近代日本語に弔いを(9)−「文(かきことば)」の演劇−

演劇作家の岸井大輔さんが、『日本語が亡びるとき』について次のように書かなかったら、ぼくは『新潮』に先に載った三章を読んだだけでおしまいにして、この本を手に取ることもなかっただろう。

水村の叫びに応える責が私にはあるだろう。文学の中でも演劇では、僕がこの問題を最も重く扱っているようだからだ。
『日本語が滅びるとき』を読んだ | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

今の日本で、演劇という芸術ジャンルに何ができるのか、その可能性を、地道に、したたかに、もっとも先鋭的な仕方で探求しているひとり、それが、岸井大輔ではないか、とぼくは思っている。

その岸井さんが、「文(かきことば)」と名付けた演劇的実験を、ここ二年ばかり、継続している。その意義について、考えてみたい。


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日本語で演劇を上演するためには、書き言葉としての側面をしっかり踏まえないといけないのではないか、と岸井さんは考えているようだ。

西洋の言語は基本的に、口語をどうテキストに落とすかで成り立っているから口語劇でいいんですが、日本語で劇を作るとなると、漢字仮名交じり文をどうするか考えなければいけない。能も歌舞伎もその問いには応えている。世阿弥近松門左衛門は戯曲家として、漢字仮名交じり文をどう劇化するか努力して実践した。
http://www.wonderlands.jp/interview/008/05.html#05_3

「口語演劇」全盛の今、演劇が現代日本において、どうあるべきかを探求していくなかで、岸井さんは書かれた言葉をいかに上演できるのかという課題と出会い、模索している。その試みは「文」と書いて「かきことば」と読む名前の下で継続されている。

現代文語はどうかと考えると、ほとんどの人は夏目漱石が現代文語を決めたと言います。ところが、今のところ漱石を上演し得る方法論はなくて、劇にするより読んだ方がおもしろい(笑)。じゃあ、漱石を読むよりおもしろい上演をやってみようと考えて続けているのが「文(かきことば)」の実験でやっていることです。
http://www.wonderlands.jp/interview/008/05.html#05_3

岸井さんは、演出家として、岸井さんの試みに興味を持った俳優達と、漱石の『夢十夜』の一作ずつを演劇化する試みを続けている。おそらく、見たことが無い人にはまったく想像もつかないだろう仕方で演劇化している。

たとえば、「文(かきことば)」の試演会の具体的なレポートにこんな記事がある。

まず一篇を演者が選び、後はひたすらその物語を構成している文章をすべて解体していく作業なのだとか。
文節まで徹底的に解体された文章は、そこに演者自身が意味を見いだしていき、そして、その意味を被せていきながら再構築を図る、そんな作品です。

ぼく自身は、『夢十夜』という作品は非常に淡々とした筆使いで、「こんなー、ことがー、あったー」と常田富士男のナレーションのような雰囲気を湛えた作品だと思っていたのですね。
そもそもが「夢」の話ですから、語り手は、あくまで観たままを語るしかできないのです。
それがこの淡々とした物語の特徴だと思っていたのです。

なのに......激しい。重い。
淡々としているのはあくまで表面上、見せ掛けだけで、そのように思った時点ですでに夏目漱石の術中にハマっているのではないでしょうか。
夢十夜』という作品が持つ本性は、巧みに構成された文章を徹底的に解体しないとまったく姿を見ることができない、そんな気がしたのでした。
三人三様の夏目漱石。『文(かきことば)』第2期第1回:ぼくのミステリな備忘ログ

つまり、文章をただ流して読んでいるだけでは気が付かない漱石の文章の特徴が見えてくるような上演になっている。

「文節まで徹底的に解体された文章は、そこに演者自身が意味を見いだしていき、そして、その意味を被せていきながら再構築を図る」というのをもうすこし説明してみれば、文章を切り分け、分析し、切り分けられた切片からうかぶイメージにあわせた身振りをそれぞれの断片にあてる。別の場所にあらわれる同じ言葉には、同じ身振りをあてる。そして、言葉を朗誦しながら、断片的な身振りを次々に演じていく。そういうようなことだ。

あくまで、文章が描き出す情景とは別のめまぐるしいイメージが舞台では展開される。それが、文章がもっている構造を舞台の上に描いていくかのようである。

さて、「文(かきことば)」成立のいきさつをもう少し詳しく、インタビューの該当部分を引用して、まとめておこう。

岸井さんが演劇にとりくむ理論的な出発点は、次のような認識だった。

現代芸術の誕生のあたりで、それまで結果から定義されていたジャンルを、作品の作り方からの定義に変えるという作業を経ているんです。しかも、その創作方法というのは、ある作家個人がイメージする結果を作り出すための方法ではなくて、そのジャンルに属するものすべてが共通して使えるものです。その方法による作品創作の成果があって現代芸術は生まれましたが、演劇にはそれがないことが問題なのではないか。
http://www.wonderlands.jp/interview/008/03.html#03_2

そういう問題関心から岸井さんは、演技の形式化、演劇の形式化、を構想する。
「文(かきことば)」で用いられている演技の方法論も、そんな理論的背景から生み出されたものだった。

岸井さんはワークショップでの試演を繰り返す中で、演技がなりたつ条件についての洞察を深めていった。

岸井 いろいろワークショップをやってみて、ぼくが、演技していると感じるのは、行為と行為の移動だ、と思いました。まず、人間は、行動するとなんらかの意識をします。しかし、意識のピークは持続できない。本当に一瞬でしかなくて、意識した直後には、もうその意識の残響で体が動いている。あとは、意識を続けようとしても、意識しているフリになってしまって演技としては見るに耐えない。この「意識があらわれる、意識の一瞬のピーク、意識の残響」は、せいぜい10秒くらいしかもたない行為の持続の最小単位です。そして、意識の残響がある間に、次の意識があらわれることで、行為がつながって見えるのではないか。実際ナチュラルな人間は、そうしているようにぼくには感じられます。その行為と行為の移動を正確に再現する技術が演技なのだと考えました。ならば、そのための方法を考えればいいだけです。
http://www.wonderlands.jp/interview/008/03.html#03_2

その認識から、意識の一瞬のピークを次々と重ね合わせていく独特の演技スタイルが生み出された。かつては、それはPと名付けられ上演されていた。

岸井 そうですね。では「P」という方法の説明をしますね。
 「P」は、最初に文を準備します。この文は何でもよい。「才能」から演劇の創作方法を解放するために、図書館でサイコロを振って、テキストを選んだりしていました。サイコロは「P」の象徴となるアイテムですね。今仮に、準備した文を「最初に文を準備します。」だとします。この文をサイコロを振って、文字数で、いくつかの部分に分けます。たとえば

1 最初に
2 初に文を準
3 を準備
4 備します

の4つにわかれたとしましょう。この分けられた切片はそれぞれ少しずつ重なりあっていることが重要です。それぞれの切片ごとに、イメージを別々の人が作ります。まあ、なんでもいいのですが、たとえば

1 最初に  : 学術論文の前書き
2 初に文を準: 三国志曹操が死ぬときに叫んでいる
3 を準備  : 幼稚園受験について噂をしている主婦達の会話
4 備します : 魚の名前

というイメージが集まったとします。で、ある人がそれぞれをイメージして動くと、4つの演技(行為の持続した身体)ができます。それぞれの部分ごとに、立っていることも座っていることも、現実的であることも幻想的であることもあります。あとは、これをつなげるだけですが、言葉が重なっている部分を、先に述べた「前の意識の残響が持続していて、次の意識があらわれようとしている」部分にあてるわけです。

−声に出される文章に対して、文章本来の意味からかけはなれた身体の動きが舞台で展開されるということですね。

(略)

−イメージを結晶化して、シーンをテキストの中にはめ込む。それを役者が集中して身体に持続させる。次々に現れる演技が舞台の上に、めまぐるしく、きらきらと輝いている。それだけでもうたっぷり演劇じゃないか、という感じですね。

岸井 そうそう(笑)。部分に分けるとき、サイコロを使っていましたが、普通に演技を作るならば、表現したい目的に合わせて部分に分け、イメージを決め、演技し、つなげれば、あらゆる演劇に対応できる、とも考えていました。
http://www.wonderlands.jp/interview/008/03.html#03_2

かつては、サイコロで切り分けていた文章を、テキスト分析によって切り分け、文章の構造を演技の継起に映し出すようにしたのが「文(かきことば)」だ。
それは、残された文字に潜在しているイメージを無法なまでに開放することで言葉の力を蘇らせることによって、見過ごされていた言葉を記念する場が開かれる、そのような営みだ。

水村美苗が問いかけた「問題を最も重く扱っている」と岸井さんが言うのは、その創作活動を通じて、書き言葉としての日本語において可能な美を演劇と言う形で生かそう、その極まりを生きようとしているからなのだろう。

読むことの視覚的経験、そこから無意識のうちに渦巻き、読み取られる意味の背後につねに潜在しているような言葉の運動の広がりが、ひとつの演技の連続として示される。
そういう仕方で、日本語を書き言葉として舞台に再生する上演としてある。

そのこと自体が、かつて弔いが共同体という集団の生命の更新と継続の儀式であったように、文字として残された日本語に、つかのま新しい活力を与え、蘇る場を与えている。
そして、見過ごされ、忘れ去られようとしている残された文字たちを記念する場を開く営みとなっているのだと思う。

その意味で、「文(かきことば)」を、近代日本語に対するひとつの弔いの形と言っても言いすぎではないかもしれない。


「近代日本語に弔いを」シリーズ

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*1:「百軒のミセ」で上演された『play away』で公開された稽古の様子。