アップリンクで「文(かきことば)」

PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』の二日目を見た。
PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

「文(かきことば)」は、今までのスタジオでの試演会を何度か見てきていて*1、ソロとしては伊東沙保さんが昨年の渋谷で上演したものがひとつの完成形を示していたのだろう。これは、YouTubeでも公開されていて、その達成は多くの人が映像を見ただけで説得されるところがあったと思う。


それで、今回のアップリンクファクトリーでの上演が、文(かきことば)の、劇場でのお披露目といった感じで、今までよりも広い公衆に向けてその達成が試されたわけだが、今までの試演と比べて今回の上演にはいくつか新しいポイントがあっただろう。

ひとつには、試演会には参加していなかった新しいパフォーマーの参加。大道寺梨乃(快快)、立蔵葉子(青年団)、矢木奏の三人。
昨年の曳船ロビーで、「文」の稽古に新しい参加者がいるという噂は聞いていたけど、伊東さんが完成に向かうのとは違う仕方で、それぞれに「文」の方法論を出発点に各自のパフォーマンスを一定の域で達成していたようにおもう。
新メンバーのソロで言うと、大道寺さんのてきぱきとした勢いのよさ、立蔵さんの、ぼんやりとしているようでしかし丁寧に動きが置かれていく感じ、それぞれの質を楽しく見させていただいた。
新しい方法論になじみ始めたところで、自分の演技が組み立てなおされているような、その新鮮さに触れられたのは良かった。

今までのメンバーのソロも、方法論をさらに咀嚼していたり、あるいは完成したものを組み立てなおすような再びの出会いに向けた挑戦が感じられて、それぞれに楽しんだ。

もうひとつは、アンサンブルとしての模索がかみ合い始めていること。
今までも、「文」で複数人での試演はあったし、そのベースになっている「P」では、アンサンブルでの上演はすでになされていたというのだが、今回は、「文」以降のアンサンブルでの創作が動き始めた、その様子が示されていたところを見られて良かった。漱石夢十夜のいくつかが、ソロとして演じられ、いくつかがアンサンブルとして演じられ、アンサンブルとして完成したものもあり、未完成のものがその途上において提示されもしたのだけれど、その未完成の状態での提示も含め、「文」の方法論が集団創作としてどう機能するのかが、端的に示されていて面白く見た。今後アンサンブルとしての成熟していく姿を見てみたいと思う。

そして、「夢十夜」の「文」の方法論による上演という全体を、未完成なままに示すような様々な演出が施されていたこと。これは、「文」の方法論とは別の角度から、テキストを身振りに転換するという方法論による作品化が完成していない段階での上演という未完成さもふくめて「文」をどのように提示できるかという模索だったのだと思う。

あえて細かく描写はしないが、パフォーマーたちの出入りの仕方、演出家のコメントのさしはさみ方、あるいは、演出家としての出演の仕方、小道具の使い方などなど、複数の小品をたばねるような上演全体の枠組みが、小品それぞれの作品性を閉ざさないようにしつつ、全体として上演を未分化的な場所に開くような逆説的な作品性を持っていたと言えるだろうけれど、それは、小品それぞれのうちにある未完性さを、完結した作品と見せかけないようにするような仕掛けとしてあったかもしれず、そうした上演としての作品性は「文」の演技創造の方法論からするとまったく逆方向からのアプローチであり、あえて完成されていない面を逆に強調するかのような矛盾しさえもする演出であって、そのため、ただ単に困惑したり、単純に未熟なものにすぎないと誤解した観客もいたのだろうと思われる。

このアンビバレツには、逆説的な劇場と演劇への真摯さがあるのだろうし、作品を閉じないことによって作品にするような、こういうわかりにくさを見たとおりのわかりにくさとして受容しておくことが(一見したわかりにくさ受け取りがたさを努力の欠如とか作家の力の及ばなさといったわかりやすい図式で解釈しないでおくことが)、岸井大輔という作家の面白さに親しむ第一歩なのではないかと思う。

*1:「文」の概要については、近代日本語に弔いを(9)−「文(かきことば)」の演劇− - 白鳥のめがねに書いた。弔いというテーマと関連付けた部分はちょっとバイアスがかかりすぎている気もするので、それを差し引いて方法論だけ読み取っていただければ幸い