クロムモリブデン『恋する剥製』

クロムモリブデン自体はじめてみるけど、名前は聞いたことがあった。

作風としては、すこしスタイリッシュで軽快だけど、基本は王道の小劇場スタイルというか、80年代以降の良くあるタイプの演劇の範囲に収まっているとは言えると思う。

だから、僕みたいな観客からすると、あまり趣味ではない。まあなので、わりと無責任にたのしんで見た。

王道の小劇場スタイルって書いたけど、たとえば宮沢章夫さんなんかにしてもケラとか鴻上さんとかにしても、劇作家兼エッセイストみたいなポジションというのがある。

わりと、軽快でナンセンスな喜劇的な調子の上に、世の中ちょっと別の視点で見てみると面白い発見があるという風なエッセイスト的な気付きを乗せていく、という風な仕方で、ちょっとした生きづらさみたいなものへの諧謔をちょっとひねって共感しあうみたいな場所としての小劇場という空間って、あったと思うんですよね。そういう意味での、小劇場の王道。もう、このまま続けると消費社会の古典芸能として成立するよなって感じの、王道。

その王道の小劇場って、裏返して悪くいえば、こてこてに保守本流な小劇場って言い換えられるのだけど、そんな風なことを平気で言える自分でも楽しんでみられたのは、やっぱり役者のキャラクターが躍動するままに舞台に造形され定着されていたからなんだろうと思う。

ちょっと様式化されたキャラクターたちが、飛んだり跳ねたり踊ったりする。ってつまり、古典的な意味での喜劇として成り立っているってことなんですよね。

そういう喜劇が、消費社会的な世界を解釈する枠組みとして捉えられたのが、80年代に様式として固まった小劇場ということなんだと思うわけです。クロムモリブデンは、その直系の伝統を芸能として継承しているよな、と思う。

客演の小林タクシーさんも、でたらめな屁理屈で煙に巻く怪しげなキャラを見事に立てていたし、それぞれの女優もコメディ女優として素敵だったし。

おしゃれにはなりきらず、かといって、無粋にもなりきらず、ってあたりの絶妙な線で、ちょっと考えちゃったりもするコメディとして成立していたと思う。

それぞれ魅力的だったけど、役者さんを二人選ぶとすると、男性では、体育教師風の社会科の先生をやってた人(コガ役の小林義典さん?)のコクのある身体性は舞台にアクセントを加えていてよかった。女性ではクロエ役の金沢涼恵さんは良かったですね。

金沢さんの、ちょっと浮世離れしたキャラクターで、教祖的な存在にまつり上げられていくふうな、禁欲的で現世超越的で理想がかった抽象的な語りや、硬いけどぶれない風な、ちょっと世間との間に膜が張られているみたいな表情のあり方とか、とても説得力のある演技で、とても強く成り立っていたと思う。

そういうところのモノローグの書き方とか、演出の立て方とか、作・演した、青木さんの才気を感じさせる。

まあでも脚本としては、一見ばらばらででたらめなストーリーがたまたま隣の部屋だったので全部収束しそうなんだけど、ストーリーとしては収束させずに、移動する壁を駆使して、無声映画スラップスティックみたいに軽快で、でもスピード感ある舞台転換を畳み掛けたアクションで終わらせるというあたりも、ちょっと小洒落ていて、人間の機微みたいなものを剥製って言い換えちゃう風刺なり諧謔なりを、象徴的に形象してみせていたりした。
悪く言えば思わせぶりに煙にまいちゃっている。

そういうあたり、ロジカルには隙だらけでご都合主義で、いいかげんっていってもナンセンスには徹しきれないあたり、そのいいかげんさもどこか不徹底なのはご愛嬌という感じで、そこが良くも悪くもレイト戦後時代の小劇場様式という風情ではあった。

だから、小劇場風コメディを楽しめるひとは楽しんでみたらいい。でも、吉本新喜劇の方がロバストなのは間違いないから、楽しめる人はあらかじめ限られているのかな、とも思う。でも、そこに文句をつけてもあまり意味は無いんだろう。

ところで、こういう考え方は筋が良くないとは思うけど、唐突ながら率直に思ったことを書いておくと、ベンヤミンが『ドイツ哀悼劇の根源』で行った作業って、マイナーな戯曲を丹念に読み解きながら時代を解剖するようなことで、そういう作業を、70年代中頃から始まって、80年代以降に様式として固定されていき、ある種のシーンを細々と継続してきた日本の小劇場演劇の型に対して行う余地はきっと残されているのだろうなあという風なことを思わないでもなかった。

どこかで、皮肉さにリミッターがかかっているのは、きっと、劇場という場所を肯定する仕方が問題なのだろうし、それは、喜劇とエッセイの様式が世界解釈の枠として、折衷的に要請される=サブカル性ってあたりに分析の肝があるような気もするけど、そんなのとっくにマンガ評論とかで萌芽的にではあれ誰かが語っていたことかもしれない。

※出演している小林タクシーさんにご招待いただいて、見た。

鰰[hatahata]『動け! 人間!』(「深海魚」)

昨年のりたーんずでは、神里さんと白神さんが一押し二押しの自分だったので、ふたりのユニット鰰はだいぶ楽しみにしていた。鰰ははじめ「神々」という名前で発表されていたけど、それが鰰に変わることも含めて、楽しんでいた。「深海魚」を一回だけみた。
http://hatahata.sitemix.jp/

一緒に見に行ったひとがとても喜んでいて、そのひとはそんなに舞台を見る人ではないので、演技やパフォーマンスのあり方とか、構成や筋立てのあり方だとか、複雑で突飛だったりして、とても親切というわけではなかったけど、伝わる人にはちゃんと伝わる質のものだったのだろうと思う。

僕としては、神里さんと白神さんが組んで、これだけのパフォーマーを集めたら、このくらいにはなるだろうという範囲に収まった舞台だったように思えて、楽しんだけど、冷静だった。

神里さんと白神さんとでは、現状に対してというか現代に対する姿勢というか、アクチュアルさに絶妙な違いがあるような気がする。表面的には、神里さんは切迫感が強くて、白神さんはのんびりしているようにも見える。でも、体感的に現代に向き合っている仕方は、そんな単純な二分法にはおさまらないものがあるのだろう。

いずれにしても、劇場を前提にして、現代的なことをする上で、最適解とはいえないとしても、模範的な回答とは言えるような舞台だったと思う。

これはたぶん、今見ておかないと意味の無いことなのだ。

でも、こういうテイストは、90年代の舞台にもあったよな、という風なことを少し思った。ハイレグジーザスのこととか、時々自動のこととかを思い出したりもした。

とはいえ、先行する物が忘れられているから、新鮮に見えているだけだ、みたいなことが言いたいわけではない。

つまり鰰も、ひとつの王道を行っているし、そういう道は突然ひらけたわけでもないし、直接間接に継承された発想や技法や舞台コンセプトが、しかし手持ちの道具として、まっとうに活用されている。それで十分だということだ。

そういう意味で、こういう類の舞台は、もっと見られて良いだろうと思った。

追記)
澄井葵さんが引用してくれた。考えを触発できたみたいでうれしい。
それだ。 | お腹痛くて2ステップ

百景社『しらみとり夫人/バーサよりよろしく』

SENTIVAL!の参加作品ということで、見に行った。
http://pull-top.jp/sentival.html

テネシー・ウィリアムズの短編を二本連続上演するもの。
百景社を見るのははじめて。利賀村の流れという印象は強かったけれど、どこかポップな諧謔みたいなものがあるような感じもして好感を持った。岡崎芸術座あたりと比べて論じられるべき傾向があるよな、という風に思う。

たとえば、『しらみとり夫人』では、女装した男優(村上厚二)が演じるという枠組み自体が、嘘で虚栄を守ろうとする夫人というテーマを示していて、俳優が舞台の上で演じてみせるということ自体が、劇中の夫人が現実から夢の世界に逃避するような惨めさをそのまま皮肉に、滑稽に、示してみせるような仕掛けになっている*1

『バーサによろしく』では、病や貧困という重荷にさいなまれる娼婦の苦悶を、女優(梅原愛子)にバケツを持たせ、そこに水を注いでいって、重さに耐えさせる、というフィジカルな条件において比喩的に示してみせる、という仕掛けになっている。

こうした、ドラマの構造を舞台の仕掛けに転換してしまうという仕掛けは、原作のドラマを括弧入れするアイロニカルな作法であるけど、そういうコミカルでもある落差が俳優自身の課題とドラマ的な構図が一致するという短絡を介して、妙なペーソスみたいなものが生まれてくる。

仕掛けとして、特別斬新というわけでもなく、そういうドラマの仕掛けへの翻訳によって提示されているのは、俳優たちの演技そのものであり、そこに示される演技の理念は、俳優それぞれの個性を一定の枠の中でめりはりをつけて生かそうとするという、むしろ素朴なものだった気がする*2

ただ、それぞれの役者さんが与えられた条件においてのびのびと演じている姿が、ある種の皮肉さをあっけらかんと肯定している風にも見えて、楽しく見終えた。

http://www17.plala.or.jp/hyakkeisya/

*1:公演のちらしは、若い女の横顔にも、老婆の顔にも見えるだまし絵になっていたけど、今思うと、そういう二重写しの構造を一貫した舞台だったということでしたね

*2:その点で、徹底性や現代的状況との向かい方という面で、岡崎芸術座よりも微温的という風な評価も許してしまっているかもしれない

アップリンクで「文(かきことば)」

PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』の二日目を見た。
PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

「文(かきことば)」は、今までのスタジオでの試演会を何度か見てきていて*1、ソロとしては伊東沙保さんが昨年の渋谷で上演したものがひとつの完成形を示していたのだろう。これは、YouTubeでも公開されていて、その達成は多くの人が映像を見ただけで説得されるところがあったと思う。


それで、今回のアップリンクファクトリーでの上演が、文(かきことば)の、劇場でのお披露目といった感じで、今までよりも広い公衆に向けてその達成が試されたわけだが、今までの試演と比べて今回の上演にはいくつか新しいポイントがあっただろう。

ひとつには、試演会には参加していなかった新しいパフォーマーの参加。大道寺梨乃(快快)、立蔵葉子(青年団)、矢木奏の三人。
昨年の曳船ロビーで、「文」の稽古に新しい参加者がいるという噂は聞いていたけど、伊東さんが完成に向かうのとは違う仕方で、それぞれに「文」の方法論を出発点に各自のパフォーマンスを一定の域で達成していたようにおもう。
新メンバーのソロで言うと、大道寺さんのてきぱきとした勢いのよさ、立蔵さんの、ぼんやりとしているようでしかし丁寧に動きが置かれていく感じ、それぞれの質を楽しく見させていただいた。
新しい方法論になじみ始めたところで、自分の演技が組み立てなおされているような、その新鮮さに触れられたのは良かった。

今までのメンバーのソロも、方法論をさらに咀嚼していたり、あるいは完成したものを組み立てなおすような再びの出会いに向けた挑戦が感じられて、それぞれに楽しんだ。

もうひとつは、アンサンブルとしての模索がかみ合い始めていること。
今までも、「文」で複数人での試演はあったし、そのベースになっている「P」では、アンサンブルでの上演はすでになされていたというのだが、今回は、「文」以降のアンサンブルでの創作が動き始めた、その様子が示されていたところを見られて良かった。漱石夢十夜のいくつかが、ソロとして演じられ、いくつかがアンサンブルとして演じられ、アンサンブルとして完成したものもあり、未完成のものがその途上において提示されもしたのだけれど、その未完成の状態での提示も含め、「文」の方法論が集団創作としてどう機能するのかが、端的に示されていて面白く見た。今後アンサンブルとしての成熟していく姿を見てみたいと思う。

そして、「夢十夜」の「文」の方法論による上演という全体を、未完成なままに示すような様々な演出が施されていたこと。これは、「文」の方法論とは別の角度から、テキストを身振りに転換するという方法論による作品化が完成していない段階での上演という未完成さもふくめて「文」をどのように提示できるかという模索だったのだと思う。

あえて細かく描写はしないが、パフォーマーたちの出入りの仕方、演出家のコメントのさしはさみ方、あるいは、演出家としての出演の仕方、小道具の使い方などなど、複数の小品をたばねるような上演全体の枠組みが、小品それぞれの作品性を閉ざさないようにしつつ、全体として上演を未分化的な場所に開くような逆説的な作品性を持っていたと言えるだろうけれど、それは、小品それぞれのうちにある未完性さを、完結した作品と見せかけないようにするような仕掛けとしてあったかもしれず、そうした上演としての作品性は「文」の演技創造の方法論からするとまったく逆方向からのアプローチであり、あえて完成されていない面を逆に強調するかのような矛盾しさえもする演出であって、そのため、ただ単に困惑したり、単純に未熟なものにすぎないと誤解した観客もいたのだろうと思われる。

このアンビバレツには、逆説的な劇場と演劇への真摯さがあるのだろうし、作品を閉じないことによって作品にするような、こういうわかりにくさを見たとおりのわかりにくさとして受容しておくことが(一見したわかりにくさ受け取りがたさを努力の欠如とか作家の力の及ばなさといったわかりやすい図式で解釈しないでおくことが)、岸井大輔という作家の面白さに親しむ第一歩なのではないかと思う。

*1:「文」の概要については、近代日本語に弔いを(9)−「文(かきことば)」の演劇− - 白鳥のめがねに書いた。弔いというテーマと関連付けた部分はちょっとバイアスがかかりすぎている気もするので、それを差し引いて方法論だけ読み取っていただければ幸い

演劇ユニット「.5」の『ダブル』

.5(てんご)の『ダブル』を見に行った。吉祥寺のハモニカキッチンの屋上テラスで上演という企画。一度、あそこで飲んだことがあったので、改めて親しみ深い時間だった。

澄井葵さんとは岸井大輔さんのワークショップを一緒に受けたのをきっかけに、岸井さん周辺であれこれと会う機会も多くて、この日も打ち上げのあとにいろいろ話したりもしているので、そういう個人的な付き合いが前提にあるということをあらかじめことわっておいた上で、思い出すことを書いておきたい。

出演はひょっとこ乱舞の女優である笠井里美さん(小柄でショートカット、丸顔)とタカハシカナコさん(ちょっと恰幅がいい感じでどっしりした、陽気なキャラクターを感じさせる)の二人で、なかなか好対照だった。

役者二人も気分はオープンカフェといった感じのハモニカキッチンのテーブルに腰掛けていて、まるで観客と同じテーブルを囲んでいるみたいな印象。吉祥寺の裏側のトタン屋根が並ぶような屋上が見えて、猫が屋根の上を渡って行ったりする。春の西日がまぶしく照らしていて、日焼け止めが提供されたりもした。

開演のときにも、観客にそれぞれの役者が自分のプロフィールを語るみたいにして、自分の名前の由来を説明するように話し始めた内容が、自分の幼少期の思い出を語るようなのだけど、どことなく非現実的で、気がつくとその語りがもうフィクションの世界を描いているという風だった。

それぞれの役者の語りが、やがて、それぞれてんで勝手に話すうわごとのように重なり合っていって、ハモニカキッチンの狭いテラスは意識の焦点があわないようなぼんやりとした場所になっている。

それぞれの話は、どこかそれぞれの役者の身の上話みたいでもあるのだけど、小声で二人がお互いに聞いてないように内にこもった語りを続けていくと、観客としてもなんとなく注意が散漫になっていく風だった。

この作品では、声だけの出演で伊東沙保さんとチョウソンハさん。これは、iPodに入れたファイルを澄井さんがそれ用の卓上スピーカーを手に持って流していたけれど、それが散漫になった舞台にとても良いアクセントを与えているようだった。伊東さんとチョウさんの声は、ちょっとテンション高すぎなくらいで、語っている内容も初潮とかに関するちょっとエグイ話でもあって、散漫に身の上話調の話が続いていた空気がそこで一変した。

その音声が流される間にも、二人の役者の話は続いていて、はじめ座ったまま話していたのだけど、笠井さんが立ち上がって、テラスのフェンスによじ登ったりとか、ちょっと大きく動いたりする場面もあった。

語りの内容も、ラグランジュ点がどうのといったすこしダイナミックなものになっていって、二人の語りが、ぼんやりとすれ違いながら、どこかで斜めに対応するみたいな、上の空で意味を取り違えながら進む対話のように、かみ合わないけど言葉は交換されていくような展開になった。

佐々木透さんのテキストも、淡々としているようでいてメリハリがあるようで、日常会話の範囲を微妙にはみ出るかはみ出ないかといった領域をふらふらと辿る曲折のある文脈を、繊細にそれぞれの役者が形にしていっているようだった。

と、抽象的な描写に終始してしまったのは、テキストが繊細で記憶しきれなかったからで、上演台本を文字で目を通してみたかったと思う。

あまりに繊細すぎてまだ人目に触れるには早いという気がしないでもないけれど、そういう繊細さを失わずに、もっと人目に触れても負けないしなやかさを磨いてほしいなあという感想を持って帰った。

「ダブル」 | お腹痛くて2ステップ

セシル・バルモンド展

ツイッターで盛り上がっている人が居たので、気になって会期末だし、ナデガタの前に見に行ってみた。
「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界:イントロダクション|東京オペラシティ アートギャラリー
自分としては、ほとんどひっかかるものがなくて、こういうものだったらコンセプトだけ知ればよくてあえて展示を見なくても良かったなというのが正直な感想だったけど、でもそれも自分の偏りというものなんだろう。常設展の脇で展示されてた若手の作家のドローイングの方をむしろ楽しんだけど、作家名も思い出さないくらいな、そんな関わりだった。

ナデガタの美術館開放

Nadegata Insatnt Party(中崎透+山城大督+野田智子)*1による“Closing Museum,Opening Party"で上演された練馬美術館での市民劇「ひらいて とじて その手を上に」を見てきた。
Closing Museum,Opening Party@練馬区美術館 : Nadegata Instant Party

当日の様子がなんとなく写真で紹介されている。
http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/kyouikuhukyu/houkoku/nadegata.html

台本も公開されていて、ざっと見たところ上演されたのはほとんどこれと同じ台本だったと思う。
http://cmop.nadegatainstantparty.org/index.php?/project/tozitehirayitesonowonishinario/

これを書いているのは4月18日で、約一ヶ月感想がかけないままだったことになる。いろんな要因があるけど、ひとつは当日パンフレットに小森真樹*2さんが寄せていた「Nadegata Insatnt Partyの挑戦は、一見ちょっととぼけた感じがする。」という(これはタイトルなのか)一文から始まる文章がみごとに作品の本質を語っていたので、とりたててそこに付け加えることもないなと思ったからだった。

一部引用したい。

小森さんは、ナデガタ(頭文字を略してNIP)の活動を理解するキーワードとして「アイロニー」という言葉を挙げた上で、こう続ける。

彼らが送るメッセージの裏側にある意図をも同時に読み込むことが、多層的な理解のために必要となる。一口に言えば、美術の構造的な枠組みの刷新である。この次元では、地域コミュニティを巻き込む「月並みなイベント」も、シナリオにあるような高級文化趣味、経済至上主義や美術館というモダンアートの装置への恨み文句も、パロディックなメッセージとして読み替えられる。コミュニティアートという形式やハイアートへの批判が陳腐化してしまった今、彼らは一見すると単なる「陳腐」と「空虚」を用いて、真っ向からそれに立ち向かっている。

これはまさしくその通りだなと思った。

物語の設定として「美術館開放祭り」の日に練馬美術館が封鎖されるというお話になっているのだけど、美術館の入り口前では、実際に小学校のテントなんかを並べて*3、模擬店みたいなものが出ていて、野外劇が行われる前にフリーマーケットだとか朗読読み聞かせのお店だとか、開放祭りが催されていたりした。そういう、地域を巻き込んだ月並みなアートイベントのパロディみたいなことを実地に行っている中での、野外劇だった。何重にも、現実と虚構の階層が重ねられていて、それ自体、アイロニカルでありながら、虚構的な仕掛けの中に観客を巻き込む仕掛けになってもいる。

たとえば、モダンアートの装置へのうらみ文句とかハイアートへの批判は、次のようにパロディ化される。台本から引用。

* シーン3:美術館封鎖!!
(依田と茶柱が仕切る中、開放祭りも活気が出てくる。)

ガラガラガラガラ===ガシャン

(美術館の正門が祭り会場を遮るように半分くらい閉まる。)
<悪役登場的な曲in>
学芸員秋山、ミス西山、黒服三人、階段上in)
秋山  「そこまでだー!!」
カナヅチ「おいおい、一体なんだってんだ。」
(三人の黒服がおもむろにバリケードを組み始める。)
秋山  「はい!中止中止!美術館開放祭りは今を持って中止です!!」
プリンス「勝手なこと言い出しやがって、おまえは一体誰なんだ?!」
茶柱  「最近うちにやってきた学芸員の秋山さんです。」
秋山  「そこ!!間違っていないが言葉が足りないぞ!ミス西山!!(パチン)」
ミス西山「先週より、ヘッドハンティングされて超大手美術館より練馬区美術館を立て直すべくやってきた切れ者学芸員の秋山さんです。」
秋山  「そう、それだ!(パチン)」
黒服三人「ヘッドハンティングされて超大手美術館からきた切れ者です。」
秋山  「よし、もっと言ってやれ!(パチン)」
黒服三人「ヘッドハンティングで超大手で切れ者です!」
秋山  「まだまだ!!(パチン)」
黒服三人「ヘッドで超でキレキレです!!」
秋山  「そうだ!私はヘッドで超キレキレだ!!」
秋山一派「うおおおおおおおおおおーーーー!!」
(一同なぜか拍手、結構盛り上がる。)
秋山  「オッホン、ということで、なんなんですかね、この有様は、ここは神聖な文化の殿堂である美術館ですよ!」
茶柱  「秋山さんは来たばかりだからまだ分からないかもしれませんが、ここはみんなに開かれた美術館なんですよ。」
秋山  「は?美術とは元来、選ばれ鍛え抜かれた知性や眼によって育まれてきた。センスと教養を持ち合わせた紳士淑女によって未来は切り開かれて行くものなのです。残念ながら、選ばれなかった皆様にはお引き取り願いましょう。」
黒服三人「さあ、帰って帰って、お引き取りください!!」
カナヅチ「ふざけてんじゃねえぞバカやろお!」
プリンス「そうだ!うちのジュニアのせっかくの宣誓が台無しじゃねえか!!」
(山条in)
山条  「茶柱さん、これは一体何が起こってるんですか?」
茶柱  「ああ、山条さん、大変なんです、秋山さんが、秋山さんが。」
ミス西山「あらあら山条さん、今頃やってきたんですか?」
山条  「ちょっと、秋山さんも西山さんもふざけるのはいいかげんにしてくださいよ!」
秋山  「そうそう、まだ山条くんたちには言ってなかったけど、この美術館、大企業に買収されて来月から別の美術館になることになったから。」
山条茶柱「えええええーーーー!!」
依田  「わわわわ、わ、私の、まも、守ってきた美術館が。。。。」
秋山  「いいか、私は本当の意味でこの美術館を立て直すためにやってきた。こんな遊びみたいなお祭りゴッコをしているヒマはないんだよ!!いいですか、こんな知性の欠片もないママゴトみたいな行為こそが奥深い芸術の門を閉ざさせているのです!お分かりかな?!」

こういうの、当日すこし稽古しただけの人たちが、台本片手に素人芝居していくのだった。
次のようなくだりにも、単純にはいかないパロディの積み重ねがある。

麗子  「ちょっと待って、じゃあ、ここの美術館はどこの会社のものになるの?!」
小中  「はーっはっはっはっは!聞いて驚けよ!」
オレンジ「あの有名企業だぞ!!」
セブン 「行政なんかより、よっぽど文化を大事にしてくれるぞ!!」
秋山  「ズバリ、MIKE(マイキ)だ!」
ジュニア「わあ、あのスポーツシューズの?!」
秋山  「違う!MIKE(マイキ)だ!」
太郎  「あの勝利の女神を由来にしてるという!」
秋山  「だから違う!MIKE(マイキ)だ!!」
治朗  「最近、公園も買ったりしてるという噂の、、!!」
秋山  「違う!違う!違う!まみむめものMIKE(マイキ)だ!!!」
一同  「?」 
(ひそひそ声で、「知らないよね?」「知らない」など皆で話す。)
ミス西山「これだから常識に欠けた人たちは嫌ね。」
小中  「説明しよう!マイキとは『My 木』に由来する、一人一人自分たちの木を植樹して育てることから始まった会社である!」
オレンジ「アメリカ西海岸でエコブームに乗ってセレブ達に大ウケ!!」
セブン 「この春、日本初上陸のエコでセレブな大企業だ!!!」

実際、宮下公園のナイキパーク化という問題が起きているなかで、こういうパロディをしてしまう*4

そして最後には、「美術館開放」を叫びながら美術館になだれこむデモ隊のエキストラの役回りを、無料で見に来た観客が演じさせられてしまうのだった。巧みなナデガタの演出によって、ほとんどの観客は「スローモーション」で美術館になだれ込むという演技を嬉々として演じてしまい、「美術館開放!」のシュプレヒコールを無邪気に叫んでしまった。煽りを受けて、僕も、美術館の受付スタッフの女性たちがちょっと引き気味に美術館開放デモの様子を見ているのを横目でみながら、シュプレヒコールを叫ぶのを楽しんでしまっていた。こういう煽りって、どこかちょっと危険っぽいよなとか思いながら、ある種、群集心理みたいなものにのまれることに固有の喜びってものがあるのだろうなと思ったりした。キャストと観客がなだれ込んだ美術館のロビーでは、そこにあるグランドピアノで、内省的な風な静かな曲が、その興奮を異化するみたいに奏でられていた。

あと、MIKI側に地元住民が勝ったときのシーンもとてもアイロニカルだった。

*シーン7:美術館開放/フィナーレ
プリンス「勝ったぞ!俺たち、勝ったんだ!!」
秋山  「くそおー。。こんなはずじゃ。」
カナヅチ「勝った、勝ったぞー!!」
カンナ 「勝ったときの、オリンピックのやつがやりたい!!」
麗子  「何かしら、メダル?」
カンナ 「ううん、違うの、あれ、君が代。」
山条  「はあ?君が代?!」
郷田  「しょうがないわね、私のオハコじゃないの!」
山条  「やるんですか?!」
郷田  「君が代ダンス!ミュージックスタート!!」
君が代ナデガタバージョンin>

ダンスチューンにアレンジされた君が代にあわせて、観客も一緒にダンスを踊ってしまうのだった。単純ながら楽しい振りでみんなで手をあげてくるくる回ってた。君が代で。
そういう脱力系なポップさが、右も左もパロディ化して、パーティ的に楽しく盛り上がりながら、どこかできっと、問題を問題として堅苦しく固定化してしまいがちなありきたりの対立という図式とは別の角度から問題を考えられるような視点みたいなものにつながる何かになっていた、のだろうか?
なんというか、君が代だって、ダンスしちゃったら楽しいんだっていうのは、忌野清志郎が「君が代」をリリースできなかったことなんかも想起させながら、とぼけた仕方で問題に向ける視点を複雑化しているみたいでもあるし、あんまり複雑に考えたって仕方ないよっていっているみたいでもあるし、盲点なんていくらでもあるしオルタナティブはいくらだってあるしって感じで、可能性を単純に広げてくれるようなしかたで問題設定の場面をごっそり別の地平に映しちゃったって感じでもある。なにより、あっけらかんと楽しめてしまったってことと、それをあとからいくらでも考え直せるチャンスが開かれていた、なんとなく、え、それでいいの?みたいな違和の種みたいなものがきっちりきっちり埋め込まれたパロディになってた気がする。

小森さんの文章に戻ると、こんなことを書いていた。

NIPはアイロニーと批評性に充ち満ちている。しかし、冷静沈着、冷め切ったニヒリストや熱く煮えたぎった革命家のそれではない。ユーモアとお祭り感(パーティ!)に充たされた「トンがった丸」としてのアイロニーだ。(略)この一見無害な「トンがった丸」は、優しく滑らかに、人々と手を取り合いながら私たちの間に染み渡っていく。

この文章は、当日の舞台裏でいい加減に書かれたって断り書きがついていて、そんなライブ感の筆の走りを感じさせる結句ではあると思う。アイロニーにもいろいろな種類があって、アイロニカルであることをいろいろな方向に展開できるのだろうし、拡散もできるのだろうし、メタの累乗みたいな仕方でつまらなく自閉化することもできるのだろう。その間の区別をきちんとつけるのが大事なのだろうけど、繊細でしなやかで、シェア可能なアイロニーというものもあるのだな、と、ナデガタの試みに初めて触れて、思ったりした。

*1:ナデガタについては、曳船ロビー周辺で噂を聞いて、次のシンポジウムで話を聞いた。http://jidokan.net/news/2010/0131-566/いろんな面で、このシンポジウムが練馬美術館でのイベントにつながっていたみたいだ。シンポジウムについては、次のようにツイッターでつぶやいてた。子ども×アートで地域を開く - Togetter

*2:小森さんは「現代美術の大衆化とサブカルチャー誌による「アート」の普及」なんて研究をしているあたり報告要旨【小森真樹】 : GrASP! HP批評的な視点の手堅さを感じる。プロフィール小森真樹 - 東京大学大学院 矢口祐人研究室、学部生のときのこんな発表も阿部嘉昭ファンサイト: 「キモポップ」のすすめ(小森真樹)

*3:当日強風であおられたテントが宙に舞いかけるというアクシデントがあって、野外劇の上演が一時中断されていたりもした。観客も含めて、あわてた人々がテントをたたんで、一時中断されていたお芝居が再開された。そのことと、なんとなく批評的に意味づけてみたいと思ったのだけど、結局上手く考えることができないままになってしまった。

*4:なんとなく、この感想を書きにくいなと思っていた理由のもうひとつは、宮下公園のことが気になっていて、しかし、結局一度も宮下公園に足を運ばなかったことになにか自分のなかでひっかかりを感じているからだったのかもしれない。非実在青少年のネタなんかもパロディとしては傑作だった