近代日本批評について(お蔵だし)

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この「批評」っていうカテゴリーは僭越というかおこがましいというか、私みたいな不勉強な人間は使わないのが慎みってものではないかと思ったりしなくもないけど、若いころ批評家気取りをたしなめられたりしていたようなことがあって、そんな頃書いた文章がWebの底に残っているのを見つけた。

批評という言葉を聞くと思い出す文章がある。大学を卒業して、田舎で会社員をしていたころ、中日新聞で戦後思想家列伝といった企画があって、江藤淳を担当していたのが上野千鶴子だった。その取り合わせにも驚かされたが、次のような一節を読んでさらに驚いた。上野千鶴子という人の意外な一面を知った思いがしたのである。
小林秀雄に耽溺していた二十代の私は江藤の評論を読んで、批評とは自分が誘惑されているものを内在的にくぐりぬけ、それにさよならを言うための痛みに満ちた儀式であることを、その清冽な文体とともに知った。」(中日新聞1995.7.13)
(略)
小林秀雄論覚え書き

「近代日本語に弔いを」という題で私が書き継いでいることは、「自分が誘惑されているものを内在的にくぐりぬけ、それにさよならを言うための痛みに満ちた儀式」を勝手に執り行うようなことなのかもしれない。私自身は近代日本語に誘惑されているわけでもないけれど。


あと、『ジョン・レノン対火星人』について考えたことも、すこしこの先の話と関係するかもしれないので、以下に引いておく。

上野氏は政治的な挫折のあと小林秀雄に耽溺したのだという。おなじ政治的挫折を作家としての出発点としている高橋源一郎が書いた小説『ジョン・レノン対火星人』には「突発性小林秀雄地獄」という一種のギャグが使われている。(略)
ジョン・レノン対火星人』に出てくる「突発性小林秀雄地獄」というネタについて、なにか言おうと思ってパラパラと読み返してみた。僕が確認したかぎり三ヶ所で「小林秀雄地獄」について言及されており、「ヘーゲルの大論理学」という名前の登場人物が「突発性小林秀雄地獄」に落ち込むのは二回である。その前後を軽く読み返しながら思いあぐねていたら、急に「感傷的」という言葉と「リリック(叙情的)」という言葉の意味が分からなくなった。

(略)「小林秀雄地獄」という言葉の前後には「感傷的」という言葉と「リリック(叙情的)」という言葉がちりばめられている。ひょっとすると、この二つの言葉は周到に使い分けられているのではないか?

(略)このことに気付いてみると、あの小説のからくりの一つが見えてきた気がした。リリックになった登場人物は、官能的な表情を浮かべて没我の状態になっていたりする。決して泣いたりはしない。感傷に陥って初めて、泣いたりするのだ。ともかく、あの小説において、リリックという言葉のはたらきには微妙なものがある様に思えてきた。

「突発性小林秀雄地獄」なんていう言葉を発明した高橋源一郎が『ジョン・レノン対火星人』という小説で小林秀雄を頭から馬鹿にしていると考えるのは、あまりに早計だ。それが正当であるかは別にして、オダギリヒデオが小馬鹿にされていることに比べれば特権的な地位を与えられていると言っても良い。もちろん、小林秀雄の名文句を切り張りしたこの一種のパロディが、誰かをからかっているのは確かだ。

(略)

僕は以前、「突発性小林秀雄地獄」という言葉で、小林秀雄を読んでつい涙ぐんでしまうような感傷的で心優しい読者が揶揄されているのかと思いこんでいた。しかし、どうもそうではないらしい。「突発性小林秀雄地獄」は、「秒速三十万キロでリリシズムの極限へ落っこち」るようにして発症するものだという。それは「感傷」からは明確に区別されているのだ。

(以下略)

小林秀雄論覚え書き

文章はこのあと、「ああ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ち込んではいけない。」という小林秀雄「当麻」の末尾についての注釈に続いていた。ちっとは若かったから勢いでかけた「小林秀雄地獄」論なんだけど、小林秀雄のリリシズムについて述べるには私の力量はいまでも足りていないと思う。

*1:写真は「文化系フリマ」での仲俣さんの棚