堀田善衛 定家卿を読む

『新古今』がわかっていないとわからない感受性の領域があるようだ。

万葉集は、その冒頭の幾首かをただ読むだけで意味がわからなくてもその響きのうねりにただ事ではない魅力があるのはわかるし、古今集も、通俗的なり教科書的なり、王朝文化のイメージを元手にして、四季の移ろう絵巻をたどればそれほどの和歌の教養がなくてもなるほど美しいと嘆息できる*1
しかしどうも、新古今あたりの歌というのは、西行のある種の歌とかは別にして、和歌の教養をしっかり持っていないとどうにも読めないようで、敬遠していた。

そう思っていたので、昨年堀田善衛が書いた藤原定家の本をみかけて、新古今的世界が身近に感じられるかな、と思い、半年くらいかけて、寝る前に少しずつ読んでいた。
『新古今』を読む前に『古今集』さえ通読していないし、『万葉集』だって読みかじっただけの私だけど、堀田善衛の導きがあれば、『新古今』の世界にも分け入っていけそうな気がした。

定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)

定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)

定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)

定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)

通読したあとに読み返してみると、この本で語られる定家卿の日記のあらましは、「序の記」に見事に要約されているので、この本がどんな本なのか知って頂くには「序の記」を参照してもらうのが一番。以下、「序の記」を抜書きしながら乱暴にまとめるだけ。

これは、冒頭の名文句が引用されることは多いけど、まともに通読されることの少ないという藤原定家の日記『明月記』を長年折々紐解いてきた堀田善衛が、『明月記』全巻を読解し年代を追って注解していくという本だ。そこから定家という歌人の苦労の多い一生と、転換期の時代の諸相が引用と注解によって描かれていく。

鎌倉幕府が新しい武家の社会を築いていく一方、京都の貴族社会は退廃し崩壊していく、そういう時代に、貧困の淵に沈みこみそうになりながらも、職業歌人の二流貴族として一家を支えつつ、後鳥羽院に振り回されたりしながらも、うまく新興武家社会にコネをつけながら、地位を保ち生きながらえる、セコイくらいの定家の生き様、その細々とした生活のディテールがまざまざと語られて、なんだかあきれ返るくらい面白い。

宮廷での儀礼の華やかさが事細かに読み解かれる一方、群盗が横行し野垂れ死にする人が絶えない京都の悲惨な情景も、定家卿の筆致をよみがえらせながら、彷彿とさせられる。

西行とか、源実朝とかとの関わりも、ほかの文献なんかを参照しながら立体的に描いてくれるので、そのあたり定家が関わった人々の文化史的な意義を浮き彫りにしていてドラマチックだ。

とりわけ興味深いのが、青年のころ、第二次大戦下に、定家の『明月記』全巻を無理をして買い求めながら、それを戦火で焼失してしまったという堀田善衛自身のエピソードが冒頭に語られていることで、これは、古典というものが戦火をかいくぐって今に残されたものだということを重ね書きするようでもあるし、古典というものがさまざまな労苦の多い時代の中で読み継がれてきたということを裏書きするようでもあり、自らの生涯に重ねながら定家の生涯を読んでいく堀田善衛の筆致は、繰り返し読まれることで古典は古典としてよみがえるのだということを、身をもって示しているみたいだ。

『新古今』の仮構の世界が、当時の現実と全くかかわりをもたないような次元に、世界史的にも稀な緊密に構築された美の世界を成立させているってことに、堀田善衛は困惑を隠さない。その美に惹かれながら、「さていったい、だからどうだというのであろう」と思うと「あとには虚無が残るばかり」であり「そこに意味も思想も、そんなものは皆無なのである。怪奇、などと言ってみてもはじまりはしない。」と堀田善衛は言う。

歌の美を解きほぐしながら、当時の社会の滑稽にして悲惨でもある現実を事細かに見つめる。この振幅が大事なのだろうし、それが無ければ、それは古典に淫するだけのこと。塚本邦雄のような人にしても、別の仕方でそうした振幅を生きていたのではないかと思う*2

紀野恵に『フムフムランドの四季』という歌集がある。昭和62年、紀野恵が和歌の伝統、つまり平安朝の文化とその崩壊の伝統を踏まえ、その技法を手にしながらなした短歌を初めの歌集にまとめるとき、「日本国」の四季ではなくて、「日本国の南方海上」に漂えるフムフムランドの桂冠詩人に自らを擬さなければならなかった。

日本列島にかつてくりひろげられた文芸の伝統がファンタジー小説的に遊離した「フムフムランドの四季」に擬される理由には、現実と仮構的美との乖離が関わっているようで、そこに新古今的な問題系があるような気がしている。

※関連リンク
紀野恵を含む80年代に登場した一群の歌人がたとえば戦中世代の歌人とどう違うのかについて
太陽と柘榴と花

(追記)『フムフムランドの四季』の話を冒頭から末尾に移しましたよ。いきなり紀野恵さんの話だと、短歌に興味が無い人にハードル高すぎるよな、と考え直しました。

*1:最近、平安朝の暴力沙汰をまとめた本が話題みたいで、そういうイメージも実情とは違うんでしょうけどね。http://d.hatena.ne.jp/ayakomiyamoto/20090129#p1 件の堀田善衛の本にしても、当時の性的な乱脈ぐあいの描写だとか、下世話な観点からしても興味のつきない仕方で、いろいろと貴族社会のイメージを掘り崩してくれるのではあった

*2:三島由紀夫はどうかというとさらに微妙な屈折があるのだろうな、よく知らないけど