カニクラVOL.2「73&88」を見た

柴幸男作演出、男2人女2人の芝居を見てきた。再演の機会もほぼ無いと予想されるが、以下、内容に踏み込んで作品について検討してみたい。カニクラというユニットは、現代日本演劇の、口語的なトレンドの良質な部分をフォローしているようでもある。

作・演出 柴幸男(青年団演出部/ままごと)
場所:アトリエヘリコプター
出演:川田希 宝積有香 
坂本爽 玉置玲央(柿食う客)

カニクラ

全然関係ない他人同士が急にテレパシーで通じ合うようになってしまうという設定の現代口語演劇。劇中、それぞれの出演者が自分自身のプロフィールを話しながら、共演者と出会った場面を「やってみます」といって再現するシーンがはさまれるあたりは、チェルフィッチュ岡田利規の方法を流用し意匠として簡素化して導入している。それぞれの実話の再現みたいな場面が出演者の出身地の話や、将来なりたかった職業の話をしていたかと思うと、いつのまにか劇中のフィクションの話に入れ替わっているというあたりも、チェルフィッチュの手法の流用になっている。
その意図は、出演者それぞれが、役者になっていなかったら歩んでいたかもしれない人生を重ね合わせると、もう一つ別の現実がストーリーとして立ち上がる、といった感じで、これは、現実が他でもありえたかもしれないという「偶有性」の感覚に訴えている。
作品の冒頭には、突然テレパシーで交信できるようになった二人の女の場面がおかれ、次いで、以前から交信していた男二人の場面がおかれる。テレパシーの場面は、埼玉と北海道など、遠くに居るはずの二人が同じ場所にいるように舞台上に立って話すという仕方で演じられる。同じ舞台に居ながら、遠くに向かって話しているような効果を実現していた出演者たちは、難しい演技の質を達成していたといえる。
舞台上には何の装置も無く、照明も簡素に全体を照らしていて、特に音楽も無い。裸というに近い、飾りのない舞台だ。
テレパシーで通じ合ってしまうことに登場人物は多少とまどったりするが、やがてその状況を受け入れる。テレパス物に良くあるような、特殊な機関がからんでくるようなこともない*1テレパシーで話されることは世間話や日常会話に過ぎない。タイトルの「73&88」はアマチュア無線で交信を終わらせる挨拶の言葉ということ。テレパシーという設定は、無線電話とかインターネットによるコミュニケーションの隠喩(というか換喩というか)になっている。極限の直接的なコミュニケーションによって、全く縁のない他者と結ばれてしまう、という状況である。
そんな状況の提示があり、出演者のプロフィールの提示がほぼ作中の時間を等間隔に隔てるように挿入されて行くと、テレパシーで通じていた女のうちのひとりと男のうちのひとりが別居中の夫婦であり、残された二人は、実は姉弟であったことが明かされる。弟が事故により意識を失い、テレパシーが途絶えたことに心配したもうひとりの男(別居中の男)が姉に電話で事故のことを伝えようとしたり、別居して実家に戻っている妻のもとを訪ねようとして電話をしたり、姉に電話で事故のことが知らされたことを知って、家出したままの弟が姉に電話したり、電話での会話も、テレパシーのように描かれる。多分ここで描かれているのは、電話で遠くの人と声だけで通じているという、テレコミュニケーションの場に主体がさらされていることの不思議さなのだろう。日常のこととして慣れてしまい気付かなくなっているその不思議さの感覚を、テレパシーという例えを借りて、呼び起こすような、そういう演劇的仕掛けになっているのだと思う。
ここでもっともクリティカルなのは、再会した夫婦が妻の実家がある田舎を二人で歩むという設定の場面だ。作中では夜の田舎道を歩くという描写がなされていたと思うが、そこでは、少し離れた男女が座り込んだまま話すという仕方で上演されていた。まるで、ラジオドラマにおけるように、情景が台詞によって描かれていくのだが、そこで、舞台上の二人は歩いている二人を演じて再現したりはしない。では、そこに現れている二人、電話で話していたときのように話している二人の距離感は何なのだろうか。
柴幸男自身がアフタートークで「語る主体の(内的)イメージを舞台化してみたかった」といった風なことを言っていたけれど、物理的な世界に居る人物ではなく、間主体的な話者の構造だけが浮かび上がってくるというか、キャラクター図式としての人格が記号的に舞台に置かれているというか、一種抽象化された会話劇が展開されていた。
冒頭でチェルフィッチュの手法の流用とか簡素化という風な評言を示した。確かに、意匠として拝借したって感じは否めないのだけれど、会話劇をその場面から乖離させるという点では、テレパシーという設定に甘える弱さはあるとはいえ、チェルフィッチュよりも劇構造の抽象化を徹底している。その点で、より「現代」演劇たりえている、と言えるのかもしれない。「現代演劇」を標榜するのに、平田オリザがロビーなど「セミパブリック」な空間を要請したことが、ずいぶん古臭い素朴なリアリズム的処理に過ぎず、ベケット以前への退行に過ぎなかったと明かすようでもある。
ここで、男女二組は、家出や別居という形で家族を解消しようとしていて、一時的に和解するのも、家族関係を結びなおすのではなく、新たな距離を置くためであるかのようなのだけど、そのあとの関係がどうなるのかを想像させる余地も無いような仕方で展開は断ち切られる。
この作品のエンディングの処理は、多少強引なもので、最後に「無かった場面をやります」と言って、男女4人が車座になって話す場面で終わる。そこでは、「あと何回会えるのかが数字で見えたらどうする?」といった他愛無い空想的な設定の中で、それぞれの人物が出会いと再会をめぐる「偶有性」の感覚についての考えを寓意的に示していく。その前には、男二人のテレパシーが途切れてしまう様が示されていたのだけど、それも断ち切られたまま結末は明かされず、女二人の会話で閉じられる「じゃ、また明日」「でもテレパシー通じないかも」「そのときは電話すればいいよ」
この断ち切るようなエンディングは、終わらせ方の困難さをそのまま提示している。技術的につじつまのあう、心理的な納得感が高い終わりを設定することはいくらでもできる。しかし、だからこそ、どんなエンディングを工夫しても、嘘っぽくなってしまうのだ、とでもいいたいかのようだ。柴幸男はアフタートークでノーガード戦法とか言っていたけど、その点で、とても正直に作られた舞台だったと思う。
さて、現代口語演劇の徹底として一種の抽象化をしているからこそ、会話のリアリズムが更に極まっている、そういうものとしてこの上演を評価できると思うのだが、ひとつこの公演において顕著なのは、社会学的に指摘されている現代の問題を過不足なく織り込んでいる手際の見事さだ。
「偶有性の思い」「他者との極限的に直接なコミュニケーション」「家族の崩壊」「終わりを構築する機能の喪失」これらは、大澤真幸が現代を診断する議論のキーワードだ。見事に、この舞台作品に符号している。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

柴氏が大澤真幸の議論をあらかじめ参照していたかどうかは知らない。しかし、単に、こうしたある種の社会学的な議論を知っているだけでは、今回のような舞台作品のリアリティは生まれてこないだろう。柴幸男は、大澤真幸現代社会に見出しているもの、そのリアリティを、感覚の次元で共有しているからこそ、これほど見事に大澤理論を演劇化したような舞台を実現できているのだろう。
さて、では、この舞台と大澤理論との符号をどう評価すべきか。ある種のリアリズムとして、正直に、正確に、現代日本の一面を掬い取っている。まず、そのことをしっかりと評価しておくべきだろう。まるで理論を後追いするようであり、理論の先を行くものでは無いとしても、そのことにあえて不満を表明する必要がどこにあるだろうか。遠近法や色彩分割が光学的理論を後追いしていたからと言って、人体描写が解剖学の成果を後追いしていたからと言って、それをもって絵画史に残る名作の価値が科学に劣るというわけでもない。まあ、この舞台は相対的に言ってそれほど刺激的ではないという不満があったとしても、そういう人は別のものを見れば良いだけのことだ。

☆柴幸男作品への言及
『少年B』評その3(改題)合唱と独白の間 - 白鳥のめがね

*1:登場人物の一人が、 バレたら研究機関に監禁されたりするかもしれないといった懸念を示す台詞もあったが、それもあっさりテレパシー体験を話して信じてもらえなかったというもうひとりの登場人物と対比させるギャグのように扱われている