百景社『しらみとり夫人/バーサよりよろしく』

SENTIVAL!の参加作品ということで、見に行った。
http://pull-top.jp/sentival.html

テネシー・ウィリアムズの短編を二本連続上演するもの。
百景社を見るのははじめて。利賀村の流れという印象は強かったけれど、どこかポップな諧謔みたいなものがあるような感じもして好感を持った。岡崎芸術座あたりと比べて論じられるべき傾向があるよな、という風に思う。

たとえば、『しらみとり夫人』では、女装した男優(村上厚二)が演じるという枠組み自体が、嘘で虚栄を守ろうとする夫人というテーマを示していて、俳優が舞台の上で演じてみせるということ自体が、劇中の夫人が現実から夢の世界に逃避するような惨めさをそのまま皮肉に、滑稽に、示してみせるような仕掛けになっている*1

『バーサによろしく』では、病や貧困という重荷にさいなまれる娼婦の苦悶を、女優(梅原愛子)にバケツを持たせ、そこに水を注いでいって、重さに耐えさせる、というフィジカルな条件において比喩的に示してみせる、という仕掛けになっている。

こうした、ドラマの構造を舞台の仕掛けに転換してしまうという仕掛けは、原作のドラマを括弧入れするアイロニカルな作法であるけど、そういうコミカルでもある落差が俳優自身の課題とドラマ的な構図が一致するという短絡を介して、妙なペーソスみたいなものが生まれてくる。

仕掛けとして、特別斬新というわけでもなく、そういうドラマの仕掛けへの翻訳によって提示されているのは、俳優たちの演技そのものであり、そこに示される演技の理念は、俳優それぞれの個性を一定の枠の中でめりはりをつけて生かそうとするという、むしろ素朴なものだった気がする*2

ただ、それぞれの役者さんが与えられた条件においてのびのびと演じている姿が、ある種の皮肉さをあっけらかんと肯定している風にも見えて、楽しく見終えた。

http://www17.plala.or.jp/hyakkeisya/

*1:公演のちらしは、若い女の横顔にも、老婆の顔にも見えるだまし絵になっていたけど、今思うと、そういう二重写しの構造を一貫した舞台だったということでしたね

*2:その点で、徹底性や現代的状況との向かい方という面で、岡崎芸術座よりも微温的という風な評価も許してしまっているかもしれない