は英語もできて当たり前だろうから、日本で日本語が公用語でなくなるって議論と類比してもあまり意味は無いなとあとで気がついて、日本語が公用語で無くなるっていう上の議論は全部書き直そうかとおもったけど、単に冗長に当たり前のことを言っていてかっこ悪いだけで別に間違ったことを書いているわけではないので、一応そのままにしておく。まあでも、フランス語を国際公用語として用いるのをやめるという政治的決定は、かなり大掛かりな国連改革を伴わないと実行には移されないだろうし、その場合には建前に過ぎないとしても、国連の理念が根本的に問い直されることになるだろうな、ということくらいはなんとなく予想できる