続きのブログなど

「白鳥のめがね」は、もう更新しなくなっているのでその後書いているブログなどをまとめておきます。


続きのブログ記事はこちら。

http://blog.livedoor.jp/plankblank/archives/487019.html

書評や芸術作品について書いていた。


その後、日記的な内容を次のブログに書くようになった。

http://yanoz.hatenablog.com/

 

また、学術思想系の話題はこちらのブログに書いている。

「思想の読み書き」

http://readthink.hatenablog.com/


あわせてお読み頂ければ幸いです。

クロムモリブデン『恋する剥製』

クロムモリブデン自体はじめてみるけど、名前は聞いたことがあった。

作風としては、すこしスタイリッシュで軽快だけど、基本は王道の小劇場スタイルというか、80年代以降の良くあるタイプの演劇の範囲に収まっているとは言えると思う。

だから、僕みたいな観客からすると、あまり趣味ではない。まあなので、わりと無責任にたのしんで見た。

王道の小劇場スタイルって書いたけど、たとえば宮沢章夫さんなんかにしてもケラとか鴻上さんとかにしても、劇作家兼エッセイストみたいなポジションというのがある。

わりと、軽快でナンセンスな喜劇的な調子の上に、世の中ちょっと別の視点で見てみると面白い発見があるという風なエッセイスト的な気付きを乗せていく、という風な仕方で、ちょっとした生きづらさみたいなものへの諧謔をちょっとひねって共感しあうみたいな場所としての小劇場という空間って、あったと思うんですよね。そういう意味での、小劇場の王道。もう、このまま続けると消費社会の古典芸能として成立するよなって感じの、王道。

その王道の小劇場って、裏返して悪くいえば、こてこてに保守本流な小劇場って言い換えられるのだけど、そんな風なことを平気で言える自分でも楽しんでみられたのは、やっぱり役者のキャラクターが躍動するままに舞台に造形され定着されていたからなんだろうと思う。

ちょっと様式化されたキャラクターたちが、飛んだり跳ねたり踊ったりする。ってつまり、古典的な意味での喜劇として成り立っているってことなんですよね。

そういう喜劇が、消費社会的な世界を解釈する枠組みとして捉えられたのが、80年代に様式として固まった小劇場ということなんだと思うわけです。クロムモリブデンは、その直系の伝統を芸能として継承しているよな、と思う。

客演の小林タクシーさんも、でたらめな屁理屈で煙に巻く怪しげなキャラを見事に立てていたし、それぞれの女優もコメディ女優として素敵だったし。

おしゃれにはなりきらず、かといって、無粋にもなりきらず、ってあたりの絶妙な線で、ちょっと考えちゃったりもするコメディとして成立していたと思う。

それぞれ魅力的だったけど、役者さんを二人選ぶとすると、男性では、体育教師風の社会科の先生をやってた人(コガ役の小林義典さん?)のコクのある身体性は舞台にアクセントを加えていてよかった。女性ではクロエ役の金沢涼恵さんは良かったですね。

金沢さんの、ちょっと浮世離れしたキャラクターで、教祖的な存在にまつり上げられていくふうな、禁欲的で現世超越的で理想がかった抽象的な語りや、硬いけどぶれない風な、ちょっと世間との間に膜が張られているみたいな表情のあり方とか、とても説得力のある演技で、とても強く成り立っていたと思う。

そういうところのモノローグの書き方とか、演出の立て方とか、作・演した、青木さんの才気を感じさせる。

まあでも脚本としては、一見ばらばらででたらめなストーリーがたまたま隣の部屋だったので全部収束しそうなんだけど、ストーリーとしては収束させずに、移動する壁を駆使して、無声映画スラップスティックみたいに軽快で、でもスピード感ある舞台転換を畳み掛けたアクションで終わらせるというあたりも、ちょっと小洒落ていて、人間の機微みたいなものを剥製って言い換えちゃう風刺なり諧謔なりを、象徴的に形象してみせていたりした。
悪く言えば思わせぶりに煙にまいちゃっている。

そういうあたり、ロジカルには隙だらけでご都合主義で、いいかげんっていってもナンセンスには徹しきれないあたり、そのいいかげんさもどこか不徹底なのはご愛嬌という感じで、そこが良くも悪くもレイト戦後時代の小劇場様式という風情ではあった。

だから、小劇場風コメディを楽しめるひとは楽しんでみたらいい。でも、吉本新喜劇の方がロバストなのは間違いないから、楽しめる人はあらかじめ限られているのかな、とも思う。でも、そこに文句をつけてもあまり意味は無いんだろう。

ところで、こういう考え方は筋が良くないとは思うけど、唐突ながら率直に思ったことを書いておくと、ベンヤミンが『ドイツ哀悼劇の根源』で行った作業って、マイナーな戯曲を丹念に読み解きながら時代を解剖するようなことで、そういう作業を、70年代中頃から始まって、80年代以降に様式として固定されていき、ある種のシーンを細々と継続してきた日本の小劇場演劇の型に対して行う余地はきっと残されているのだろうなあという風なことを思わないでもなかった。

どこかで、皮肉さにリミッターがかかっているのは、きっと、劇場という場所を肯定する仕方が問題なのだろうし、それは、喜劇とエッセイの様式が世界解釈の枠として、折衷的に要請される=サブカル性ってあたりに分析の肝があるような気もするけど、そんなのとっくにマンガ評論とかで萌芽的にではあれ誰かが語っていたことかもしれない。

※出演している小林タクシーさんにご招待いただいて、見た。

鰰[hatahata]『動け! 人間!』(「深海魚」)

昨年のりたーんずでは、神里さんと白神さんが一押し二押しの自分だったので、ふたりのユニット鰰はだいぶ楽しみにしていた。鰰ははじめ「神々」という名前で発表されていたけど、それが鰰に変わることも含めて、楽しんでいた。「深海魚」を一回だけみた。
http://hatahata.sitemix.jp/

一緒に見に行ったひとがとても喜んでいて、そのひとはそんなに舞台を見る人ではないので、演技やパフォーマンスのあり方とか、構成や筋立てのあり方だとか、複雑で突飛だったりして、とても親切というわけではなかったけど、伝わる人にはちゃんと伝わる質のものだったのだろうと思う。

僕としては、神里さんと白神さんが組んで、これだけのパフォーマーを集めたら、このくらいにはなるだろうという範囲に収まった舞台だったように思えて、楽しんだけど、冷静だった。

神里さんと白神さんとでは、現状に対してというか現代に対する姿勢というか、アクチュアルさに絶妙な違いがあるような気がする。表面的には、神里さんは切迫感が強くて、白神さんはのんびりしているようにも見える。でも、体感的に現代に向き合っている仕方は、そんな単純な二分法にはおさまらないものがあるのだろう。

いずれにしても、劇場を前提にして、現代的なことをする上で、最適解とはいえないとしても、模範的な回答とは言えるような舞台だったと思う。

これはたぶん、今見ておかないと意味の無いことなのだ。

でも、こういうテイストは、90年代の舞台にもあったよな、という風なことを少し思った。ハイレグジーザスのこととか、時々自動のこととかを思い出したりもした。

とはいえ、先行する物が忘れられているから、新鮮に見えているだけだ、みたいなことが言いたいわけではない。

つまり鰰も、ひとつの王道を行っているし、そういう道は突然ひらけたわけでもないし、直接間接に継承された発想や技法や舞台コンセプトが、しかし手持ちの道具として、まっとうに活用されている。それで十分だということだ。

そういう意味で、こういう類の舞台は、もっと見られて良いだろうと思った。

追記)
澄井葵さんが引用してくれた。考えを触発できたみたいでうれしい。
それだ。 | お腹痛くて2ステップ

百景社『しらみとり夫人/バーサよりよろしく』

SENTIVAL!の参加作品ということで、見に行った。
http://pull-top.jp/sentival.html

テネシー・ウィリアムズの短編を二本連続上演するもの。
百景社を見るのははじめて。利賀村の流れという印象は強かったけれど、どこかポップな諧謔みたいなものがあるような感じもして好感を持った。岡崎芸術座あたりと比べて論じられるべき傾向があるよな、という風に思う。

たとえば、『しらみとり夫人』では、女装した男優(村上厚二)が演じるという枠組み自体が、嘘で虚栄を守ろうとする夫人というテーマを示していて、俳優が舞台の上で演じてみせるということ自体が、劇中の夫人が現実から夢の世界に逃避するような惨めさをそのまま皮肉に、滑稽に、示してみせるような仕掛けになっている*1

『バーサによろしく』では、病や貧困という重荷にさいなまれる娼婦の苦悶を、女優(梅原愛子)にバケツを持たせ、そこに水を注いでいって、重さに耐えさせる、というフィジカルな条件において比喩的に示してみせる、という仕掛けになっている。

こうした、ドラマの構造を舞台の仕掛けに転換してしまうという仕掛けは、原作のドラマを括弧入れするアイロニカルな作法であるけど、そういうコミカルでもある落差が俳優自身の課題とドラマ的な構図が一致するという短絡を介して、妙なペーソスみたいなものが生まれてくる。

仕掛けとして、特別斬新というわけでもなく、そういうドラマの仕掛けへの翻訳によって提示されているのは、俳優たちの演技そのものであり、そこに示される演技の理念は、俳優それぞれの個性を一定の枠の中でめりはりをつけて生かそうとするという、むしろ素朴なものだった気がする*2

ただ、それぞれの役者さんが与えられた条件においてのびのびと演じている姿が、ある種の皮肉さをあっけらかんと肯定している風にも見えて、楽しく見終えた。

http://www17.plala.or.jp/hyakkeisya/

*1:公演のちらしは、若い女の横顔にも、老婆の顔にも見えるだまし絵になっていたけど、今思うと、そういう二重写しの構造を一貫した舞台だったということでしたね

*2:その点で、徹底性や現代的状況との向かい方という面で、岡崎芸術座よりも微温的という風な評価も許してしまっているかもしれない

アップリンクで「文(かきことば)」

PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』の二日目を見た。
PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

「文(かきことば)」は、今までのスタジオでの試演会を何度か見てきていて*1、ソロとしては伊東沙保さんが昨年の渋谷で上演したものがひとつの完成形を示していたのだろう。これは、YouTubeでも公開されていて、その達成は多くの人が映像を見ただけで説得されるところがあったと思う。


それで、今回のアップリンクファクトリーでの上演が、文(かきことば)の、劇場でのお披露目といった感じで、今までよりも広い公衆に向けてその達成が試されたわけだが、今までの試演と比べて今回の上演にはいくつか新しいポイントがあっただろう。

ひとつには、試演会には参加していなかった新しいパフォーマーの参加。大道寺梨乃(快快)、立蔵葉子(青年団)、矢木奏の三人。
昨年の曳船ロビーで、「文」の稽古に新しい参加者がいるという噂は聞いていたけど、伊東さんが完成に向かうのとは違う仕方で、それぞれに「文」の方法論を出発点に各自のパフォーマンスを一定の域で達成していたようにおもう。
新メンバーのソロで言うと、大道寺さんのてきぱきとした勢いのよさ、立蔵さんの、ぼんやりとしているようでしかし丁寧に動きが置かれていく感じ、それぞれの質を楽しく見させていただいた。
新しい方法論になじみ始めたところで、自分の演技が組み立てなおされているような、その新鮮さに触れられたのは良かった。

今までのメンバーのソロも、方法論をさらに咀嚼していたり、あるいは完成したものを組み立てなおすような再びの出会いに向けた挑戦が感じられて、それぞれに楽しんだ。

もうひとつは、アンサンブルとしての模索がかみ合い始めていること。
今までも、「文」で複数人での試演はあったし、そのベースになっている「P」では、アンサンブルでの上演はすでになされていたというのだが、今回は、「文」以降のアンサンブルでの創作が動き始めた、その様子が示されていたところを見られて良かった。漱石夢十夜のいくつかが、ソロとして演じられ、いくつかがアンサンブルとして演じられ、アンサンブルとして完成したものもあり、未完成のものがその途上において提示されもしたのだけれど、その未完成の状態での提示も含め、「文」の方法論が集団創作としてどう機能するのかが、端的に示されていて面白く見た。今後アンサンブルとしての成熟していく姿を見てみたいと思う。

そして、「夢十夜」の「文」の方法論による上演という全体を、未完成なままに示すような様々な演出が施されていたこと。これは、「文」の方法論とは別の角度から、テキストを身振りに転換するという方法論による作品化が完成していない段階での上演という未完成さもふくめて「文」をどのように提示できるかという模索だったのだと思う。

あえて細かく描写はしないが、パフォーマーたちの出入りの仕方、演出家のコメントのさしはさみ方、あるいは、演出家としての出演の仕方、小道具の使い方などなど、複数の小品をたばねるような上演全体の枠組みが、小品それぞれの作品性を閉ざさないようにしつつ、全体として上演を未分化的な場所に開くような逆説的な作品性を持っていたと言えるだろうけれど、それは、小品それぞれのうちにある未完性さを、完結した作品と見せかけないようにするような仕掛けとしてあったかもしれず、そうした上演としての作品性は「文」の演技創造の方法論からするとまったく逆方向からのアプローチであり、あえて完成されていない面を逆に強調するかのような矛盾しさえもする演出であって、そのため、ただ単に困惑したり、単純に未熟なものにすぎないと誤解した観客もいたのだろうと思われる。

このアンビバレツには、逆説的な劇場と演劇への真摯さがあるのだろうし、作品を閉じないことによって作品にするような、こういうわかりにくさを見たとおりのわかりにくさとして受容しておくことが(一見したわかりにくさ受け取りがたさを努力の欠如とか作家の力の及ばなさといったわかりやすい図式で解釈しないでおくことが)、岸井大輔という作家の面白さに親しむ第一歩なのではないかと思う。

*1:「文」の概要については、近代日本語に弔いを(9)−「文(かきことば)」の演劇− - 白鳥のめがねに書いた。弔いというテーマと関連付けた部分はちょっとバイアスがかかりすぎている気もするので、それを差し引いて方法論だけ読み取っていただければ幸い

演劇ユニット「.5」の『ダブル』

.5(てんご)の『ダブル』を見に行った。吉祥寺のハモニカキッチンの屋上テラスで上演という企画。一度、あそこで飲んだことがあったので、改めて親しみ深い時間だった。

澄井葵さんとは岸井大輔さんのワークショップを一緒に受けたのをきっかけに、岸井さん周辺であれこれと会う機会も多くて、この日も打ち上げのあとにいろいろ話したりもしているので、そういう個人的な付き合いが前提にあるということをあらかじめことわっておいた上で、思い出すことを書いておきたい。

出演はひょっとこ乱舞の女優である笠井里美さん(小柄でショートカット、丸顔)とタカハシカナコさん(ちょっと恰幅がいい感じでどっしりした、陽気なキャラクターを感じさせる)の二人で、なかなか好対照だった。

役者二人も気分はオープンカフェといった感じのハモニカキッチンのテーブルに腰掛けていて、まるで観客と同じテーブルを囲んでいるみたいな印象。吉祥寺の裏側のトタン屋根が並ぶような屋上が見えて、猫が屋根の上を渡って行ったりする。春の西日がまぶしく照らしていて、日焼け止めが提供されたりもした。

開演のときにも、観客にそれぞれの役者が自分のプロフィールを語るみたいにして、自分の名前の由来を説明するように話し始めた内容が、自分の幼少期の思い出を語るようなのだけど、どことなく非現実的で、気がつくとその語りがもうフィクションの世界を描いているという風だった。

それぞれの役者の語りが、やがて、それぞれてんで勝手に話すうわごとのように重なり合っていって、ハモニカキッチンの狭いテラスは意識の焦点があわないようなぼんやりとした場所になっている。

それぞれの話は、どこかそれぞれの役者の身の上話みたいでもあるのだけど、小声で二人がお互いに聞いてないように内にこもった語りを続けていくと、観客としてもなんとなく注意が散漫になっていく風だった。

この作品では、声だけの出演で伊東沙保さんとチョウソンハさん。これは、iPodに入れたファイルを澄井さんがそれ用の卓上スピーカーを手に持って流していたけれど、それが散漫になった舞台にとても良いアクセントを与えているようだった。伊東さんとチョウさんの声は、ちょっとテンション高すぎなくらいで、語っている内容も初潮とかに関するちょっとエグイ話でもあって、散漫に身の上話調の話が続いていた空気がそこで一変した。

その音声が流される間にも、二人の役者の話は続いていて、はじめ座ったまま話していたのだけど、笠井さんが立ち上がって、テラスのフェンスによじ登ったりとか、ちょっと大きく動いたりする場面もあった。

語りの内容も、ラグランジュ点がどうのといったすこしダイナミックなものになっていって、二人の語りが、ぼんやりとすれ違いながら、どこかで斜めに対応するみたいな、上の空で意味を取り違えながら進む対話のように、かみ合わないけど言葉は交換されていくような展開になった。

佐々木透さんのテキストも、淡々としているようでいてメリハリがあるようで、日常会話の範囲を微妙にはみ出るかはみ出ないかといった領域をふらふらと辿る曲折のある文脈を、繊細にそれぞれの役者が形にしていっているようだった。

と、抽象的な描写に終始してしまったのは、テキストが繊細で記憶しきれなかったからで、上演台本を文字で目を通してみたかったと思う。

あまりに繊細すぎてまだ人目に触れるには早いという気がしないでもないけれど、そういう繊細さを失わずに、もっと人目に触れても負けないしなやかさを磨いてほしいなあという感想を持って帰った。

「ダブル」 | お腹痛くて2ステップ

セシル・バルモンド展

ツイッターで盛り上がっている人が居たので、気になって会期末だし、ナデガタの前に見に行ってみた。
「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界:イントロダクション|東京オペラシティ アートギャラリー
自分としては、ほとんどひっかかるものがなくて、こういうものだったらコンセプトだけ知ればよくてあえて展示を見なくても良かったなというのが正直な感想だったけど、でもそれも自分の偏りというものなんだろう。常設展の脇で展示されてた若手の作家のドローイングの方をむしろ楽しんだけど、作家名も思い出さないくらいな、そんな関わりだった。