『ぼくの大好きな青髭』メモ

 庄司薫は、近代日本文学の終りを見据えてこの小説を書いているのだろうなと思う。ひとつの時代をまるごと描き、そこに人生の課題を示してみせるような小説は、もうこれ以降書くことができないという認識が透けて見えるようだ。

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 単行本の刊行は1977年*2。作品の舞台は1969年7月。作家にも、読者にも、あの時代が既に過去になっていることがあらかじめ前提されていた。「ものだった」という完了形的な措辞がモノローグに要請される所以だろう。

 主人公を庄司薫という名前にして、同じ名前のペンネームで書かれた『赤頭巾ちゃん気をつけて』は進行中の同時代の雰囲気の中で即興的に書かれたのだろうけれど、そのシリーズ4作目で4部作を締めくくる『ぼくの大好きな青髭』は、綿密に構成されている。むしろ、計算が見え透いているくらいで、新宿を舞台にした一日の出来事の中に人類史的なドラマを集約させるという無理なモチーフの詰め込み具合に対する言い訳のように作中に構成意図への注釈があらかじめ織り込まれているほど周到だ。

 舞台は、60年代的な若者文化の熱気が醒める直前の新宿。そこで繰り広げられる、社会に反抗して敗れていく若者と、その夢を追いかけるマスメディアの業界人との抗争を背景としたある複合した事件に、主人公は、友人を気遣うという仕方で巻き込まれていく。

 ともかく、さまざまな立場の人が主人公に語りかけてくる。まるで受動的な探偵のように、さまざまな証言を聞き、現代の課題を象徴するみたいなさまざまな受難の類型すべてに触れることで、主人公は、事件の真相を理解する。その事件に巻きこまれている間、ガールフレンドや親友とは電話によってつながっているというのも、重要なポイントなのだろう。

 いろいろな証言を聞くことで、しかし、主人公はほとんど傍観することしかできない。少し気遣ったり、優しくしてあげることができるだけで、人類史的なドラマが勝手に終わっていくのを見ているだけだ。

 結局、オルタナティブな共同体 commune への夢は潰えて、今われわれが知っている社会が残される。多分、庄司薫は、その後の社会がどうなっていくかをほぼ正確に見据えてこの小説を書いているのだろう。ファスト風土動物化した生といった問題系につながるモチーフも原型的抽象的にはすでに語られてしまっていると言ってよい。今読むと、総論的には庄司薫は現代を見通していたように見える。

まあ、理想といっても目的といっても夢といってもなんでもいいわけですが、そういったものを抱いたとたんに、われわれは本来のわれわれ以上に単純な存在になってしまい、なんというか、あらゆる動作がぎこちなくなってしまう。そしてその結果運が悪いと葦舟みたいに難破する。ところが、そうかといって理想とか目的とかを持たないということは、これは善悪はさておいて充実感を放棄するということですから、言いかえれば生きながら死ねということに等しいわけですね。

 夢幻能のことを思っていたので*3、諸々の証言を聞くだけの主人公の姿はまるで能のワキのように見えていたけど、しかし、主人公がひとつだけ積極的に振舞う葛藤の場面を持たされていることが冒頭から繰り返し示唆されている。

 主人公が積極的にすることといえば、さまざまなひとの諦めや無念さを語る証言に触れたことから生まれる「渦巻くような熱い何か」「熱い胸騒ぎのようなもの」「つい口を開いてしま」うように「気持ちの中にあふれる何か」、つまり情念 passion に抗して「形だけの自己満足を狙うような言葉を、舌ごと噛み砕くようにして呑みこ」むくらいのことだ。つまり、何か言いたくなるような思いがあふれてしまうけど、できる限りくだらないことは言いたくないという葛藤にまきこまれ、それに耐えようとすること。

 何の役にも立たない慰めの言葉を口にしてしまうことには、ぎりぎりのところで踏みとどまることができた主人公も、「とうとう我慢できないまま叫ん」でしまう。

シヌへ、ぼくは青髭に会ったんだよ。


 主人公は、世界の全貌を見たことだけは、はっきりと告げずにいられない。その言葉は、伝わらないのだけど、伝わることの手前に佇んで、世界を肯定することができるのか、と主人公は自省する。これが、庄司薫がぎりぎりのところで最後の青春に残すことができたドラマの造形なのだ、ということだろう。

 主人公は約束を思い出して、真夜中、親友とガールフレンドとの待ちあわせ場所に向かう。そこには、もう孤独な持久戦しか残されていないかのようだ。

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

 「アポロ11号の成功の陰で沈んでいった葦舟ラー号」にその名を託して、若者たちが作り上げようとしたオルタナティブスペースの自壊の物語を、作者は作中で周到にパロディ化し終えてしまう。完全な埋葬。
 若者が自由をもとめることで自壊する物語を悲劇として描かず、悲惨なケースのひとつのパターンとして分類してさえみせるところにも、庄司薫の倫理が働いているのだろう。

彼はね、おれたちの葦舟みたいな計画がもし成功するとすれば、それは恐らくたった一人でやる場合だけに限る、って言ったんだな。

 これはどうやら今でもあてはまる診断のようで、見事な洞察というほかないのではないかと思う。

ぼくの大好きな青髭|庄司薫
「ぼくの大好きな青髭」読了。 - Lunatics a gogo
村上春樹と庄司薫の一致 | papativa.jp

*1:写真は2008年12月23日の大阪梅田あたり

*2:「ぼくの大好きな青髭」は中央公論に1977年1月から78年12月まで連載されました。http://azure2003.sakura.ne.jp/k_shoji/aohige/mokuji.html

*3:クライマックスとなる新宿御苑(新宿を舞台にしながら新宿御苑のひろがりを世界への、世界からの視点が開かれる場所として指定しているところがあまりに見事なのだが)の場面であからさまに、屈葬に通じるような象徴的な死と再生のモチーフが描かれているので、西郷信綱が能に関して論じたような鎮魂をめぐるテーマは当然庄司薫の視野に入っていると考えるべきだろう