「キレなかった14才 りたーんず」、あるいは演劇の再起動

劇評サイト/メールマガジンのワンダーランドに、「キレなかった14才 りたーんず」全体を振り返って論評した記事を寄稿しました。以下、紹介をかねて多少の補論を。
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

準備期間も含めたフェスティバルの全体を、ロビー企画も含めてひとつの演劇作品として捉え、戦後演劇史の中に位置付けたというもの。上演6作品それぞれを3〜4行にまとめたところがちょっと自慢(笑)

フェリーニの『8 1/2』と類比したあたりは、まあもうちょっと議論のしようがあるかもしれないけれど、ジャンルや様式に危機が生じる歴史的社会的条件があるということが言いたい。そして、映画史に先行例を求めたのはまあたまたまのことで、こういうことは様々な仕方で様々なジャンルで歴史的に繰り返されていることでもあるのだろう。

「演劇の再起動」という言葉を比喩的に使ったのだけど、過去のデータを全て保存しながら、一端リセットして立ち上げ直している、そういう感覚を言いたいわけです*1

岸井さんは「彼らに共通する、そして彼らからしか感じない不気味さ」と言っている。
2009年05月: 21=2009.05.06.−04.16.
たぶん、僕が図式化した、「りたーんずは「演劇の再起動」として演劇史と断絶し、あくまでデータとして過去の演劇史を参照している」という整理は、岸井さんの言う「不気味さ」を説明しようとする試みなのだろう。

そんなに誉め過ぎてもいけないのだろうけど、一定の評価はすべきで、その仕方が問題だ。
最後に戸井田道三を引いたのは、まあ、半分は偶然、半分は私の知識が半端だから思いつくものを挙げたまでだ。ともかく、演劇史的に新劇へのリンクを張っておきたかった。自分としても、その辺疎いので、木下順二とかちゃんと踏まえておきたい。

その辺、戸井田道三じゃなくて、ジェイムソンの次の言葉で締めくくっても良かったかもしれない。フェスティバルは、新しい現実を作ることに他ならなかったわけだから。

作風を変化させたいと望む芸術家や作家が、ふたたび、まず最初に世界を変えなければならないという結論に達するようになっても、少しもおかしくはない。(『のちに生まれる者へ』p.154)

のちに生まれる者へ―ポストモダニズム批判への途 1971‐1986

のちに生まれる者へ―ポストモダニズム批判への途 1971‐1986

*1:中屋敷さんがインタビューかなにかで、衛星放送の舞台映像をいっぱい見た、と言っていたけど、そういう風に豊富な映像資料がまずあって、そこで演劇史にアクセスするのが当然の環境から出てきた演劇的才能というところ。他のジャンルでは当然になっていた参照の仕方が演劇でも整ったのがこの世代からだったというまとめかたもできるかもしれない。