ハイバイ「リサイクルショップ『KOBITO』」

ワンダーランドのクロスレビューに次のような評を寄せた。以下引用。

 集団性の演劇、という観点からポツドールと比較できる(集団性を世代や性別に還元する必要はない)。ただし『KOBITO』では個人史の束として集団の歴史性まで捉えている点で、遥か遠くまで射程が及ぶ。また、演者と役の入れ替えが常に可能であることが示唆されている点で、歴史を偶然の相において捉えている。近代的(新劇的)演劇理念に基づく劇中劇の指導が集団性により崩壊する前半と回想劇が遊戯的に多重化する後半が併置されることは、集団性の多面的な描写として理解できる(それを観察者の視点から結びつける処理は取って付けたようだが、瑕疵である)。衣服や商品は歴史を帯びた事物として舞台に散乱し堆積している。多視点的な歴史描写のモザイク的交差と事物の散乱が、二次大戦が寸断した断片の集積としての現在を見事に浮かび上がらせている。「現代口語演劇」を内側から乗り越える試みが演劇史への参照と重なる地点にある作品。(6月15日所見)
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

ハイバイ「リサイクルショップ『KOBITO』」ママとのシンクロ率100% - 東京とうきょうとーきょー日記
の記事を読んだら、いろいろ思い出した。案外、この舞台のことは良く覚えているのに、感想をしっかり書かなかったのはもったいない気がする。

ここで、「観察者の視点から結びつける処理は取って付けたようだ」というのは、女優が演じてた役柄(まじめな劇団員風で、おばさんたちが芝居によって立ち直らせようとしている設定の女の子)の登場人物が、観察者の位置にいたという作劇上の処理のことですね。

「集団性を世代や性別に還元する必要はない」というのは、この芝居で描かれている「おばさんたち」のありさまというか集団性というのは、おばさんたち固有の集団性というわけではなくて、ああいう集団性は他の世代にもあるし、男たちの集団にもあるだろうということ。まあ、違いもいろいろあろうけど。

「「現代口語演劇」を内側から乗り越える試みが演劇史への参照と重なる地点にある」ってことをちゃんと論じるだけで本が一冊書けるよね。

中盤で、工場の作業みたいなものを、そのへんのごみみたいなものを積み上げるゲームみたいに演じていた場面が素敵で良く覚えている。何が素敵かって、ただの遊びみたいなものに必死になっているってことが、高度経済成長期を支えてた女子工員の人たちのひたむきさを描いているそういう重ね合わせの仕方みたいなものがとても自由な感じだったし、そういう無邪気さみたいなものが確かにあの時代の必死に働いてたひとたちの間にはあっただろうって思うのだけど、そういう感想も事後的な解釈にすぎなくて、意味も無くおもちゃばこから引っ張り出してきたみたいなあれこれのグッズというか、いろんなものを積み重ねようとする時間の持続のありかた、その質が素敵だった。

あとカーステレオで尾崎の歌かなんか聞く場面がとても印象深かったのをなんとなく覚えている。赤い車が見えるようだ。

他に何か思い出して気が向いたら加筆する。

(2010年3月18日記す)