テン年代とか言いたくないあなたへ+

60年代とか80年代って言葉には、それぞれ明確なイメージが与えられているので、自分が高校を卒業した1990年頃には、「これからいよいよ90年代を自分は目撃するんだな」とかと思ってひそかに興奮したことがあったけど、別に90年代と言ってひとまとめにできる一時代が来たわけじゃなかったなと思い返したものだ。

00年代とか「ゼロ年代」とか言われる10年が終わって、西暦の下二桁が繰り上がったタイミングで、あれこれ節目を作りたがる人も多くて、そういうお祭りに参加できるひとは、それはそれで楽しいのかも知れないけど、僕などは、胡散臭いなあと思う方だ。

「10年代どうなる?」とか「ゼロ年代総括」とかのいちいちに、あれこれ「何か違うよなー」と思う人のために、思いつくことをメモしておきたい。

お祭りとしてのDecade回顧

命名者が誰かよくしらないけど、なんとなく「ゼロ年代」評論家という立ち位置を本一冊で奪取したのが宇野常寛って感じですよね。「テン年代」の命名者は、佐々木なんとかさんらしいです。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

本書p339に、「しかし、いずれにせよ、もうほんの僅かで『ゼロ年代』は終わります。二〇一〇年代(筆者はそれを『テン年代』と呼びたいと思います)の『ニッポンの思想』は、果たしてどうなるのでしょうか。正直言って、筆者にはまだ見当が付きません」という一節が読まれる。もしかすると本書は後世、この最終第八章の最後のページ最後のパラグラフによって記憶されるのかもしれない(ヤだけど)。言うまでもなく、「テン年代」の名付け親として。
後世に残る(かもしれない)本

僕なんかも、「テン年代」とかって言葉は括弧抜きで自発的に使うのは、嫌だなーって思いますが、こういう風に言葉の旗を振ってみせるのは、ある種の祭祀ですよね*1

一年の切れ目が1月1日であるってことに、夏至とか冬至とかみたいな何か自然な理由は無いので、暦というのは、一種の人為的な産物であり、社会的にはゆるぎない現実ではあるにせよ、ある意味では共同創作的なフィクションと言っても良いわけですが、こういう節目を社会に印付けるのは、みんなで参加するお祭りのようなものですよね。
一種の同時多発的な儀式によって、社会の足並みが調整されるわけです。何か、社会の存続の上で、いろいろな効用があるのでしょう*2

こういう暦というのは、きっと起源をたずねると農耕と結びついていて、農耕は領土と結びついているので、暦を共有することは、領土の形成とか、そこに定住することに結びついているのだろうと思う。

つまり季節のお祭りって言うのは、農耕のスケジュールと結びついていて、今年の収穫を寿ぎ、来年の収穫を祈るわけです*3

そういうところで、祭祀と権力と経済が結びつくっていうのは、専門の知識がなくても、なんとなくわかる。

1年ごとの振り返りを10年で束ねてみせるというのも、そういう農耕社会の祭祀が社会を司る上でいろいろ効能があったってことに通じるようなことなんだろうな、と思う。

ぶっちゃけて言えば、10年刻みのふり返りで言論において旗を振ると、いろいろな収穫を溜め込んだり、自分のものにしたり、分配の仕方を司ったりする上で、いろいろ効能があったりするってことだろう*4

10年刻みの時代イメージとかが共有されていると、それで促進されるコミュニケーションもあり、それで売ったり買ったりしやすくなるものもあるってことだ。

同じお祭りに参加していれば、そのコミュニティーに加わっていけるし、縁日で儲けてもいいし、買い物を楽しんだって良いわけだ。お祭りで描かれる歴史絵巻が史実とあってるかどうかとか、いちいちツッコミ入れるのも粋じゃないかもしれないけど、お祭りを外から観光客みたいに眺めて楽しんだっていいわけだ*5

いろんなサイクルがある

一年のサイクルには、季節という自然のリズムが刻まれていて、年輪なんて如実にナチュラルなものさしとして機能するわけで、社会の動きにもそういうサイクルが刻まれてくるし、人々が自然にそこで歩調を合わせるようになるのも肯ける。

じゃ、10年サイクルには、節目としてどんな性格があるんだろうか。
まあ、任意のサイクルのひとつだよね。10進法使っていると、やっぱり10の位や100の位が変わると、なんか更新したみたいな気分になる。

10年刻みには、それ以上の意味はないよなーと思います。

たとえば、6-3-3制と十二支が人生の節目になっているんだから、時計とか時刻でおなじみ12進法で年の節目を考えると見えてくるものがあったりすると思う。みなさん、自分の人生6年刻みで振り返ったり、6年刻みで計画たてたりしてみると、いろいろ発見があったり、効用があったりするかもしれませんよ。

社会の節目というのも、新年と新年度が違うし、それと会計年度が違ったりとか、あれこれ締め日と入金日がずれてたりとか、週ごと月ごと年度ごとのサイクルっていうのは、ずれながら重なり合いながら、いろんな種類のリズムを刻んでいるわけです。

だから、そういう実際に人の動きを左右している節目の複合の中から、10年100年の社会の動きにも、あれこれのうねりみたいなものが立ち現れてくるってことは、言えるような気がする。

だから、10年周期くらいの変化というのがいろいろ複合して、社会の中に10年刻みの区分に説得力を与えるようなうねりがあるのかもしれない。

でも、10年周期っていうのも、基点が西暦の0年で無ければならない理由は無いわけで、それぞれの社会が、それぞれの0年を、複数持っていて、そのサイクルが幾重にも重なっているんだと思う。

敗戦を基点に10年を振り返る

10年刻みのなかでも、日本においては敗戦の1945年を基点にした刻みは、社会の動きを分節するのに、いろいろ有意義なものだろうなと思う。

敗戦10年後と言えば、いわゆる55年体制が成立した年。社会体制の変容が、10年くらいで固まるというリズムを見出すことはできそうだ*6

最近では、2000年よりも、オウム事件阪神淡路大震災があった1995年の方が、日本社会の節目として大きいように思う*7
なにかとひとくくりにされがちな80年代だけど、バブルは後半の話で、80年代前半はむしろ不景気だった。85年から94年までで括ったほうが、バブルの高潮と退潮って感じで、わりと一貫して語れるような気もする

だから、敗戦を基点にした10年刻みの戦後暦の方が、西暦の下二桁よりも、社会の実際のうねりに近似した尺度になるんじゃないかという気もするわけです*8

なので、「テン年代」と言いたくない人は、「今年は戦後66年だな」と思っておくと良いと思います*9

戦後ゼロ年代から戦後60年代まで

というわけで、敗戦を基点にした10年刻みも、もう7週目、戦後60年代の折り返しと言う風に世の中を見てみようと思うわけですが、戦後Decades論をでっち上げる暇も余力も無いので、どうしようかなーと思ってたら、くるぶしさんのまとめた「慶応2年から平成29年までのベストセラーをリストにしてみた 読書猿Classic: between / beyond readers」を思い出した。

そこから、敗戦後、節目の年の上位3っつを淡々と抜書きしてみよう。これだけでも、戦後Decadesのそれぞれの10年がイメージできるようではないか!?

1945年敗戦後  (昭和20年)

『日米曾話手帳』(科学教材社)

1955年  (昭和30年)

『はだか随筆』佐藤弘人中央経済社
『経済学教科書』マルクス・レーニン主義普及会編(合同出版社)
『慾望』望月 衛(光文社)

1965年  (昭和40年)

『人間革命(1)』池田大作聖教新聞社
『なせば成る』大松博文講談社
『おれについてこい』大松博文講談社

1975年  (昭和50年)

播磨灘物語(上・中・下)』司馬遼太郎講談社
『複合汚染(上・下)』有吉佐和子(新潮社)
欽ドンいってみようやってみよう(I・II)』萩本欽一集英社

1985年  (昭和60年)

スーパーマリオブラザーズ 完全攻略本』ファミリーコンピューターマガジン編集部編(徳間書店
アイアコッカ』リー・アイアコッカダイヤモンド社
『科学万博つくば 85公式ガイドブック』国際科学技術博覧会協会編(講談社

2005年  (平成17年)

『頭がいい人、悪い人の話し方』樋口裕一(PHP研究所)
『香峯子抄』池田香峯子・述 主婦の友社編著(主婦の友社
『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学山田真哉(光文社)

出版史的に見ると、戦後60年期は「新書バブルとその崩壊」とかいう風にまとめられるのかもね。
10年ごとの傾向を丁寧に見たらもっと面白いものが見えてくるかもしれません。


このエントリーかいてて、そういえば『1000年刻みの日時計』って映画があったな、と思いだした。
1000年刻みの日時計 牧野村物語 | 映画-Movie Walker
気が向いたら、そのうち、1000年刻み論も書いてみようかな。

(追記)儀礼について注を追加(1月11日)

*1:天皇の代替わりと年号が結びついていて、そこに祭祀があることが思い出されます。

*2:儀礼について:くるぶしさんのまとめは勉強になるなあ。儀礼を見たら分かること:祭り、科学、上流社会、会社組織 読書猿Classic: between / beyond readers

*3:狩猟採集的な季節祭もあるんだろうけど、詳しいことは知らない。まあ、ここでは、テリトリーと共同体の歴史が神話的な枠組みで共有されるという関連があるだろうということだけおさえておけば良いので、農耕か狩猟かという違いは、そんなに重要ではないかもしれない。

*4:まあ、だから悪いというつもりは無いです。経済も大事。商売も大事。政治も大事。ただ、大事にするにも仕方があるよねってことだけだ。

*5:まあだから「テン年代」という言葉を使うひとと、使わないひとが離合集散するゲームっていうのが、しばらく展開されると思うので、誰が、どんな風に「テン年代」という用語を使うか、使わないかに目を凝らしておくと、いろいろ面白いかもしれませんよ。てか、佐々木某さんは、何手先まで読んでこの言語ゲームをセットしたのだろうか?もしこれが天然な振る舞いだとしたら、すげー性質が悪い老獪さだよ!

*6:Wikipediaによると、55年体制という言葉の「初出は政治学者の升味準之輔が1964年に発表した論文「1955年の政治体制」(『思想』1964年4月号)である。」とのこと。約10年後に作られた言葉なわけだ。55年体制 - Wikipedia

*7:そういう節目って、いろんなレベルで語れるんだろうけど、最近目に付いたのは、「1995年はビジュアル系の分岐点?」って指摘。参照:ばるぼら × 前田毅〜ビジュアル系対談:激突!!血と薔薇 【後編】 - WEBスナイパー

*8:もともと60'sとか70'sって用語は、翻訳語として使われるようになったのだろうし、昔は「昭和ひとケタ」なんて世代区分もあったのだから、西暦の年代による10年刻みっていうのは比較的最近社会に広まったものなんじゃないかと言う気もする。

*9:「もはや戦後ではない」から始まって、「戦後レジーム」からの脱却とか、再び「もはや戦後ではない」(宇野常寛)とか「戦後の終わり」も繰り返し言われてますが、私としては、米軍が日本に駐留する限りは、第二次大戦の敗戦後として一時代と考えるのが当然だろうと思います。