POTALIVE再考

久しぶりにワンダーランドで記事書きました。岸井大輔新作、『play away』評。

『play away』の上演は、数時間の打ち合わせによって固まったシンプルなコンセプトと、いくつかの決め事、簡単な段取りだけで組み立てられた作品を展開してみせたもので、空間はただの空き店舗に素人が身の回りの範囲のものを持ち込んで仮設しただけのものだ。

そこに生じていたコミュニケーションのあり方が、順当にクリエイティブであっただけで、結果としてそれぞれの要素が相乗効果をもたらし、この上演は限りなく成功したのだろう。
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

この記事を書くときに端折ったことで一番大きいのは、『play away』自体がその一環に他ならなかった「百軒のミセ」という10日間足らずに及ぶイベントの全体がひとつのPOTALIVE作品であると言われていたこと、その意義の分析をしていないという点だ。

それは、簡単な補足で済むことではなくて、岸井大輔という作家の創作の足取り全体に関わる。POTALIVEという名に対する岸井大輔の距離のとり方の曖昧な複雑さの総体を批評する必要がそこに関わっている。

最近、岸井さんの日記をはじめからひとつひとつ読み返しているのだけど、POTALIVEの根源と発生について極めて簡潔に述べている文章があったのでここで紹介しておきます。

私は、ガソリンスタンドに渦巻く車コミュニティへの想いを表現することにした。
(略)このような場所に人を集め、古い記憶を再生させる演劇とは、どのようなものだろうか、と考えた。本物の町が相手だから、それなりの伝統と力がないと釣り合いが取れない。そこで、このガソリンスタンドの場所を抽象的に分析し、そこに相応しい演劇を探すことにし、私は、能を上演することにした。
(略)
思いついたときは、自分でもうまくいく自信はなかった。が、土地の質と芸の形象がはまれば、人の情念は集まってくる。ほとんど宣伝もしないのに、客席のないガソリンスタンドの周りは人並にうまった。
このように、いろいろな場所で、町に演劇を当てはめる活動を1年位した。楽しかった。劇場で作るより、なんというか、リアルなのだ。そして、これはなんだろう、と考えた。
土地勘を演ずる −POTALIVE市川編レポートー 1

芸術家は、素材への畏敬が基本である。演奏家が楽器を誰よりも大事にするように、演劇家は、人間の集団を自分の素材として誰よりも大事にするべきである。大事にする、とは、素材を知り、愛し、従い、よく見る。その結果として、よい作品ができるのだ。
で、あれば、リアルな人の集まりと大事に取り組み、結果としてその集団の自己表現を手伝うようなことをしたい。
そして、リアルな人の集まりの1つとして注目したのが、「土地勘を共有する集団」つまり地域住民である。
土地勘を演ずる −POTALIVE市川編レポートー 2

「百軒のミセ」の「上演中」に何度か出入りして印象深かったのは、地元のお店の人が岸井さんに感謝して協力してくれていたということだった。近頃岸井さんと話したとき「「百軒のミセ」がどこにつながっているのかわからない」という風なことをおっしゃっていた。岸井さんの中でも、あの上演がなんだったのかについての反省と模索は現在進行形で続いているし、それは次の企画の中にも続いてゆくのだろう。

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