貴族が詠む万葉集 補遺

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』の次の一節

天皇から庶民まで詠んだと謳われ、近代に入ってから栄光ある「国民歌集」の地位を与えられた『万葉集』も、実は、奈良時代の貴族によって詠まれたものだと言われている(注九)。
(163頁)

について、その参照元となっている品田悦一氏の論文にあたって、東歌の民謡性に関して次のようなことを書いた。

実際、これらの歌々は古代の「庶民」の産物として扱われてきたのだったが、見逃すべきでないのは、これらがほぼ例外なく、五音節と七音節を韻律単位とする詩形、つまり貴族たちの創作歌と同一の形式からなると言う事実である。(略)読み書きを知らない「庶民」の作、つまり口頭で謡われるか唱えられるかしたものであるにしては、詩形が整いすぎていないだろうか。(『創造された古典―カノン形成・国民国家・日本文学』p.57)

例えば、貴族が文字として記すときに原型となった庶民の歌を、五七調に整えてしまった、といった説が妥当するとすれば解消されてしまうもので、そうすれば「民謡」をめぐる論点は『万葉集』が成立した背景やテキスト自体へと送り返された上で読み直されるべきことになるのだが、品田氏の議論はそういった終りなき再検討をあらかじめ断とうとするかのようなバイアスのある論述となっている。
『日本語が亡びるとき』を読む#2 −貴族が詠む『万葉集』− - 白鳥のめがね

この件について、最近コメント欄でハンドルネーム「漆黒の人参」さんから次のようなご指摘をいただいた。

>原型となった庶民の歌を、五七調に整えてしまった、といった説
は大久保正氏の説のことだと思われます(万葉集東歌論考)

これに関して品田氏は
「東歌の枕詞についての一考察」『日本上代文学論集―稲岡耕二先生還暦記念』1990年塙書房
で、枕詞を分析すると、
a庶民の歌になかった枕詞が追加された
b庶民の歌にあった枕詞が五音節に整えられた
のいずれも蓋然性が低く、背理法的に大久保説は成り立たない、と述べています。
参考までに。では。

さっそく母校の図書館から借り出して、件の論文を読んでみました。

日本上代文学論集―稲岡耕二先生還暦記念

日本上代文学論集―稲岡耕二先生還暦記念

どうやら、品田説に従うと、少なくとも「万葉集の短歌は、だいたい奈良時代の貴族文化の中の産物」と言い切ってそんなに乱暴でもない、ということになるらしいです。

件の論文は、万葉集には庶民が素朴に歌った「民謡」が含まれている、という説に対する古代日本文学研究の枠の中での論争に、終止符を打とうとする、かなり意欲的かつポレミカルなもので、議論が詳細に及ぶので素人には判断つきかねるところもあったのだけど、大筋、隙のない議論で、かなり説得されました。結論としては、万葉集のなかに、庶民が素朴に歌った「民謡」なんて入ってないよ、ということですね。

民謡概念がドイツロマン主義の影響下で万葉集に読み込まれた幻想であるという経緯を追跡する品田氏の議論は、前回も紹介しました(『日本語が亡びるとき』を読む#2 −貴族が詠む『万葉集』− - 白鳥のめがね)。

品田さんの『万葉集の発明』では、島木赤彦の万葉集理解を批判的に読み返す作業が中心に据えられて、歌壇を中心に万葉集の中の民謡というイメージが一般へ浸透する過程が追跡されていたわけですが、「東歌の枕詞についての一考察」の議論は、この本とは別のアカデミックな文脈で、万葉集に読み込まれた民謡という概念を徹底批判する、というものだった。その点では、『万葉集の発明』より専門的な世界の話で、それはそれで部外者的にも興味深いものです。

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典

件の論文を読んだだけなので詳しいことは知りませんが、国文学というか古代日本文学研究のアカデミックな文脈においても、民謡性をめぐる論争というものがあったそうです。品田氏は、大久保正説が万葉集東歌に「民謡」性を見る立場を擁護する議論の集大成であるとみなして、大久保説を果敢に論駁するわけです。このあたりの、学界的な力関係とかどうだったのか想像の範囲外ですが、一歩も譲るまいとする周到な論の運びは、まるで最終決戦という感じで、息詰まるようです。

基本的には、東歌が様式的に中央の「貴族」たちの歌と同質である点が、「民謡」性を疑うポイントになっていて、民謡性を主張する論者は、様々な仕方で、「原東歌」の民謡性が変形されて万葉集に収録されたと主張することになる。前回の記事を書いたときに私はそういう論争史については一切知識を持っておらず、だれにでもすぐに思いつく範囲の想定をしただけのことだったわけです。それで、品田氏の当該論文は、東歌に出てくる「枕詞」を網羅的に検討することを手がかりに、変形される前の「原東歌」の存在を想定することは合理的根拠を欠いている、と主張するわけです。

そこで論拠となるのは、きっちり575の文字数になるような様式性は、文字を介してこそ成立するものだ、という理解です。これは、いわゆる「記紀歌謡」など、文字以前に成立していたと考えられる歌謡が575に整っていないことなどに根拠付けられた見解です(口承で伝えられたものが、文字に記録され残されたというわけです)。

品田さんの議論は、突き詰めて言えば、東歌は文字をあやつれる階層の作者によって創作された短歌とみなす方が合理的である、というものです。「歌謡」や「民謡」と、文字を介した「文学」としての短歌との間に本質的な落差を見て、東歌は民謡ではなく、すでに文学の範囲にある、と主張するわけです。そして、文字の使用は地方独自の文化的伝統を断絶し、中央の文化への同化を進めるものだ、という想定のもとに議論が進められています*1

それでは、東歌を創作したのはどのような階層のどのような集団ということになるのか。品田氏は、東国の「在地首長層ないし豪族層」を東歌の作者として認めることができるとします。しかし、そのような「豪族層」も、「東歌の成立を準備したこの時代の交通が、地方社会の活力ではなく、中央の側の要求を主たる動因として展開した」と考えるなら、方言が見られるなど、東歌のひなびた特性も「中央の要求によって創出された」と見るべきだ、と品田氏は主張します*2

東歌における枕詞の特徴に在地性が認められるとしても、それは定型短歌としての東歌が自らの成立に際し、東国における口誦文学の伝統を断ち切って新たに獲得したものだと言わなければなりません。
(『日本上代文学論集―稲岡耕二先生還暦記念』p.246)

国府や郡家・駅家」で開催された「酒宴などの座に、赴任官人らにまじって郡司等の在地の有力者が参与したと考えることも十分に可能」だとして「東歌」が生み出されてきた背景を想定しながら品田氏は次のように念を押します。

彼ら首長層の参与の仕方が、基本的には中央貴族の文化への同化を意味していたこと、彼らは郡司等として国家機構の末端に連なる資格において参与したのであり、そうした政治的諸関係を抜きにして単なる文化的進取性を発揮したわけではなかったということです。
(同 p.248)

東歌の文学史的性格は、こうして、「古代律令国家が拓き得た限りにおける」交通の所産としての「貴族文学の一支流」と規定されるべきなのです:::中略:::定型短歌の交通は汎列島的な拡がりをもったと考えられますが、それはあくまでも律令的交通制度に付随して生じた事態にほかならなかったし、したがって、古代国家を領導した貴族階級文学の、新たな多彩的展開の一環以上のものをも意味しなかったのです。
(同 pp.249-250)

水村美苗が注に挙げられた以外の品田氏の論文まで読んでいたとは思いませんが「『万葉集』も、実は、奈良時代の貴族によって詠まれたものだと言われている」と要約したとき、水村は品田氏の以上の議論を大雑把に予想していたとは言えそうです。その点では、万葉集は貴族の創作であるという主張自体をもって、とんでもない主張であると言い募るのは、少し大げさすぎたかもしれません。

さて、品田氏が、素朴な民衆が自発的に歌うようなものとして想定される「民謡性」の次元から東歌を切り離す作業を周到に行ったのは、ロマン主義的に「民族の魂」みたいなものを東歌のなかに遡及的に幻視するような読みかたを学問レベルで徹底して排除するためであると言えると思います。アカデミックなレベルで議論がどうなっているかは知りませんが、東歌の民謡性を前提する議論は絶えないでしょうし「終りなき再検討」は続くだろうと思います。ただ、ロマン主義的な仕方で民謡性を読み込もうとするのは回顧的な錯覚というしかないというのは、品田氏の議論でかなり明らかにされていることだと同意できます。

しかし、そうした議論を援用する水村美苗の議論は、もうちょっとコンプレックスなものです。水村美苗が古代に向ける視線において、あえて万葉集の貴族性を強調する身振りは、普遍語に対抗しうる国語とは「読まれ書かれる」ことで生まれるのだ、という水村の想定を古代にまで遡及させることで、その論拠をより強く印象付けようとする意図に置かれたもので、起源に本質を求めている点で、結局、万葉集の中に「民謡」性を見るロマンチックな姿勢と同型なわけです。

ここで、品田氏が依拠している識字層=貴族、非識字層=庶民という図式化も、山上憶良大伴旅人の関係のことなどを想起すると、それはそれでバイアスがかかっているようにも思える。識字層にも、渡来人系も居れば、下級官僚とでも言うべき層も居ただろうし、奈良時代の古代国家の政府中枢に居る天皇なり古くからの名家といえるような階層の人々も、むしろ豪族といったほうが近いような暮らしぶりだったのではないかとも思えるわけです*3

おそらく、貴族と言ってしまうと、現代の日本人には、どうしても平安朝中期以降の、藤原氏全盛期の貴族、日記文学とか源氏物語とかから与えられる貴族のイメージがちらつくのではないか。荘園制以前の、まだ律令体制が維持されていた平安前期において、漢詩が隆盛を誇っていた時代、そして、更にその前の奈良朝の時代は、国風文化以降の貴族とはまた違った文化を形成していたはずで、そうした時代は資料の不足などもあって、まだまだ一般読書人の想像の範囲外にあるような気もするわけです。



品田氏が強調する「律令的交通制度」というのは、その点とても興味深く、そういった知見を学びながら古典を読むことでこの日本列島において展開された国家や国語の系譜を見直すのも面白いかもしれないなあと思っています。

*1:民謡ないし歌謡と、古代の共同体の儀礼的、呪術的な「口誦的詞章」との間にも品田氏は区分の線を引いていて、「共同体の枠を超えて展開する人々の交流史のうちに自らの本質を実現」している点で、共同体の詞章とは別の系列をなす「民衆の歌謡」を考えるべきだ、と指摘しています(日本上代文学論集―稲岡耕二先生還暦記念p.244)。このあたりは別論文(『文学』56巻6号(1988年)所収「短歌成立の前史・試論」)で展開されてるそうで、興味深い。また読んでみようかと思います

*2:前掲書pp.247-8

*3:学問的に「貴族」という規定がどういう正当化を得ているのかは度外視して、あくまで一般読書人のレベルから「貴族」という言葉のイメージを問題にしているわけです。「貴族」という言葉もまた、翻訳語として古代に投影されているのではないか、ということも検討してみる余地があると思います。この点、マルクス主義的な階級概念が西郷信綱の古代文学史を駆動させる図式として機能していたこととも関連して、個人的には興味あるところです