『日本語が亡びるとき』を読む#1への補足 国語学から日本語学へ

『日本語が亡びるとき』を読む#1 - 白鳥のめがね
で、国語と日本語の相違って話をしたんですが、ぐぐってみたら、数年前に国語学会は日本語学会になっていた。こんな重要なトピックをスルーしちゃってよかったんですか?水村先生。

本学会は、設立当初は、もっぱら日本国内の研究者の糾合を意図した学会でしたが、海外における日本語研究が盛んになったことにともない、世界における日本語研究の中心として、その役割を果たすことが期待されるようになりました。また、会員数も初めは500人に満たない程度でしたが、現在は2400人を超える会員を擁しています。その中には外国人の日本語研究者も多数います。

 今、世界では「言語」に学問的関心が集まっています。「言語」にこそ、人間の問題を、あるいは文化の問題を解く鍵があると考えられるからです。「日本語」は個別言語の一つとして、かなり長い研究の歴史を有していますが、それにも関わらず、解決されていない問題が山積しています。

 そのような状況をふまえ、国語学会は2004年1月1日をもって日本語学会に名称を変更することになりました。
http://www.jpling.gr.jp/gaiyo.html

アカデミックなレベルでは「国際化」しなきゃやってけないから、そりゃそうだ、とも思うし、やっと2004年に、とも思う。旧国語学会で「国語学」の名前を守ろうとした人もいただろうけど、水村美苗の件の本をどう読んだだろうか。

ちょっと調べてみると、学会名の変更にあたっては、こんな提言もなされていたそうだ。

わが国語学は,研究者が自覚するしないに関わらず,構造的に文学の教科としての「国語」科を技術指導することによって成り立ってきた。われわれが,われわれの学問を「国語学」と呼ばなければならなかった理由の一つに,このような教育現場との相互依存関係がある。(略)含蓄に富んだ思想性の高い文章を精確に理解し,可能ならば自らも制作するという文学教育の理想は,現代人の書記生活の要求と明らかにずれを来たしている。現代人は,文芸の香気あふれる含蓄より明晰な文章を求め,高邁な思想性より論理的骨格に優れた達意の文章を書きたいと願っている。その結果,国語科の不十分を補うかのように,大学の教養教育では「日本語表現法」など,ことに臨んでの必修科目を組まざるを得なくなっている。稀有の才人によって書かれた名文秀句を多く読むことが教養人の証であったのに対して,文法的に正確で論理的な文章を産出する能力の養成という需要が優位に立っている。そこで,文章読解力を目標にした旧来の国語科ではなく,言語の運用能力に重点を置いた教科が注目される。われわれは,何か付加価値の高い経典の言葉を読み解くためではなく,若い人たちが自らの言語の仕組みを構造的に理解し,それを自在に使いこなす能力を伸ばそうとするのであれば,この教科を「国語」と呼んではならないだろう。そこで,わが学会は総力を挙げて学校文法を再建する責任を負うことになる。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jpling/meisyo/207kuginuki.html


国語学から、日本語学へ。「国語」から「日本語表現法」へ。なるほどなるほど。案外、教科名「国語」ってあっさり消えちゃうのかもと思わされますね。小学校まで「国語」中学からは「日本語」とか、大いに日本的な妥協案っぽくてありそう。

まだちらっとしか見てませんが、学会名称変更問題に関する記事がWeb上に採録されていて、いろいろと興味深そうですよ。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jpling/meisyo/kizi.html

ちなみに、ウィキペディアなどで見る限り、国史学会、国文学会という名前の学会は無く、ググって見ても、個別の大学内の団体名にしか見当たらない。
日本の学会一覧 - Wikipedia

まあ、学問が学術的な言論の普遍的な正当性を求めるところに学問性がなりたつと考えたら、「国際的」な呼称を選ぶのは当然のことではあります。