作中現在がずれていく(2)―『ガラスの仮面』と演劇史―

作品完結が長引くと作中現在がずれてしまうって話でいえば、リアルな現在の方にあわせちゃった『ガラスの仮面』がすごいことになってたんだった!

それにしても昭和から続いているマンガで携帯電話を出すのはやめてほしかった。全体の雰囲気としては昭和っぽいのに、無理に現代的にしているようで違和感があります。チャンネルを替えるのにガチャガチャまわすタイプの古いテレビや旧式の電話などが出てきた初期の頃を考えると作品全体としては時代設定がアンバランスになっちゃうよね(^^;) どうして昭和の時代のお話ということでやっていかないのかなあ。しかしマヤの住んでいる昭和風オンボロアパートは健在だったね。
http://www.mypress.jp/v2_writers/max0326/story/?story_id=827373

なにしろ1976年に「花とゆめ」で連載が始まったとき、北島マヤは中学生だったわけです。それから高校に入って、ちゃんと卒業したのかどうかは忘却の彼方ですが、とにかく作品内時間は数年くらいしか経ってないはず。
つまり、:::略:::「ガラスの仮面世界」ではまだ80年代初頭くらいのはずなのです。にもかかわらず
「ガラスの仮面」のアレ: たけくまメモ

ガラスの仮面』って、「母もの」っぽく始まっていて、「戦後」の少女マンガ史を辿りつつ始まっている感じもある。アナログ地上波TVの終焉とかを前にして、アクチュアリティを失いかけているところで未完なわけか。

東京大空襲があったときには月影先生は 20歳
http://qootas.org/blog/archives/2004/12/_42.html

http://homepage2.nifty.com/suzu/profile/profile_top.htm(公式サイト)

美内先生は作中世界の時間の流れの整合性よりも、リアル世界との「現実感」のリンクを優先したってことなんでしょうが*1携帯電話に劣らずずれちゃっているのは、演劇の描き方ですよ*2

ガラスの仮面』借りて読んだのも10年くらい前なので、何巻くらいか忘れたけど、若手のアングラっぽい劇団に修行に行って野外で『真夏の夜の夢』をやるって話が、あったと思う。
http://www.mypress.jp/v2_writers/max0326/story/?story_id=1782319

76年連載開始と考えると、原作の連載当時すでにアングラ演劇って古い話になっちゃってたと思うけど、そのイメージは強かったんだろうな。いまどきあんな若者劇団なんてありえないわけですけど。

〜60年代アングラ演劇極私的ライナー
PARCO FACTORY アングラ演劇ポスター展

ガラスの仮面』の演劇イメージだと、80年代小劇場も、「現代口語演劇」も、無かったことになってしまうという・・・・。演劇史にもあれこれ消長があったんですけど一般の「演劇」のイメージは変わらなかったっていう寂しい話ね。

確か美内すずえってロシアに演劇の取材に行ってたと思うけど、スタニスラフスキーが未だに演劇のイメージとして中心に来るみたいなところで『ガラスの仮面』は生きているわけか。

ガラスの仮面』読んで演劇志す人はけっこういるみたいで、演劇の方には思いっきり影響あたえてますが・・・・。
☆★たのしんぼ日記★☆:音楽劇「ガラスの仮面」観てきた
http://homepage2.nifty.com/suzu/info/05_kami/kurenai/kurenai_3.htm

演劇と芸能界やテレビというメディアの関わり方っていうのも変わりつつはあるんだろうけど・・・・いずれにしても、戦後的なテレビのあり方と少女マンガのあり方が結びつくところに成り立っている『ガラスの仮面』。夙川アトムがやるような業界人はいまさらあまりいないっぽくてもイメージとしては強く残ってるからパロディとして成り立つみたいな。


テレビ進化論  (講談社現代新書 1938)

テレビ進化論 (講談社現代新書 1938)

本書はまず、「ギョーカイ」の特殊性から語られる。
歴史的な認識なくしてはものごとを語れないというのは
どの世界に於いても同じである。
芸能界、TV業界、映画業界など、彼らは自分たちの持っている
既得権益を守りたいと思ってる。当然である。
既得権益の中から利益は生まれてくる。
いつまでもブラックボックスのような状態で
ものごとが作られているならばそれでよかったのかも知れない。
しかしパソコンとインターネットの普及によって
そのこと自体が現実的に崩壊しつつある。
誰でも、コンテンツを簡単に作る事が出来、
そして誰でもがインターネットを通じて発信できるようになった。
そのことによってギョーカイのブラックボックスは崩壊しつつある。
http://www.pmaker.jp/alti014/index.php?action=article&numero=51


2011年以降、テレビのあり方が変わって、インターネットも世の中にさらにビルトインされるようになってくると、いよいよ『ガラスの仮面』も「時代もの」になるのかもしれない。でも、地デジ化しても、演劇とか芸能人とかのイメージは、今とあんまり変わらないままなのかもしれない。

そうなっちゃったら残念なんですけどね*3

*1:表象としてのマンガ表現について、ここからあれこれ考えてみることもできるでしょうけど

*2:携帯電話とPCとの違いみたいな話も読み込めるかもしれない話題ですけどね。北嶋マヤの世界にはインターネットは描かれてないのかな。知らないけど。インターネットが演劇を変えたっていえば、シベリア少女鉄道はネットでメンバー募集して始まったという話とか。

*3:日本語が亡びるとき』がかきたてた問題意識も、今のイメージが温存されてしまうことへのそこはかとない焦りと関わっていると思うけど、同書で描かれた図式は現状診断として何の処方箋も与えてくれないところが問題なわけで