POTALIVE再考(3)

ポタライブは、町を舞台にして、町の特定の場所でパフォーマンスが行われる。でも、野外で公演を行うことが目的ではない。むしろそれは手段とも言うべきだ。何のための手段かといえば、あくまで、演劇のため、だろう。

岸井さんは次のように言っていた。

サイトスペシフィックな、とよく言われる。
その場にあわせた特別な、ということだ。

サイトスペシフィックな作品で、いいものは本当に好きなんだけれど、
僕は、別に、その場にあわせた特別なものには、本質的には興味はない。

僕が、劇場から外へ向かうのは、
抽象的な空間、どこでも同じように見える空間という概念が信じられないだけだ。
ましてや、抽象的な観客などというものは、ぜんぜん信じられないということだ。

人間は、抽象的ではない。
言葉は、どこかの場所・文化・状況でしか発せられない。

だから、額縁絵画は「美術館にサイトスペシフィックな作品」だと思う。
劇場作品こそサイトスペシフィックである。

僕は、いつでも、その場にたちながら、抽象的に発想したい。
ポタライブは、そうだ。
あの建物の傷の話と、ダンスが開く空間は、
抽象的なものだし、普通に、具体的だ。

だから、僕は、サイトスペシフィックな作家ではない。
あらゆるレベルでの劇場からの逃走者であり、
つまり、サイトエスケイプな作家である。

7月3日 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

ここで言われていることの射程を、その最大限の振幅において捉えないと、「百軒のミセ」がポタライブと呼ばれた理由は納得できないことになるだろう。サイトエスケイプ、という言葉は単なる韜晦ではない。「抽象」という言葉の両義性に注目すべきだ。

そこで、もう一度「演劇の形式化」という、岸井大輔の最大のテーマ、岸井大輔のライフワークそのものに向かいあわなければいけない。