「英雄としての文化人類学者」再読/冷たい社会と歴史の外の自由

あの人もこの人も鬼籍に入っていくので高齢の方々がご存命かどうかあやふやになってしまう昨今ではありますが、つい先だって、レヴィ=ストロースってたしかまだ生きてるよね、とかと知人と話したばかりだったのを思い出す。寒い朝twitterで訃報に接する平成二十一年霜月初旬です。

僕はレヴィ=ストロースはほとんど読んだことなくて、彼自身がフィールドワークで撮った写真を集めた写真集『ブラジルへの郷愁』を見たことがあるくらいだ。

http://lh6.ggpht.com/_eAoc9EaV7Tk/Sqz_uffA6-I/AAAAAAAAB0U/LsdundORPv8/s512/16-Nambikwara.jpg

Saudades Do Brasil: A Photographic Memoir - Google Search

というわけで、訃報を聞いて、いくつか追悼記事を読みました。
批評家・福嶋亮大のブログを読むとこんなことが書いてあった。

レヴィ=ストロースはコンピュータ工学や通信工学のインパクトを受けて、自身の神話論を構想した。コンピュータの計算能力が、物事をより細密に観察する技術を与え、そこから得られた小さなデータの組み合わせによって、新しい表現が構想できるようになった。その技術的発明が、神話論の背景になっています。他方、現代のインターネットはコンピュータの計算力もさることながら、人間の集合的な計算力によって、物事を分割している。たとえば、ニコニコ動画は、人間のいいかげんな計算を動画の細かいデータ化に誘導する装置(=メタデータの発達)を備えているからこそ「行く度にアトラクションが変わる遊園地」のようなリゾーム的世界を構築できている。いずれにせよ、神話的なもの(セミ・ラティス構造)というのは、計算の質が変わり、組み合わせの方法論が変われば、たえず形を変えて出てくるものなわけです。
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/beea8c7090b98cbcda5b79e082e56a5f

それで、ちょっと気になってソンタグの『反解釈』に収められている「英雄としての文化人類学者」を思い出したのでこの機会に読み返してみた。

そこでソンタグは、ルクレティウス的なペシミズムで人間を見る存在としてレヴィ=ストロースを描きつつ「レヴィ=ストロースにとって、人類学は精神分析学と同様に、すぐれて個人的な類の知的訓練」であるとまとめていく。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

アメリカで1961年に『悲しき熱帯』の英訳が出版されたとき、恥ずかしいくらい無視されたが、これは20世紀を代表する偉大な本だ」とソンタグは書いている。この論文の書き出しは「われわれの時代の最も真面目な思想は、故郷喪失感を相手に格闘する」という一文から始まっていて、この時代診断は、むしろ現在の日本において、より厳しく実感されるものじゃないかという気がする。

ソンタグは、当時アメリカでは一般にあまり知られていなかったレヴィ=ストロースを紹介するのに、先行するイギリスやフランスの人類学者との相違を細かく注記しながら、ヤコブソンとの関連も押さえつつ「神話の諸要素をコンピューターで処理できるようになっている」と書いていて、アメリカとの親縁性を強調してみせるのを忘れない。

そして、『野生の思考』のサルトル批判に触れながら、ジュネに入れあげるサルトルとの対比で、アラン・レネロブ=グリエの名前を挙げつつフランスの<幾何学的精神>の系譜にレヴィ=ストロースを位置付けてもいる。このあたりは、ヨーロッパの思想や文学を貪欲に摂取しながら、60年代をリードした批評家の面目躍如といったところ。

レヴィ=ストロースマルクス主義者だったこと、そして弟子にも元マルクス主義者が集まっていたことを「未来に恭敬をささげることができないので過去に恭敬をささげている」と、すこし皮肉に素描してみせたあとで、「究極的には、レヴィ=ストロースの極端な形式主義はひとつの倫理的選択であり、社会的完成のヴィジョンでもある」として、どんな批判者もそのことにまともに取り組まないといけない、と言っている。

歴史的進歩にかりたてられる「熱い社会」に対して、レヴィ=ストロースは、未開社会を「静的で結晶性の調和的な社会」=「冷たい社会」とみなしたとまとめつつ、ソンタグは、レヴィ=ストロースコレージュ・ド・フランスでの就任公演を「マルクスよりもあとの、自由のヴィジョンの素描」として引用する。以下、ソンタグからの孫引き。

歴史の外に・歴史の上に位置するようになった社会が、ふたたびあの規則正しい、結晶体さながらの構造をもつようになるであろう。

それで、福嶋亮大さんによる追悼記事を読んで、東浩紀を中心に、アーキテクチャーうんぬん一般意思2.0うんぬんという風に進んでいる議論の束というか、クラスターというか、その周辺の言論は、どこかで、「静的で結晶性の調和的な社会」という意味での「冷たい社会」を歴史の外にユートピアとして思い描いているようでもあるなあ、と思ったりした*1

東浩紀あたりが人文的教養の仕切り直し屋として生計を立てようと奮闘しているスタンスを見ると、60年代のアメリカの知的状況にある種の苛立ちを隠さずに介入しようとするときのソンタグが紹介者としてヨーロッパ的教養を代弁するようなスタンスでいるのと、どこかで平行関係があるように見える感じもある*2

20世紀のアメリカもヨーロッパも、過ぎた現象として見ることができるようになって、先行者としてではなくソンタグを読むことができるからこそ、そんな平行関係が、ひょっとしたらある種の錯視として、浮かび上がってくるということかもしれないけれど、それは逆に、戦後日本の文化状況を相対化する足場になるかもしれない。

こんな視点からも、いろいろ振り返ってみるべきことがあるだろう。

※参考リンク
物理学科の学生が20世紀思想を知る為の二冊:呂律 / a mode distinction
yanoz on Twitter: "なるほど。 RT 「変換」がマジックワードになっているので、その後に登場する「変化しながら多様性を生成」とか「連なり」とかいった言葉も宙に浮いてしまっている(=何を指すのかわからないまま)。 http://ow.ly/zlfw (via @contractio) *Tw*"
レヴィ=ストロース鎮魂のため数学野郎にお願い(追記アリ - 地下生活者の手遊び

追悼レヴィ=ストロース - 内田樹の研究室

*1:サルトル先生の代わりに、東浩紀には「以文社系」とか、歴史とアンガージュマンの筵旗を掲げる論者とかがいて、けん制してみせている、みたいな

*2:たとえば、ソンタグにとってのキャンプ趣味と、東浩紀にとっての<萌え>、とか言ってみてもいいのだろう。アカデミックな世界の外、一般的な社会慣習の外で、批評的に振る舞う者。