Lifeでゲストの東浩紀/「私」を守る++

TBSラジオで日曜深夜にたまにやってる、鈴木謙介がホストのラジオ番組「Life」に東浩紀がゲスト出演するというので、聞いてみたが政治性についてまとまった話がされていたところが面白かった。
文化系トークラジオ Life: 2009/05/24「現代の現代思想」(東浩紀ほか) アーカイブ
2009-05-25

番組を聴いて、東浩紀って、私的なものを公的なものから守りたい人なんだろうな、と思った。番組の内容を自分なりにまとめながら、そういう感想を抱いたゆえんをちょっとばかり書いてみたい。

『批評空間』とかニュー・アカ的な「現代思想」について、鈴木謙介は「耐久消費財の需要が一巡しちゃった後に、感性の多様さを肯定するみたいな言説を流行らせたかったのは広告代理店だった」と背景を整理。そういう面で、現代思想が脱政治的に消費されちゃう世情はあった、と。

でも、東浩紀は、単にそういう「ノンポリ」じゃないんだ、と鈴木謙介は語る。

イデオロギー対立に還元される政治性を狭義の政治*1とすれば、その外に広義の政治があって、東浩紀は広義の政治が成り立てば狭義の政治なんていらないじゃん、と言っている点でラディカルな政治思想を語っているのだ、と鈴木謙介は評価する。

*2

左翼と右翼みたいなイデオロギー対立を前提にして、どっちの立場を支持するか、みたいな形で知識人の政治性が問われてしまう*3、そういう「政治性のアリーナ」みたいなものには乗りたくない、意味がない、と東浩紀

番組で語られたことから東浩紀の政治についての考えをざっくりまとめると

自分の立場を肯定するのは、政治や思想ではない。
自分の個人的な立場を括弧入れするのが、政治や思想の力。
しかし、どうせ、人間は私的利害からしか発言できない*4
情報のレベル、無意識のレベルでしか、普遍性は確保できない。
アレントが語ったようなポリスの空間はgoogle的なものの中にしかない。

という感じ。


ルソーを引き合いに出し、ルソーの言う全体意志は私的利害のせめぎあいの全体みたいなもので、たとえばMixiに書かれていることの全体がそうだ、対してルソーの言う一般意志は、私的利害を超えたレベルにある、公共性について議論抜きで自然に立ち上がってくる、決して間違えることのない非人格的な判断というようなものだが、ルソーの頃には一般意志を可能にする技術が無かっただけで、たとえばgoogleが集積する情報から一般意志が浮かび上がってくるんじゃないか、という風なことを東浩紀は語った*5

東浩紀 一般意志っていうのは、人々がごちゃごちゃ言っているのを超えて、それぞれの人間の行動とか生き方そのものとかが、統計的に集積され、非人格的かつ匿名的に立ち上がってくるある種のデータベースのようなものなんですよね、今読み直すとね*6

動物化とか工学とかアーキテクチャーとかって話の政治性っていうのは、そういうところになるみたい。
そういうの、個人的には実現に向けた構想は欠いたある種のユートピア的思想かなとか思わなくも無いけど、ここでは批判がましいことは控えよう。

この辺の、政治がらみの話は、昨年末のエクス・ポトークイベントで語られたことの延長にあるみたい。
ポストモダンの自動人形 - A Road to Code from Sign.(←件のトークイベントの音声をリンクして考察)


この政治の話、「いわゆる現代思想はそもそも人生に役に立たないものだ」という番組前半の話と表裏になってると思う。

 あらゆる人がものを考えているし、あらゆるところに思想はあるし、それが役立つかどうかは、それぞれの人の人生のパラメーターに依存しているので何も言えないから、早い話、みんな良い人生を送れるように考えていこうよというしかない、そういうことにヴィトゲンシュタインとかフーコーとか、何の役にも立つわけが無いって結論は出てる。*7

そういう水準とは別に、かつての「現代思想」に関心を持つような読者の需要はあるし、そこに届く思想雑誌を作るのが自分の仕事だと考えていると東氏。

面白いのが、小松左京の「神への長い道」という小説への興味を語っているところ。
その小説では、21世紀人が冷凍睡眠か何かで40世紀に行くんだけど、そこでは未来人が互いに恐ろしいスピードで話しているけど、話はかみ合ってなくて、ところどころのキーワードを拾って連想したことを話しているだけだ、という話。

番組で東浩紀は、「そういう互いに理解しあわないで勝手に言いたいことを言っているコミュニケーションの方がリスクやコストは低いかもしれない。というか、人間のコミュニケーションってそもそもそういうものだ。しばらくは互いに理解し合おうとするほうがコストは低いかも知れないけど、将来的には小松左京が描いたようになるかもしれないし、実際ネット上ではそうなりつつある」みたいに言っていた*8

そんなこと言いながら、「個人的には言葉それぞれには文脈があって、それを理解しようとしたほうが人生が豊かになると思いますけど」と言っていたりするのが面白い。

たとえば、例の南京がらみの問題*9

ぼくは最近、2ちゃんねるはてなブックマークもなにも見ていません。精神の健康によくないからです
hirokiazuma.com

なんて言っていたことや、

本を読むというのはきちんと最初から最後まで読むことなのだ、あらゆる文章がマッシュアップの素材なわけではないのだ、という「常識」を、グーグル以降の世代にどれほど説得的に伝えられるか。正直言って、あまり自信がありません。
2009-04-24

なんて「常識」をあえて語っていることとも関連するよなー*10

こういうところの捩れみたいなものは、人格とかが無縁になる状況への憧れと表裏一体の、人格的なものへのこだわり、というのがあるようで、そういう捩れからみえてくるのは、たぶん、東浩紀と言う人は、「私」を棄却させるものとして政治や思想を語るという仕方で、「私」的なものを政治とか公的なものから守ろう、守ろうとしている人なんじゃないか、ってことだ。

政治とか公的なものを、「私」とは無縁な水準に隔離しておきたいのだ。
それはそれで、確かに、きわめて政治的な主張であろう。

きっとそこに、東浩紀の思想的なモチーフが大きく絡んでいるし、東浩紀的な語りのあり方もそこに規定されているみたいだ。

番組を聴いて、あらためて、そんな風に思った。

あと、どうでもいいけど、時々、宮台真司が憑依したみたいな口調になるのが面白かったです。

追記)東浩紀の議論を注で補足(5月27日)

追記)番組の詳細なまとめ↓
文化系トークラジオ Life(TBSラジオ、2009年5月24日(日)25:30-28:00): ラジオ批評ブログ――僕のラジオに手を出すな!
番組から触発された考察↓
2009-05-25
シンガー関連の話↓
東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第12回(1/9) - メタサブカル病
(5月26日)

追記)りたーんずの雑誌編集した藤原さんがLifeからの考察をアップしてた。

うーむしかしじゃあこの「私」はどのようなプレーヤーとしてその「google的な公共性(略)」と関わって存在しうるんじゃろうかね、ということはいやでも考えざるをえない(略)し、学者でもないのだからどう実践するのかが重要である。その求める答えが、おそらく私的なものと公共的なもののあいだにあるということはなんとなくわかるのだが、それをどう結びつけてよいものかわからなくて、みんなそれなりに格闘しているのだと思う。
目の前のことから、ちょっとずつ世界へ - 新天地Q人日記(仮)

共有できそうな問題意識*11

東浩紀は私的なものと公共的なものを徹底して切り離すべきだと(少なくとも理念的には)考えているのだろう、と私は思う。
言い換えると、公的なものから切り離されることで、私的なものがどう変容するのか、そのビジョンのひとつが動物化という言葉で名指されている、そういうことだと思う。

追記2)
この一連の話は、かつてのギートステイトの構想にも関わっていると思う。SFマガジン連載中の『ゼロ年代の想像力』に触れる流れで書かれた文章。

 宇野さんは、「セカイ系=ひきこもり」を代表する批評家としての僕を批判しています。僕がはたしてセカイ系=ひきこもりの言説を代表していたことがあったのかどうか、本人としては疑問がありますが、確かに宇野さんの評価軸は僕の評価軸と異なっているのかもしれません。

 少なくとも、その差異は『ギートステイト』には現れています。というのも、僕と桜坂さんがここで目指しているのは、「成熟できない」という居直りでも「あえて成熟」の開き直りでもありませんが、かといって「小さな成熟」を描き出していくことでもなく、そのような「小さな成熟」がいくつも林立し、たがいに衝突しあっている——いや、衝突しないくらいに離れている、そんな世界を提示しようという試みだからです。桜坂さんが「群像劇」という言葉で強調しようとしたのは、『ギートステイト』のそういう性格です。

 さらに補足すれば、これはつまり、セカイ系がある種のリベラルの文学であり(それはひとを傷つけてはならないという内向きの倫理の文学なので)、宇野さんが称揚するのがコミュニタリアンの文学であるとすれば、『ギートステイト』はリバタリアンの文学を目指しているということを意味しています。
http://blog.moura.jp/geetstate/2007/07/post_406f.html

ギートステイトがGLOCOMの企画として始まっていたこと、そして、東浩紀がGLOCOMを辞めることになること、そのとき、フリーになることを喜んでいると公言したこと、それも含めての東浩紀の政治性、を考えてみたい。
hirokiazuma.com
(5月28日)

(追記3)
※朝生効果でLifeのポッドキャストに再度注目が集まっているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/wideangle/20091031/1256946390
(11月5日)

*1:宮台真司は、イデオロギー対立的な政治のアリーナに立たなかったために、一般にはブルセラ社会学者のイメージが抜けないままだった。政治的対立のアリーナに上らないで政治的な主張を一般に届かせることは宮台真司でさえ10年以上かかったのだ、という東浩紀的な整理も語られていた。

*2:番組中で(確か仲俣さんが選んで)かけられた曲

*3:たとえば、「ベーシックインカム」を政治的に実現しようと思ったら、左翼的な輪の外に支持を広げなくちゃいけないはずなのに、左翼は「ベーシックインカム」という言葉を占有しようとしている、とか、そんなことも、東浩紀は言っていた。

*4:普遍性を装った主張には私的利害が反映していることを明らかにした、人間中心主義批判、ジャンダー研究、ポストコロニアル批評、カルチュラルスタディーズなどが示した見解は基本的に正しい、と東浩紀は整理する

*5:最近ルソーについていろいろ語っているみたいだ。http://goto-yutaka.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-c6ae.html 英語のインタビュー記事でグーグルの話してたり。自由とコントロールの共存に興味ある、とか。http://web.archive.org/web/20071009115048/http://www.japansociety.org/web_docs/IN_Azuma-McGray+Interview.pdfライプニッツのように書きたいとか言っている。

*6:番組を録音したので、発言をそのまま文字に起こしてみた

*7:番組発言から、多少はしょって文字に起こしてます

*8:これの問題関心は、東浩紀によってたとえば、次のようにも語られていた「私とあなたは絶対に分かりえない。したがって、私は私の内面を、あなたはあなたの内面を見つめることしかできない。しかし、にもかかわらず、私の内面に見えるものはひとつではない。つまり神はひとつではない。私のなかには、たくさんの「神々」が、コミュニケーションのモジュール(『未来にキスを』で言う「属性」)が詰め込まれていて、あなたのなかにもまたたくさんのモジュールがあり、それらが勝手に衝突しあうことで、「私」と「あなた」のコミュニケーションは成立している。「私」というひとりの人間、「あなた」というひとりの人間、その両者は決して出会うことがないけれど、しかし、私の手とあなたの手が、あるいは私の唇とあなたの唇が、あるいは(あえてオタク用語を使うならば)私の「萌え要素」とあなたの「萌え要素」が、ほかにもさまざまな局所的で部分的なものたちが勝手に出会い、勝手に離散することで、私たちのコミュニケーションは成立している(ように見える)。私が考え続けているのはそういう問題だ。」 hirokiazuma.com

*9:あれこれ議論はありましょうが、まあたとえばリアルのゆくえしれず - キリンが逆立ちしたピアスとか、あるいは次のようなhttp://www.google.com/url?sa=t&source=web&ct=res&cd=4&url=http%3A%2F%2Fb.hatena.ne.jp%2Fentry%2F10970892%2F%2520%E6%9D%B1%E6%B5%A9%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E7%9F%A5%E8%AB%96%2520-%2520mahounofuefuki%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%A2&ei=yVIaSo7mE8eGkAWtqtGGDQ&usg=AFQjCNFWJBjLxee_OjSnfwOtd6roHyIKtg&sig2=tFuo87OCVAUCdFF35TaCfQ

*10:デリダのグラマトロジーの1章の表題が「書物の終わりとエクリチュールの始まり」だったことを思い出すと、ここで東浩紀が「常識的」立場をあえて語っていることはとても興味深い。東さんって、ピーター・シンガーとかローティへの共感を語ることがあるけど、資質的にはデリダ親和的じゃないのにデリダを読んでたってのが面白い、っていうか。

*11:まあ、「google的」なものを、リヴァイアサンとか絶対王政とか言うとすると、それは「ルソー的な一般意志」ではありえない、ということになるので、つまり、(少なくとも同番組で単純に図式化された範囲においては)東浩紀の考え方が間違っていると指摘するのに等しい。そういう批判は成り立ち得ると思う(ただ、東浩紀自身の発言を辿ると、理念的に見たGoogle的なものの可能性の評価と、実際のGoogleのビジネス施策の間で評価がずれるという両義性が見られるとも思う。ここでは、あくまで理念的なレベルに話を絞りたい)。私も社会思想史は専門外なので、詳しい議論は知らないけど、「社会契約論」としてひとくくりにするとしても、ホッブスとルソーの相違は無視できないものだろう。http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/kindai/shakaikeiyaku.htm http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761566460/content.html