近代日本語に弔いを(6) −残された音の痕跡−

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70年代初頭、30歳を過ぎたばかりの吉増剛造万葉集を読む。

昭和三十年代後半に青春期をむかえたものの例にもれず、ロックの発生期あるいはモダンジャズの世代であり、(略)・・・朝にモダンジャズを聞き、「万葉集」を読んで巻三の「みつみつし久米の若子がい触れけむ磯の草根の枯れまし惜しも」という歌がなぜか無性に美しく思われてくるのだった。
「古代歌謡の息吹き」『わたしは燃えたつ蜃気楼 (1976年)

このころ、吉増剛造は、万葉集の響きの豊かさに触れることは、ボブ・ディランの声に感銘を受けることに通じると語っている。

歌うとも語っているともとれる彼の声を発する口もとで、唇のところに言葉以前の響きがブッブッブッと渦巻くようにひしめきあうのを聞いて驚いたことに似ている。
「打ち靡く言葉」『わたしは燃えたつ蜃気楼 (1976年)

吉増剛造にとって万葉集への入り口は「咽が窓を開くよう」に肉声を喚起するような響きの印象だったのであり、吉増剛造の耳は、ボブ・ディランのレコードに彼の身体をイメージするようにして、万葉集として残された文字を響かせている。


万葉集の最初の歌を引用してみる。原文、訓読、かなの順に同じ歌の別表記。

篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母

篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

こもよ,みこもち,ふくしもよ,みぶくしもち,このをかに,なつますこ,いへきかな,のらさね,そらみつ,やまとのくには,おしなべて,われこそをれ,しきなべて,われこそませ,われこそば,のらめ,いへをもなをも

http://etext.lib.virginia.edu/japanese/manyoshu/AnoMany.html


万葉仮名で書かれた原文は、かな文字が生まれる前の表記法なわけだけど、表音的にだけ漢字が用いられていたわけではなくて、「蜂音」と書いて 「ぶ」と読ませるような当て字のような遊びもあって*2本居宣長など国学者が解読するまで読めない文字もたくさんあった。万葉集には、いまだに読み方が定まらないままの文字もある。

ところで、平安朝の文学として残されている言葉は、今の日本の言葉と比べて、だいぶ発音が違っていたことがわかっている。国語の授業で、昔の言葉を再現したレコードをきかされたことを覚えているけど、だいぶ奇妙で外国語のように聞こえた。奈良時代以前の言葉は、もっと違うはずだ。

ハ行の子音はおそらく両唇摩擦音([ɸ]。「ふぁふぃふふぇふぉ」のような音)であった。
中古日本語 - Wikipedia

子音も当時から現在にかけて少しずつ弱化しているため、上代日本語の子音は現代日本語より強い音になっている傾向がある(例:「母」上代にはpapaと発音したが弱化して中世にはfafaになり、やがてhawaあるいはhahaと言うようになった)
上代日本語 - Wikipedia


万葉仮名の表記には、今の50音のかなよりも多くの書き分けがされていることが明らかにされている。

現代日本語の50音のうち、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ及びエの14音について奈良時代以前の上代には甲類と乙類の万葉仮名の書き分けが見られ、両者は厳格に区別されていたことがわかっている。
上代特殊仮名遣 - Wikipedia

そこから、万葉集の頃の言葉には母音が8音あったという説が唱えられ、それに異論が出され、いまだに議論に決着がついていないということだ*3

細かい話はおくとして、ひとつ確認しておきたいのは、万葉仮名で残された万葉集を現代の日本語読者はたいてい訓読された文*4で読んでいて、その時点で万葉仮名にこめられた文化的な差異のうずまく世界とはまったく別の光景を見ているってことだ。

万葉集の言葉は、今の日本語と因果的に連鎖している。しかし、万葉集に写された音は、たんだん変わっていくうちに、誰ももう継承していない音として消えてしまった。
万葉集の文字も、現代仮名遣いとリンクしている。しかし、その表記に反映されていた遊びや、シリアスな状況は、今は一部の専門家によって暗号のように解読されるだけだ。
そういう意味では、万葉集の言葉は亡びてしまったが、しかし、受け継がれている。

おそらく吉増剛造も原文ではなく訓読された文を見ていたと思う。その印刷されて普及している万葉集ボブ・ディランを聞くように読む吉増剛造の耳は、万葉集としてかつて写された言葉の響きとは、まったく違う響きをイメージさせているはずだけど、それでもその響きは、古代の言葉が別の姿でよみがえったものなのであり、別の仕方で変換されても、まだ、古代の言葉の豊かさが、響いてくるってことなのだと思う。

私たちは近代日本語が響く世界から遠ざかっている。というよりも、日本は自ら、戦争をしたり、経済発展をしたりして、近代日本語が響く世界を切り崩してきた。

しかし、それで残された文字が消えたわけではない。もう誰も、近代日本において文字に写された音を想像できなくなったとしても、その文字が痕跡として帯びている差異は、さまざまな触発する力を蔵して、予想外のドラマにむかっていつだって開かれている。文字として消滅してしまわないかぎり。

☆関連リンク

万葉集というのはとても複雑な構成を持って残されていて、そのこと自体が遠い昔奈良あたりにあったとある国がたどった文化的盛衰のドラマを髣髴とさせる。
万葉集 - Wikipedia

万葉集の古い写本が画像で公開されている。
トップページ | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

古い言葉について集大成したみたいな辞書の序文とか。
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/ja/times_jal/subPage8.html

*1:写真は、平林寺の納屋にある洗濯機

*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE%E5%90%8D

*3:『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い』という本が出て最近ちょっと話題になっていたらしい。http://www.ops.dti.ne.jp/~kanpon/HAKUSUKINOE.htm

*4:どう訓読するかでいくつもの版があったりするので、どれで読むかで印象は変わっててきたりするということもあるけど