近代日本語に弔いを(8)−国家と仮名遣い−

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歴史的仮名遣いがどのように成り立ち、普及したのかについて私が知っていることといえば次の本を読んだくらいのことだ。

歴史的仮名遣い―その成立と特徴 (中公新書)

歴史的仮名遣い―その成立と特徴 (中公新書)

まあでも、「歴史的仮名遣い」がいかなるものかについて一般読書人がわきまえておくべきことは、だいたいこの本で十分カバーされていると思う。この本の内容を踏まえて、『日本語が亡びるとき』をめぐる議論にもう一言付け加えておきたい。

なぜか水村美苗は、いわゆる歴史的仮名遣い(水村は「伝統的かなづかい」と表記している)を復活させるという論点について弱気なことを言っている*2

私自身は深い日本語の知識がないので、今の日本の<書き言葉>が果たして「伝統的かなづかい」にそっくり改められるべきかどうかはわからない。また、それ以前に、ここまで「新かなづかい」が広まった今、「伝統的かなづかい」に戻るのはもう無理だろうという思いが先立つ。(略)どこかに妥協線というものを打ち立てられないかと思わずにいられない。
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 300頁

そこから水村美苗は、表音主義への批判を論拠として、「過去とのつながりを大切にした<書き言葉>をこれから考えていくことは可能ではないか」と述べ、そういう専門家があらわれて、「文部科学省がかれらの意見に耳を傾けてくれることを切に切に願う」と続けている。こうなるともはや提言の体をなしていない懇願で、国に願いを託すだけに終わってしまうのだった。

さて、「伝統的かなづかい」と言われるものは、必ずしも伝統的に広く使われていたものではないのだが、そのことについて確認する前に、Mr. Dankogaiの次のような発言を参照してみたい*3

この「国」が「日本語」に対して来た非道は、本書にも詳しく書かれている。この国において、日本語を虐げて来たのは他ならぬ国家であり、その走狗たる役人であり、その役人たちに一目おかれていた文学者たちであった。彼らが日本語につけてきた傷は未だ痛々しく、いまこうして我々が使っている日本語に残っている。中途半端で意味不明な漢字簡素化に新仮名づかい....私が今使っている日本語も、「傷ついた日本語」である。なぜなら私は「傷つく前」の日本語を何とか読めても、書くほどの教養がないからだ。
404 Blog Not Found:言葉は何を乗せているのか

小飼弾氏はここで言語について「傷」というメタファーを使っている。つまり、言語を身体にたとえることで、自然に成り立っていた本来の言語を誤った言語政策が歪めた、という認識を読者に伝えようとしている。

しかし、そもそも「日本語」とは(大)日本(帝)国という国家がなければ国語として意識されなかったものであり、言語がひとつの身体としてイメージされるというのも、まさしく国家による言語政策の帰結と言うべきだ*4

小飼弾が「傷つく前の日本語」として想定しているらしい「歴史的仮名遣い」もまた、歴史的に復元され作られた仮名遣いであり、それが規則として普及したのは明治政府の言語政策の結果に他ならない。明治政府の言語政策が、どんな言語も傷つけ無かった、とは言えないわけである。

歴史的仮名遣(れきしてきかなづかい)とは仮名遣の一種である。復古仮名遣いとも呼ばれ、また現代仮名遣いと対比し旧仮名遣もしくは正仮名遣とも呼ばれる。契沖仮名遣を発展させ、明治期以降、第二次世界大戦後の国語国字改革による「現代かなづかい」の発表までのほとんどの期間で公教育の場で仮名遣いとして教えられてきたものである。主として平安前期の発音・仮名遣を基盤として、奈良時代ごろまで遡及することのできる古代の用字・発音を加味したものであり、現代仮名遣いに対してより語源主義・文法主義である。

明治維新後、政府は法案に歴史的仮名遣いをもちいるようになり、公教育にも導入されたことにより、それまで国学者の間でのみもちいられていたこの仮名遣いは公的なものとされていく。
歴史的仮名遣 - Wikipedia

築島裕氏は歴史的仮名遣い―その成立と特徴 (中公新書)で、「仮名遣い」と言う言葉には、かな文字が使われている「実態、状態」を指す意味と、「きまり、規則」を指す場合の二つがある、と区別しながら、規則としての「仮名遣い」について「歴史的に振り返って見ると、このように社会一般で統一的に仮名遣いが行われるようになったのは、明治以来、近々百年ぐらいのことに過ぎない。(pp.7-8)」と述べている。そして、「「現代かなづかい」は、その公布から今日まで、すでに「歴史的仮名遣い」の流伝した年数と、ほとんど同じほどの年数を経てしまったことになる。(p.iii)」と感慨を示している。今や、「現代かなづかい」の方が、歴史的仮名遣いよりも長い伝統を持っているのだ!

鎌倉時代初期には発音と表記とにずれが生じ、既に表記が混乱した状態にあった。そのため、藤原定家は古い文献を渉猟した上で「を・お」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の区別に就いて論じた。これに行阿が補正・増補を行って定家仮名遣が成立した。江戸時代まで定家仮名遣は正式なものとして、歌人の間などに普及した。しかし、定家らの調べた文献は十分古いものではなく、すでに仮名遣の混乱を含んだものであった。

江戸時代になって契沖は万葉集萬葉集)などのより古い文献を調べ、定家仮名遣とは異なる用法が多く見られる事を発見し、それを改訂して復古仮名遣を創始したのである。その後、本居宣長らに依り理論的な改訂がなされ、更に明治以降の研究によって近代的な表記法として整備された。
歴史的仮名遣 - Wikipedia

このように、歌人国学者が、和歌の表記や仏典に残されていた文字の用法をいろいろと調べ上げて作り上げたのが「歴史的仮名遣い」というもので、明治に入るまでは国学者などごく一部の知識人が用いる表記法だった。

国学者などを除く)一般社会では、幕府などの公の文書でも、漢文などを扱う学者でも、大部分の場合は、「仮名遣い」という意識はほとんどなく、「武門におゐては」「しかるゆへに」のような気ままな使い方であった。
歴史的仮名遣い―その成立と特徴 (中公新書)(p.8)

そもそも万葉仮名の時代には、仮名は「表音主義」的に用いられていたのであって、発話される言葉が変化して残された文字と食い違うようになったために、表記法を整理する必要が生じたのだった。

いろは歌の成立から定家仮名遣いの成立、契沖による仮名遣い説と国学者によるその継承、発展の過程を代表的な文献を踏まえてたどりながら、築島氏はさまざまになされて定まらなかった仮名遣いが「歴史的仮名遣い」として作り上げられていく過程を追っていく。

歴史的仮名遣い」は、歌学、国学の伝統において正統になっていったものではあっても、唯一正しいと言えるものではなく、一番合理的であると論証できるものでもなく、日本語本来の自然な姿と言えるものでもなかった。
築島氏の著作によると、平安時代には、定家仮名遣いとも契沖の仮名遣いとも違う「平安かなづかい」があったとする研究もあるという*5

築島氏の著作には、現代の活字ではあらわせないようなさまざまな「異体字」の仮名も印刷されている。いろは歌に出てくるもの以外の文字が使われていた「伝統」もあったのであり、それが今に伝わらなかったのは偶然の結果にすぎないだろう。

たとえばユエ故という国語について見ると、「ゆえ」と書くか、「ゆゑ」と書くか、「ゆへ」と書くか、少なくとも三通りの方法が考えられる。「現代かなづかい」では「ゆえ」と書くことになっている。「歴史的仮名遣い」では「ゆゑ」が正しいとしている。これに対して、「定家仮名遣い」では「ゆへ」とすることに定めている。これらは、それぞれに根拠を持っている。
歴史的仮名遣い―その成立と特徴 (中公新書)(p.9)

文字の用法もまた、時代や場所によってさまざまだったのであり、「万世一系」の文字体系が日本語として時代を貫いていたなんてこともありえないことなのだった。発話の世界がさまざまな方言のそれぞれの変化のなかで多様であったように、文字使用も多様であった。

いわば「復古主義」的とでもいえるような仮名遣いというのは、文字に残された消え去った発話の場と日常の口語とを無理にでもつなごうとするようなもので、かつての文字と音のつながりを再興しようとする意図によって支えられているものに他ならない。

江戸時代に一般に流通していた書物なども「歴史的仮名遣い」の規則に合うような仕方で表記されていたわけではなかった。明治初期の文芸作品でも「歴史的仮名遣い」に従わない表記が見られるという事を『西洋道中膝栗毛』などを例示しながら論じる築島氏は、二葉亭四迷の『浮雲』や幸田露伴の『風流仏』でもまだ「歴史的仮名遣い」が定着していない、と述べている*6。そのこと自体が、歴史的仮名遣いが作られた制度であることを傍証しているだろう。

樋口一葉の「たけくらべ」でも、「仮名遣いの用法は、相当に奔放」であり「当時の口語、俗語を記した部分も(略)江戸時代の俗書の傾向が残っている」と指摘している*7。むしろ、江戸から明治へとゆらぐ書き言葉の多様さが文体の豊かさを生んでいたとはいえないか。

さらに、「明治も末年に近くなると、著名な作家などは、大体これ(歴史的仮名遣い)に従うものが多くなった。それでも、時折、それに外れたものも、見当たらないでもない」として、漱石の著作であっても、「歴史的仮名遣い」から逸脱したものが見られると指摘している*8
漱石の自筆原稿では逸脱していた仮名遣いが印刷では「歴史的仮名遣い」に矯正されている例もあるという。おそらく、江戸の伝統的な書法が、出版界の体裁の上で明治の規則によって正されるという事情があったのではないかと思われる。

水村美苗は明治以来の表音主義を批判する上で「ひょーおんしゅぎをてーしょーします」という表記がまじめに唱えられたと揶揄的に表記してみせているが*9築島氏の著作を見ると、こういった表記が「棒引き仮名遣い」として明治37年から44年までの6年間国定教科書で使われた、と述べられている*10。戦後の表音主義の勝利は一朝一夕に成ったものではなく、その長い前哨戦があったというわけだ。

この表記は、世論の反対もあって教科書から姿を消したということだが、「歴史的仮名遣い」の定着も、明治時代の権力の趨勢の中で、偶然に決まったものであることがうかがえる。

そこから、たとえば、江戸の戯作の伝統などを踏まえた表記法が文学の用字として定着した、「実現されなかったもうひとつの文学史」を想定してみることもできるだろうし、口語を表記する上で多様な文字を用いることが「誤り」とは言えず、豊かさでありえるような文字の世界を考えてみることもできる。

樋口一葉の残すべき<テキスト>を「歴史的仮名遣い」に正すとしたら、それもまた、樋口一葉の「文体」を傷つけることになるのだから。


ところで、以前このシリーズでこんなことを書いた。

旧かなが使われなくなったのは、近代日本語にとってはいいことじゃないかと思う。変体少女文字で記される旧かな、コギャル言葉で記される旧かな、アスキーアートにまみれる旧かな、そういうものに耐えなくても良くなったのだから。
近代日本語に弔いを(3)−残された文字は死なない、消え去るだけだ− - 白鳥のめがね

世の中には、不思議なポリシーを持つひともいるらしく、こんな表記がネット上には有る。

つふかあきれた。
DIVE

けふの「ウルルン滞在記」、「響鬼」のイブキくんが出るといふので、つい見てゐるぼくがゐるわけですが、2chの實況スレを見てて今氣づいたんですが、さーいへば下條アトムさんもでてましたね「響鬼」。
海百合3

近代日本語にとっては、歴史的仮名遣いを現代かなづかいに変えて、良かったと思う。もう、歴史的仮名遣いの世界は、汚染されることなく残り続けるわけだから。


さて、実用的に言えば、奈良時代とか平安時代の口語に根拠をもつような文字表記を日々の文字利用に反映させることで得られる利得はほとんど無いと考えて当然で、平安朝なり奈良朝なりの古典を日々意識して生活することが「国益」になり国民の利益になるというのは、ある種のイデオロギー以外のなにものでもないと言うべきだろう。

日々の業務であつかう報告書なり企画書なりを、奈良や平安の伝統をふまえた規則を覚えた上で書かなければいけないなんて理屈には、いまさら誰も説得されはしないだろう。

なにより、現代かなづかいによってしか伝えられない情感を、私たちは、ほとんどその中に呼吸するように、生きてしまっているという伝統をすでに長く持っているのであり、英語の文法や表記が不合理の塊であるのを受け入れることも英語の伝統につながることであるように、現代かなづかいを使うこともまた、戦後の断絶によってしか明らかにならない日本語の伝統につながるということなのだ。



さて、旧かなが生き残り続けるだろう文芸といえば短歌ですよね、ということで、参考リンク。

「新かな・旧かな」考
再び「新かな・旧かな」考
小説家の慨歎――『日本語が亡びるとき』を読んで

*1:写真は新丸ビル掲示されていたクリスマス商戦のポスター

*2:水村が弱気になる理由は「誰もが書ける」ことよりも、「誰もが読むべきものを読む」教育をすべきだ、と考えているところにあるとおもわれるが、そのことはまたの機会に論じてみたい。

*3:参照エントリーの論旨からは少し外れる論点で、毎度毎度揚げ足取りなのでちと申し訳ないとも思いますが、それは別としてこのレトリックを問題にしたい

*4:王権が身体イメージと密接にかかわる事に類比できることかもしれない。考えてみる余地がありそうだ。

*5:築島、前掲書、p.8

*6:築島、前掲書、pp.141-146

*7:築島、前掲書、pp.143-144

*8:築島、前掲書、pp.144-145

*9:水村、前掲書、p.98

*10:築島、前掲書、pp.146-149。ただし、字音仮名遣いに限り採用され、和語は歴史的仮名遣いとされたという。字音仮名遣いというのは、漢字音の表記に関する仮名遣いということで、その詳細についても築島氏の著作を参照されたい