近代批評としての『YASUJI東京』

このあいだ杉浦日向子の『YASUJI東京』を読んで、これはマンガによる批評だと思った。

YASUJI東京 (ちくま文庫)

YASUJI東京 (ちくま文庫)

と思って検索してみたら、もう夏目房之介が指摘してた。さすがの慧眼。

『YASUJI東京』は、珍しく筆者を連想させる女性が現代の東京に登場する。彼女が、はかなく消えゆく江戸を明治東京の風景として描いた清親の絵と、彼の弟子に思いをはせながら、彼らの絵を通して自分の中の江戸の感覚に近づいていこうとする。

いわば、杉浦自身が自分の「江戸マンガ」のモチーフに、清親、安治を批評することで迫ろうととする、多分杉浦唯一の自己批評的作品なのだ。雪の中で、風景を描く清親の後ろ、寒そうにじっと覗いている少年・安治には、おそらく杉浦自身の影が落ちている。顔がみえないのは、雪のせいばかりでなく、そこに作者自身が投影されているからかもしれない。
A Manga Stroll

マンガの表現技術やスタイルが批評をも可能にするまで円熟していたっていうか、日本の近代批評のスタイルはマンガの形式にマッチするようなものであった、というか。

エンタメ、とは「酔っ払うことかもしれない」、と最近良くそう思う。つまり他人(作中の)の不幸や壮絶な人生をダシにしてその場限りで酔う、ということ。
(中略)
杉浦日向子氏はこの本の中で「夭折の天才なら酔わせてほしい」という男性に対し「でも私、しらふ(白面)でいたいよ。」と言わせている。(たぶん御本人。)
 そういうところが好きなのだ。
YASUJI東京 赤エイの徒然読書画帳/ウェブリブログ

杉浦日向子は作品や作家に単に耽溺するのではない仕方でどこまでも近付こうとしていて、自身の夢について懐疑的に語ろうとしているみたいでもあり、月夜の猫に類しているなんてあえて言ったりはしないけど、自分の目線について自分の目線から語ることで批評的であろうとしている。

美しい夜の日向の子。