『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版)

※件の本を冷静に読みたい方は、まず(↓)をお読みください(5月27日追記)。
『ゼロ年代の想像力』を読み直すためのレッスン+++ - 白鳥のめがね



この本から学べることは、こんなパフォーマンスに需要があると思われるほど文化的状況は貧しいことになってしまっているということではないだろうか。まずそれを直視しておきたい。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

文化的状況の貧しさに徒手空拳で立ち向かう著者の努力とある種の真摯さには一定の敬意を払わなければならないだろうが、だからこそ、批判的な検討をもってエールとしたい*1

以下、この本の特徴の幾つかについて触れ、まず、あくまで著者自身が要請している倫理と論理を徹底することによって、この本を批判しておきたい。ついで、世界に向かって議論を開いておきたい。

(1)反教養主義
この本は、思想的、批評的な用語を独自に再定義するという姿勢において一貫している。たとえば、「否定神学」あるいは「備給」、あるいは「再帰的」といった、特殊な思想的・理論的背景をもった用語に、あえて辞書的な貧しい定義を与えている。

著者はどうも批評タームの用い方がぞんざいな点がまま見られるのは残念だ。例えば、わざわざ「否定神学」などという語を使う必要はまったくない。
宇野常寛を読んでみた - オベリスク日録

「備給」は原語ではcathexis(充当)といってフロイト心理学の用語だ。これは「ある対象に向けてリビドーを向ける」という意味で「供給」とはまったく意味の異なる用語なのでご注意。
「大きな物語の失効」が失わせたものとは - A Road to Code from Sign.

たとえば「否定神学」という用語では、神の存在と言語の限界についての思弁をめぐる思想史はすっかりないがしろにされて、単に「現実否認的態度を推奨する信念」といった意味に切り詰められる*2
あるいは「備給」という言葉は、備える、供給する、といった意味に切り詰められる。

これを、無知とか乱用とかいってとがめてみても仕方が無い。
著者がそのような姿勢をとっているゆえんを検討してみるべきだ。

著者は、現実に対する理論を思想史的に受け継ぎ洗練させることに何の有効性も無いという判断をその文章のパフォーマンスで示している。

現代社会について考えるのに、精神分析とか西洋哲学史/神学とかを参照する必要は一切ない、むしろ、断絶があったほうが良い。そんな教養は自己慰撫的な「安全に痛い」反省をもたらすだけだ、とでも言いたいかのようだ。

著者は特定の領域の知識を深めるよりも、乱暴にでも辞書的に単純なロジックを振りかざしてさまざまな文化事象を切り分けた方が、最新の現実を良く理解できるのだ、という姿勢を示している。しかし、それこそ、暴力的に他者をないがしろにする差別的な態度ではないだろうか。

象徴界とは、社会や歴史や国家のことだと思えばいい。
p.29

「国家」と「社会」の相違や複数の「歴史」の概念を区分してきた思想的営為のすべてはさしあたってないがしろにしてもかまわないというのが著者の姿勢だ。

あらゆる知的営為を相対化しながら、自分が描く図式だけはその批判を免れているかのように論述を進める一種の反教養主義といえるこの姿勢が、あらゆる批判的=批評的な教養から自らが示す歴史観を切り離しておこうとするふるまいに他ならないとすれば、その叙述はまるである種の原理主義的な「教典」のようになってしまう。

(2)排他的な発展史観

南京大虐殺が捏造か実在か、戦後民主主義が虚妄か否か、好きなほうを信じればよい。そのレベルでは、どの物語を選んでも変わらない。

物語の真正さ、比喩的に表現すればイデオロギーの選択には意味がない。
P.50

どれを選んでも変わらない無根拠な「小さな物語」を「信じたいものを信じる」と「決断主義的」に選び取った者達による乱立したコミュニティ同士がそれぞれ排他的に対立しあい、「島宇宙」的にすみ分けつつ、その正当性を保障するために動員ゲームを繰り返している、と著者は現状を指摘する。

この図式自体が貧しい表象にほかならないが、まるでそれが唯一の正しい歴史観であるかのように、著者はサブカルチャーの近過去を叙述していく。

ゼロ年代の想像力』という書物は、「日常のなかでの他者とのささいなコミニュケーションを通じて物語の強度をつくりだす」というごくごく地味な人生の処世訓を、さもロマンチックな解であるかのようにみせかけるため、「大きな物語が失われて人々は生きる意味を見失い」「経済が崩壊したことで生きるか死ぬかのバトルロワイヤルに陥った」という神話をつむぎだそうとしているだけのものに見えてしまう。
http://d.hatena.ne.jp/Siliqua_alta/20080909/1220898356

 想像力が「古い」とか「新しい」という断定の根拠を与えるのは、著者自身が描写する歴史なのだが、世界の政治・経済の動向を参照して、まるで唯物史観さながらの必然性によって進展するとされるある種の進歩史観を示す著者の歴史叙述にしても、著者自らが「真正さ」の保障を欠くほかないと考えているのだから、著者の言う「発砲スチロールでできたシヴァ神」だということにならざるをえない。
 それはつまり、サブカルチャー通史を描くこと、現状を図式的に描いてしまうことが、結局著者の言説を「相対的な島宇宙のひとつ」に押し込めてしまっているということだ。著者は論述の内容においては「ポストモダン」的状況を追認しながら、論述の枠組みにおいては、経済史、政治史という「大きな物語」に論拠を求めるという旧来の左翼理論と変わらない図式を展開してしまっていて、その点で、著者自身がポストモダン論的に批判している「つくる会」や「ニート論壇」の論者と同じ場所で議論してしまっているからだ。著者の論理に従えば、そういうことになる。

(3)動員ゲームのレトリック
 著者は「同じ小さな物語を信じている者同士が集まって棲み分けする」状況において、「何かの立場を選ばないということはありえない」、と繰り返す。誰もが、何らかの立場を選ばざるを得ず、その立場の正しさを保障してくれる「大きな物語」はどこにもない、と*3

 しかし、「何かの立場を選ばざるを得ない」という事は、「動員ゲームによってのみ真正さが保障される」という条件とは関係無いし、「何らかの立場を選ぶ」ことにどんな根拠もないという断定もできない。真正さの証明のために「動員ゲームをせざるをえない」ともいえない。そういった条件について著者は十分考察しないままに、まるでそこに論理的な連関があるかのように偽装し、自縄自縛に陥っているようにも見える。

単なる私の推測に過ぎないが、宇野氏は(略)、結局のところ自分を「あらゆるトライブを渡り歩くエリート」という、別種のトライブ(しかも特権階級的な!)に所属している存在として、「本質主義的に」同定したがっているだけではないだろうか。
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 だからこそ、宇野常寛は、自分だけは島宇宙の住民ではないかのようにして、「真正さ」に対する判断の根拠を保留したままで、自らの歴史叙述だけは議論の余地無く正しいかのように主張していく。結局、著者のパフォーマンス自体が「動員ゲーム」のためのレトリックとならざるを得ない。

私たちは、多様すぎる選択肢の中(中略)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけ合って生きていかなければならない。この身も蓋もない現実を徹底して前景化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。
P.135


 しかし著者は「ニート論壇」や「東浩紀劣化コピー」を排他的かつ図式的に批判し続けるだけだ。まるで自分の描いた図式の中でのみ有意義さが認められる存在であるかのように他者の言説や言動を暴力的に分類し図式化するパフォーマンスを繰り返す。あるいは、自分自身が描いた図式の中で、自分の言動や言説を矮小なものにして行く。

「なんでマッピング作業するだけでそんなに偉そうになれるのか」という疑問はぬぐえないわけですが、価値観は人それぞれですからね。マッピング作業こそが至高の知的作業であり、マッピング作業が上手な俺はオタクどもを断罪する資格があるという価値観をお持ちなのでしょう。管理人には「他人のふんどしで相撲を取っている人が偉そうにしている」ようにしか見えないわけです
燃焼率改 宇野常寛はいつまで「国内思想の輸入翻案業」をやる気なの?

 たかだか紙面や画面に収まる程度の範囲に図式が鮮やかに描かれれば描かれるほどそれは暴力的であると言える。

(4)問題の矮小化による普遍化

「物語」について考えることで私たちは世界の変化とそのしくみについて考えることができるし、逆に世界のしくみとその変化を考えることで、物語たちの魅力を徹底的に引き出すことができる―。あるいは、そこからこの時代をどう生き、死ぬのかを考えるための手がかりを得ることも可能だろう。物語と世界を結ぶ思考の往復運動が私たちに与えるものの大きさは計り知れないのだ。
p.11

 著者の議論は、結局単なる狭い趣味の領域の話に過ぎない。広くとっても仮面ライダーやジャンプの連載、せいぜいTVドラマに収まる程度で、部数や視聴率がカバーしている人口比がある程度大きいとはいっても、結局限られた人が楽しんでいるコンテンツをめぐったお話にすぎない。それを、まるで普遍的な問題を語っているのであるかのように著者は偽装している。

九・一一に起こったのは「虐げられる弱いものが虐げる強いものに噛み付いた」事件ではなく、これからは無数の「小さな存在」同士が「自分の信じたいものを信じて」戦うバトルロワイヤルの始まりを告げるものだったに違いないのだ。

現在は誰もが自分の信じたいものを信じて噴き上がり、互いの足を引っ張り合う戦国時代のようなものだ。それはマクロには原理主義によるテロリズムの連鎖であり、ミクロには「ケータイ小説」に涙する女子高生と「美少女(ポルノ)ゲーム」に耽溺するオタク少年が互いに軽蔑しあう学校教室の空間である。
 p.97

 世界史的な事件を、教室に類比できる程度に矮小化することで、矮小なコンテンツについての議論を世界史的な普遍性をもった議論であるかのように偽装すること、それが著者の物語論が描いている構図ではないだろうか。

 物語の分析が物語の内容についての想像によって進むとき、そこで起きているのは、結局、現実の構造を物語の内容に切り詰めて想像するだけのことだ。

 そのような構図の中で著者には、現実の構造について語っているかのように想像する余地が与えられている。小難しい思想史上の議論などは括弧に入れて、サブカルチャーのコンテンツから見えてくる図式に現実を当てはめてしまえばいいとでも言うように。

 「ゼロ年代の想像力」の議論は一定の説得力を持っているとは思うが、それは、フジテレビの「カノッサの屈辱」が持っていた説得力と同じ程度のものだ、と言ってしまってかまわないと思う。

(5)動員ゲームの克服
さいごに、華麗なポストモダン論とはかけ離れたうんざりするような地味な話をします。

だれもが決断主義者として振舞わざるを得ない現在、私たちはこの動員ゲーム=バトルロワイヤルに無自覚に参加し、小さな共同性に棲み分けながら思考停止して生きるのがもっとも容易だろう。だがその容易な選択を拒否して、美や倫理へのアクセスを志向した瞬間、この動員ゲームをどう克服するのかという大きな壁に直面するのだ。
p.117

 「単なる排他的な動員ゲームを乗り越えるために必要なコミュニケーション」とは、結局のところ、どんなに徒労と思われても、どんなにコストが高いと思われても、「歴史認識の真正さ」について倫理的な価値を賭けて耳を傾け対話を試みること以外にないだろう。

 それは古くも新しくもない、思想史において延々と繰り返されてきた営みに加わることに他ならない。そこでは、今まで残された言葉に対して、それがいかに面倒なものであっても、どれだけ荒唐無稽に見えようと、どれだけ瑣末な事実への拘泥に見えようと、その用いられ方を繊細に丁寧に受け止めようとする努力が要請される。

 そうでないなら、多少趣味の輪を広げたところで、結局それはどちらでもいい趣味の話に他ならない

「どうせ世の中勝ったものが正義なのだから」と開き直り、思考停止と暴力を肯定する態度にどう対抗するか、が私たちの課題なのだ。
このとき重要なのは、自分を免罪してしまわないことだ。
p.133

 この言葉が著者自身の中で徹底されていたならば、この本はこのような形にはならなかっただろう。

 自分を免罪してしまわないとすれば、理論の単純化も、現実の矮小化も退けて、現実をその多様さにおいて認めるための努力を続けるほかないし、大上段で十把一絡げな批判なんかは慎んで当然だろう。

 おそらく、「ゼロ年代の想像力」としてひとくくりにされているものは、多様な立場の人の利害のせめぎあいから帰結したコンテンツのほんの一面を示したものに他ならないだろうし、「無根拠になされている」と言われているさまざまな人のさまざまな信念や実践には、それぞれの人の生い立ちやさまざまな人の集団の背景が刻まれているはずで、そうしたものを繊細に見分ける努力がなければ、きれいに分析できる程度に顔の無い大衆が右往左往する姿しか見えてこないはずなのだから。


(追記)
次の記事を先に読んでいたら、こんなエントリーは書かなかったなとあとで反省。
Hang Reviewers High / ゼロ年代の想像力
自分の論点のほとんどは先取りされていてた。好意的な読みをしながら限界をしっかり指摘しているので、「宇野常寛に腹を立てた人」は、むしろソメルさんの文章をしっかりよんでいただきたいくらい。

あと、CrowClawさんの記事を引用しておきながら次の記事をスルーしていたのは失礼すぎでした。
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でも、ここの話って、誤読とか誤解でしたでは終わらない何かと言う気もしています。
(2009/2/25)


(追記2)
ゼロ年代における「契約から再契約へ」の想像力 - ピアノ・ファイア
これはすごいスピノザ主義。決定的な宇野批判じゃないかという気がする。まったく、こういう文章をすぐ見つけられないあたり自分のアンテナとか検索技術とかなまりすぎ。

(09/3/8)

☆関連リンク
「大きな物語の失効」が失わせたものとは - A Road to Code from Sign.
本文でも論旨とは別に参照しましたが、日本におけるポストモダン論史の見事な要約。参考にしたい。

http://www.actio.gr.jp/2008/12/26061537.html
宇野さんインタビュー

「ゼロ年代の批評」のこれから──宇野常寛さんロングインタビュー - 荻上式BLOG
宇野さんインタビュー

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北風に吹かれていじけるような人間は、結局何をやってもダメなんです。何をやってもダメな人間を有効活用するためには、見せしめにすることです」と宇野氏は言う

慎ましくエレガントに他者とコミュニケートする宇野さん、とでも皮肉ってみたくなるところですね(笑)

無効なURLです
また宇野さんインタビュー

惑星ソラリアの彼方へ - FC2 BLOG パスワード認証
こういう人もいるくらいで、超越性の話って、そんなに単純に片付く話ではないと思うんだな。

*1:以下の叙述にぞんざいさがあるとしたら、私がその程度の評価しかしていないということの反映だろう。

*2:さしあたり、宇野が視野に入れているであろう東浩紀の言う「否定神学」という用語に比べてさえも、宇野の用語は貧しすぎる。「私とあなたは分かりあえるのか。伝統的にこの問いに対しては、2種類の回答しかない。いつか分かりあえるという答えと、絶対に分かりあえないという答えだ。『存在論的』の言葉で言えば、前者が「形而上学的」回答で、後者が「否定神学的」回答ということになる。そして、否定神学的な、つまり「絶対に分かりあえない」という答えには、実はオマケがついている。私たち人間にとってはその「絶対に分かりあえない」ということこそが大事なのだから、その不可能性を正面から見据えて生きて行け、という倫理的な要請だ。別の言葉で言えば、人間間のコミュニケーションは不可能だから、神とのコミュニケーション(内面にしかないコミュニケーション)だけを信じろ、という要請である。」hirokiazuma.com

*3:たとえば、前掲書p.96など