『日本語が亡びるとき』を読む#2 −貴族が詠む『万葉集』−

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読んでいて次の文章を読んで・・・絶句。した。

天皇から庶民まで詠んだと謳われ、近代に入ってから栄光ある「国民歌集」の地位を与えられた『万葉集』も、実は、奈良時代の貴族によって詠まれたものだと言われている(注九)。
(163頁)

「『万葉集』も貴族によって詠まれた」、というのは、日本語として微妙に意味不明だが、それが万葉集に収録された歌は全部貴族の作品である、という意味なのだとしたら、これは東歌も防人歌も、貴族がフェイクとして作ったってことになってしまうではないか。そんなことが「言われている」というのは、にわかに信じがたい。(注九)を確認する。

(注九)品田悦一「国民歌集としての『万葉集』」

創造された古典―カノン形成・国民国家・日本文学

創造された古典―カノン形成・国民国家・日本文学

最新の学説では、東歌も防人歌も奈良の貴族が想像して作ったフェイクってことになっているのか?これは確認してみなければなるまい。地元の公共図書館に頼んで、取り寄せて、件の論文を読んでみた。のっけから上に引いた水村美苗の文章にダイレクトに影響を与えただろう文章が見える。

しばしば(略)「日本人の心のふるさと」などと称されるこの歌集(=万葉集)は(略)、多少反省すればわかるように、実は奈良時代の貴族たちが編んだものであって、その成立以来一千年以上にわたり、日本列島に住む人々の圧倒的部分にとっては縁もゆかりもない存在だった。
「国民歌集としての『万葉集』」(『創造された古典―カノン形成・国民国家・日本文学』p.48)

「詠む」と「編む」では大違いだ。「詠む」と言いきってしまうあたり、水村美苗の議論は「トンデモ」で、多少なりと『万葉集』の基礎知識があれば、「貴族が万葉集を詠んだ」なんて乱暴な発言はできないはずだ。

きっと、水村美苗万葉集にほとんど関心が無いのだろう。万葉集関連の文献にもほとんど触れていないのではないかと思う。たとえば西郷信綱の『貴族文学としての万葉集』など見たことも無いに違いない*1

それはさておき、もう少し、品田悦一さんの議論を見てみよう。そこに、水村美苗をして「編む」という慎重な言い回しをさせず「詠む」と弾言させてしまうようなバイアスが見て取れる。

品田氏の論文を読むと、水村美苗の「天皇から庶民まで詠んだと謳われ、近代に入ってから栄光ある「国民歌集」の地位を与えられた『万葉集』」という文言が、当該論文を要約した言葉であるとわかる。品田氏は『万葉集』がいかに「ナショナル・アイデンティティを支えるカノンとして発明」されたかを明治期の万葉集受容を掘り起こしながら論じている。
そこでポイントの一つとなるのは、万葉集の中に「民謡」という、「民族の精神を民衆の文化に求めた思想家ヘルダー」が使ったドイツ語「フォルクスリート」から翻訳された概念が読み込まれていくプロセスだ*2。そして、庶民も天皇も一体である日本文化の起源として『万葉集』がイメージされるにいたるいきさつがたどられる。

そこで、品田氏は、万葉集の中に「民謡」的なものを見る議論を批判していくわけだが、「民謡」的なものとして見られてきた「東歌」や「防人歌」について、品田氏は次のように述べている。

実際、これらの歌々は古代の「庶民」の産物として扱われてきたのだったが、見逃すべきでないのは、これらがほぼ例外なく、五音節と七音節を韻律単位とする詩形、つまり貴族たちの創作歌と同一の形式からなると言う事実である。(略)読み書きを知らない「庶民」の作、つまり口頭で謡われるか唱えられるかしたものであるにしては、詩形が整いすぎていないだろうか。(『創造された古典―カノン形成・国民国家・日本文学』p.57)

ここで呈された疑問は、例えば、貴族が文字として記すときに原型となった庶民の歌を、五七調に整えてしまった、といった説が妥当するとすれば解消されてしまうもので、そうすれば「民謡」をめぐる論点は『万葉集』が成立した背景やテキスト自体へと送り返された上で読み直されるべきことになるのだが、品田氏の議論はそういった終りなき再検討をあらかじめ断とうとするかのようなバイアスのある論述となっている。

水村美苗は「『万葉集』は貴族が詠んだと言われている」と短絡しまったが、水村が参照した論文自体に、そう短絡するよう促すバイアスがあったということだ。

逆に言えば、水村美苗にはそういうバイアスに乗せられて短絡的な論述をしてしまうという隙があったのであり、件の本を準備していた水村美苗は教養や批判的な理解力を駆動して冷静に読解する余裕と言えるようなものを欠いていた、ということなのだろう。

まあ、これだけでは単なる揚げ足取りなので、なぜ水村美苗は「万葉集は貴族が詠んだ」という言い方をしてしまうのか、そのことを『日本語が亡びるとき』の中で、考えてみる必要があるだろう。それは、機会があればまた後で。

☆参考リンク☆
東歌の世界(万葉集を読む)
『万葉集』と方言 Wikipedia

*1:「『貴族文学としての万葉集』では、防人歌、東歌など庶民の歌とされていたものが、貴族歌人の仮託でしかないと論じた。」西郷信綱 - Wikipedia

*2:当該論文p.69