地元/地政学/ポストモダン以降

2008年は、一連のケータイ小説研究と、『ゼロ年代の想像力』と『日本語が亡びるとき』が出版される必然性があった一年であったということでしょう。これらの著作は同時に読まれなければならない。
というわけで今日は、昨年考えていたいくつかのテーマに響くあれこれの記事をリンクしてみます*1

90年代位から、もはやポストモダンとは呼べない新たなタイプの言説が見られるようになった(略)なぜポストモダンではないかといえば、そこにはある種の必然性、自然主義、つまり「大きな物語」が再び顔を出しているからである。それが「世界化(mondialisation, globalisation)」の時代である。われわれはいわば束の間の幸福な時代としてのポストモダンを脱出し、経済原理に支配された、9・11に象徴される「世界化」という脅威の時代に入った。「世界化」の「世界(globus)」とは地理的・歴史的に飽和された全体性であり、あらゆるところが同時に同じ濃密なプロセスに晒されている。このカタストロフィックな時代に、しかし注目を集めている2つの言説がある。すなわち「生政治(biopolitique)」、そして「地政学(géopolitique)」である。すぐれて「世界化」の時代に相応しいこれらの言説は、「世界史」と「世界化」の対立を前にして、歴史哲学とは異なったかたちで歴史を思考し直すための突破口を与えてくれはしないだろうか。
【報告】グローバリゼーションの時代における明け開き――フランシスコ・ナイシュタット・セミナー「世界と時間」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy


地政学」的な見方と言うと、ケータイ小説の背景にある「ヤンキー文化」に光を当てた

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

は、『ゼロ年代の想像力』よりもはるかに具体的で意義深いと思います*2。『ゼロ年代の想像力』に欠けている、ないし黙殺しているのは、さまざまな共同性が生み出されてくる地政学的な差異に対する感覚だと思う。

次に、『開かれていて閉じている』をめぐって考えたいくつかのこと
playworks#0をみた - 白鳥のめがね
沈黙のトークショー第五部 - 白鳥のめがね
をめぐって考えを進めるためのヒントかな、と思う記事をリンク。

日本市場に向けて内向き志向でいても、その対象となる内が急速に広がるんじゃないかと。国境線とか、政治体制とか、人口とかじゃないですよ。それまで明確だと思っていた日本的なるものの境目が溶けていくんだろうということです。その結果、日本市場なるものは、もっと広い複数のハブへと分かれ、溶けていくんだと思う。そういう節目節目での境目の溶解が日本の歴史の一つの特徴だと僕は思います。
http://kousyoublog.jp/?eid=2032


あと、『ゼロ年代の想像力』を批判した前回のエントリー末尾に走り書きしたモチーフにつながるかもしれない何か。

自分を免罪してしまわないとすれば、理論の単純化も、現実の矮小化も退けて、現実をその多様さにおいて認めるための努力を続けるほかない
『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版) - 白鳥のめがね

ハーバーマスデリダのヨーロッパ 三島憲一 (PDF 早稻田政治經濟學誌No.362,2006年1月,4-18)

90 年代のデリダハーバーマスの対立の経緯、および00年代になって収束した対立について詳しく書かれている。これを読んでみると、東浩紀氏が自身の歴史認識のありかたをデリダを通ったせいにするのは誠意がないなあ、と思う。

2009-01-05 - kom’s log


前回の記事を校正のために自分で何度か読み直してみて*3、なんだかまじめくさっていていやだなあと思うのだけど、「免罪してはならない」なんてことは無いと思うんですよね。責任だっていろいろ分散していいわけだし。

ただ、批判とかしようとするときは話が違うわけで。責任は問われてしかるべきだ。

日比谷派遣村についてブログやミクシイの日記を検索すると、批判的な発言が頻出している。
しかし、それらの批判の中には、誤解や無知に基づくものが少なくない。
具体的にどういう誤解や無知が存在しているのか、その背景を含めて検証を試みたい。
派遣村への誤解や無知の頻出と、その背景(1) - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)

こういう記事こそ、真摯でエレガントなコミュニケーションの作法の実例かなと思う。


あと、前回の記事は「脊椎反射的ブクマコメント」をいただけて、そういうの初めてだったので楽しかったです。

TakahashiMasaki 惑星なんとか委員会に倫理なんてあんのか(たんにおたくきもいとか言ってそうなとこじゃないの
はてなブックマーク - 『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版) - 白鳥のめがね

まあ、口では偉そうに「こうあるべし」と言って(要請して)いる倫理を自らの言動で裏切っているってことを言いたかったので、実態において倫理を欠いているってのはぼくも認めているわけですけどね。

ゼロ年代の想像力』ってまあつまり、似非文化左翼的っていうか、「カルチュラルスタディーズの劣化コピー」みたいなもんになってしまってるわけだよね。そこから得るものがある人がいたらそれはそれで良いけど。


宇野常寛的なんちゃってカルスタの意義
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』 - logical cypher scape2

*1:はてなブックマークとか、埋もれるのも早いような気がしている。あくまで自分で脈絡をつけてリンクを貼りたいというのは、でも、テキストサイトとか日記サービス全盛期の古い感覚なのかもしれないですね。

*2:調査が不十分で仮説に終わっているところがいくつかあるのが残念。アカデミックな論文じゃないからとはいえ、その点で迫力に欠けるきらいはある

*3:微妙な言い回しとか最初のメモにだいぶ手を入れてますが。