栗原裕一郎の宇野常寛批判について+

大航海の終刊号に載った
栗原裕一郎「『ゼロ年代の想像力』に掲げる「決断主義」は果たして「ニヒリズム」なのか」
を読んだ。

大航海 2009年 07月号 [雑誌]

大航海 2009年 07月号 [雑誌]

ニヒリズム特集にひっかけて、宇野論をしたというもの。宇野常寛評価はまあ妥当なところだと思う。以下、件の論文を要約しつつ、いくつか気になったことなど。

栗原氏は、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で言う「決断主義」を、ニーチェの「能動的ニヒリズム」に該当するものとし、ナチズムに付随していた「決断主義」の流用である、とする。
そして「第一次大戦後のドイツにおいてニヒリズムに陥った大衆が「決断主義」的にヒトラーを支持した」のは、「経済崩壊が目前となり、混乱と不安が極度に達して、デモや流血沙汰が町中では日常になった」状況においてであり*1、日本が陥っている長期不況には、「パニック状況」の「兆候は見出すことは難しい」として、「ニヒリズムの質および深さ」において、比べ物にならないのだ、と栗原氏は論じている。宇野の議論が貧しい図式に過ぎないことを政治史、経済史を引き合いに出して印象深く示していて、いろいろ勉強になった。

宇野が参照している日本的ポストモダン論自体が、「大衆消費社会を背景とした共同体の解体という程度」に矮小化されたもので、「「大きな物語」なんて高飛車なジャーゴンをわざわざ使う必要は取り立ててない」ものである、と論じつつ、栗原氏は「日本のポストモダン的な言説でいわれる「大きな物語」とは結局のところ、高度成長期に人々が持ちえていた未来への希望というようなものでしかなく、端的に言えば「経済」である」「「景気」に還元されうるほどのシロモノにすぎない」と断じている。この認識が、栗原氏の宇野評価の基調をなしている。

栗原氏は、このような日本的ポストモダン論を「人文系のよくある議論」と呼び、宇野に先行する代表的な論者として宮台真司東浩紀の名前を挙げる。そして、宇野のロジックは「人文思想系の手垢のついたクリシェで出来上がっている」もので「論者が恣意的に敷いたフレーム上に、自説に都合のよい作品を恣意的に載せ」るという「非常に古臭い、オーソドックスな文芸批評的フォーマットに従順な批評」であり、「人文思想系でクリシェと化している認識を無批判に踏襲してしまった」ところに「宇野のフレームの誤りがある」とする。

日本的ポストモダン論のフレームを「人文思想系のクリシェ」と呼びつつ、栗原氏は、1995年が想像力が分かれる画期だとする宇野の主張を「経済成長をもはや期待できなくなった結果、人々が生きる意味や希望を失った社会がポストモダン社会であるという認識」を示すものとしてまとめた上で、田中秀臣のブログを引用しつつ、「その前提が間違っている」と指摘する。

さて著者(宇野のこと:引用者注)が、95年に注目したのは、日本の経済(本書ではなぜか「政治」の問題に還元されている)を考える上では確かに重要である。もっとも宇野氏のように経済のあり方の構造的な変化(「がんばれば、豊かになれる」世の中から「がんばっても豊かになれない」世の中への移行である」)とは考えていない。08年の現在でさえも潜在成長率は80年代にくらべてさほど低下していないし、マクロ経済状況さえ好転すれば80年代とさほど変わらない成長率を実現できるだろう。
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』と山形・稲葉の新教養主義 - 韓リフの過疎日記

宇野は、社会状況の変化によって想像力が変容したとして、フィクションに見られる兆候から社会に対する態度を考えよう、という議論を展開しているわけだが、栗原氏は、その問題の枠組みを経済の問題に還元した上で、経済の認識が甘すぎる、と批判していることになる。

宇野のいう決断主義は要するに能動的ニヒリズムだったわけだが、それに対する処方箋は、実存を賭けた「小さな物語」同士のバトルロワイヤルの彼岸とかそんなものではなく、政治経済レベルでこのたびの不況ならびに金融危機が回避されるか否かという水準で議論されるべきことだ。(栗原裕一郎『大航海』No.71)

その上で、「新自由主義とグローバリゼーションにより格差と貧困が蔓延して云々」という認識は、単純すぎる見方であり、経済政策は「大きな政府」「小さな政府」なんて「イチかゼロで決まっているものではない」とし、格差や貧困の問題は、日銀の金融政策が失敗したために経済成長の長期低迷の結果雇用状況が悪化したのが主な原因である、というのが「経済学方面では一般的な認識」だとする。栗原氏は、そういう経済的現実を単純な図式でとらえてしまうのが「人文系の議論にはよくある」過ちだと印象付けたいようだ。

以上が論文の要旨。
以下、気になったことなど。

まず、宇野が問題にしたかったようなゼロ年代的な「世相」というものは、果たして「景気」に還元されるのだろうか。統計上の経済成長率だけでは語れない、社会に共有された認識というものがあると思う。私は社会学には疎いのだけど、社会がどうあるか、ではなく、社会がどう見られているか、を問い、その変化から、フィクションに反映される想像力について議論するというのは、単純な経済指標には還元されない議論になると思う。その点を無視できるかのように議論を進める栗原氏の批判は、繊細さを欠いているように見える。
高齢化の進行や出生率の低下、年金制度の破綻などについての「社会認識」を加味したとき、単に経済成長率を比較しただけでは問題は終わらないだろうし、不器用にであれ宇野が提起しようとした社会状況の診断を、景気の問題に還元してしまうことはできないと思う。また、社会不安が暴動やデモとして示されていないからといって、大した問題ではない、と断じるのも、あまりに短絡的だろう。そこはかとない不安だからこそ、よりたちの悪い問題なのだ、とも言えるだろうから。

この点で、栗原氏の宇野批判論文は、宇野とだきあわせで「人文思想系=文芸批評」を軽蔑させるような印象操作を行う、プロパガンダ的な議論構成になっている。この点では、「動員」という論点についてはむしろ宇野の議論の方が、射程の長い問題を提起しているかもしれない。
栗原氏は、宇野について「「気鋭の新星」というポジションを党派的にもぎとった」と評しているが、そう語る栗原氏自身が、人文思想系クリシェという雑なレッテルを振り回しているように、党派的な振る舞いを示しているわけだ。

それで、栗原氏は、昨年来の金融危機について、「そのうち持ち直すだろうという期待も広まっている」と述べつつその文の末尾に

民主党が政権を取ったりしたらヤバそうだけど)

と加えている。
まあ、そういう一言を加えちゃいけないってこともないけど、まるで俺の方が正しい現実認識ができているんだぜ、と誇示するみたいな論調のあとで、こういうつぶやきを入れてみせるっていうのは後味悪いですよ*2
でも、こういう仕方でつぶやきを入れちゃうあたりも、実に、党派的振る舞いと言えるでしょうね。何というか、政治的現実を直視するリアリストとして、政治情勢のことも語るんだぜ、って感じか。

それはさておき、栗原氏の議論自体、単純に言えば、「現実を直視しよう」という議論になっているのだけど、そのためにより現実的な認識をいろいろ典拠を挙げて示唆するのは良いとして、そのことを主張するのに、人文思想系は現実を正しく捉えておらず、あまり考えもせずに同じクリシェを繰り返している、なんて風なことは書く必要が無い。つまり、

経済学方面=現実/人文思想系=妄想

みたいな二元的図式をあえて描かなくても良いのになーと思う*3

栗原氏がここで「人文思想系」と一括しているのは、多分、『現代思想』『ユリイカ』『批評空間』とかから最近の『思想地図』あたりまでに良く見られるような批評的言説のことを言いたいのだろうと思う。柄谷蓮実浅田フォロワーみたいな。
私としては、上に挙げたような雑誌に載ってる論文が一律にクリシェだけなのかどうか(そんなにいちいち読んでないので)判断は保留するけど、書店や図書館の「人文系」の棚に並ぶような本や雑誌に、安易に「ポストモダン」論のフレームに乗らないような、もっと良質な議論や論文は見出せると思うので、東=宮台あたりに「人文思想系」を代表させてほしくないなーと思う。

あと、ついでに言えば、宇野が整理しきれてなかった「物語」という用語を、栗原氏も十分整理しないまま宇野にのっかって議論している*4。まあ宇野の議論の要約なのでそれで良いのだけど、物語概念への批判がおざなりになっているので、批判的な議論の足場が固まっていない感じがする。

それは、宇野が「(地下鉄サリン事件に象徴される社会の流動化)=「文学の問題」」と定式化した点への批判が、駆け足のものに終わっていることに通じていると思う*5

おそらく、宇野の「ポストモダン論」の年代区分に基調を与えているのは、宮台真司というよりも大澤真幸の議論だろう*6その点をスルーしているのも、栗原氏の議論のひとつのバイアスを示している。

栗原氏としては、大澤真幸の議論もオウム事件をめぐる物語のひとつということになるのかもしれない。そんなに簡単にスルーしちゃって良いのかなという気もするわけだが、そのあたり、栗原氏自身が『WALK』誌に寄せた「秋葉原通り魔事件が物語化を拒むのはなぜか」という論文を参照指示しているので、そちらを併せて読んでから考えろよな、ってところだろうか。

☆関連リンク
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090618/p5
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090610/p2

関連エントリー
『ゼロ年代の想像力』を読んで腹を立てた人のために(再加筆版) - 白鳥のめがね

(追記)
物語論という観点からは、福嶋亮大氏の次のエントリーでの宇野批判が参考になる。統辞論的なレベルと範列的なレベルの対比という図式で読みきっている議論が鮮やか。面白い。(8月12日)
http://blog.goo.ne.jp/f-ryota/e/62a079223390b5737989dac2eeb19a21

*1:経済史的な状況描写の典拠として村瀬興雄『ナチズム』、若田部昌澄『改革の経済学』を挙げている

*2:別に私は民主党支持でもないし、むしろ、民主党には警戒する方ではありますが。栗原さんは次のような見解などを参照していらっしゃるということでしょうか2009-05-11

*3:まあ、人文系と言われる学科なりが総じて学問的に言ってレベルの低い実践に若者を囲い込んでいるっていう傾向がかなりあるってことは、私も認めざるを得ないところがあるけど、だからって、人文系の成果にはクリシェしかないといった偏見を助長するようなことを書かなくても良いだろう

*4:一方で「「小さな物語」とは具体的にはサブカルチャー作品のこと」、としながら、他方で、「「小さな物語」という小さな共同体」と論じている

*5:宇野が文学の問題と対として挙げるのは「政治の問題」=(平成不況の長期化)で、栗原氏は同論文でこちらを主に批判していることになる。

*6:動物化するポストモダン』でも大澤『虚構の時代の果て』の時代区分に依拠した議論がなされている