POTALIVE再考(8)―寺山的市街劇との差異と反復

ポタライブは野外で行われる演劇である。というと、ちょっとでも日本の演劇を知っている人はやはりすぐに寺山修司のことを連想するだろう。寺山修司の「市街劇」とポタライブの関係についてすこし整理しておきたい。

ポタライブアゴラ劇場のサミットで上演されたとき、より広い観客に開かれることになった後で、岸井さんはこう書いている。

今回、アゴラでやっていく中で、ある年齢層の複数の人から、寺山修司についてどう思うかを質問されたことが気になっていた。もちろん、僕の実作が、寺山とそれほど関係がないことは一目瞭然であろう。(説明は小澤英実さんによる「バイエル」評の冒頭にある要約が一番的を得ているので、そちらをご参照いただきたい)私は、私の順序で演劇に近づき続けた結果、散歩演劇になっただけだ。
反復する予告 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

参照指示されている小澤さんの文章では次のように言われている*1

岸井大輔がここ三年ほど断続的に続けてきた「ポタライブ」シリーズは、様々な現実の街中を散策しながら観劇するというユニークな上演スタイルを特徴とする。その「ポタライブ」が寺山修司の「市街劇」の意匠を今に引き継ぎつつそれと異なるのは、岸井が舞台空間を劇場から現実の街へと解き放つとき、その主眼が、寺山のように「虚構の烙印を付された演劇を、歴史と同じ高みに押し上げること」ではなく、あくまで固有の場所性を備えた具体的な空間に対する異化、「場の劇化」に向けられていることだ。
:::略:::
演じる役者たちは、観客たちがスナップ写真のように街の風景を切り取って観るためのフレームとして機能する。寺山の市街劇では、具体的な空間は必要とされてはおらず、森山直人はそれをサイバースペースの先取と指摘するが(注1)、言い換えるなら「ポタライブ」では、公演を容れ物に逆転させることで、場を演劇の中身として包み込む。そのとき、容器と中身とを隔てる境界、あるいは日常と演劇を隔てる境界は、役者たちの身体が担う:::略

(注1) 森山直人「今日の舞台における<ドキュメンタリズム>の傾向について」『ユリイカ』2005年8月号(青土社
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

私自身、初めてポタライブについて言及したときには、寺山との相違をむしろ強調した*2。また、ワンダーランドに寄稿したときには、次のようにまとめた。

ポタライブは、市街地、野外で上演されるけれど、舞台芸術である。野外を舞台とするというよりも、野外が舞台になるのだ。それは、必ずしも「借景」だというわけではない。市街地や野外の風景そのものに秘められたドラマがむしろ主役になることもあるからだ。

 その点で、たとえば寺山修司の市街劇とは別の角度からドラマにアプローチしていると言えるはずだ。ポタライブは、寺山的市街劇の攻撃性や過激さと直接比較できないような性格をもっている。しかし、より穏やかなものではあっても、あくまでドラマを汲み取ろうとする営みであることも見逃すべきではないだろう。
ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

ポタライブを見たことが無いひとに言葉で説明するときには、市街劇という言葉に結びついた寺山修司のイメージの大きさを考慮する必要があるし、寺山的なものの亜流といった誤解を防ぐための留保は当然要請されるわけだ。

寺山の市街劇とポタライブの違いを、攻撃性の有無に見る人は多い。

船橋ポタライブルーチンワーク』。船橋を散歩しながら演劇を上演するというか、散歩としての演劇の上演というか。寺山的な市街劇のコンセプトを、挑発だとか侵犯だとかいった「悪意」的なものから、「善意」的なものへと読み替えたところに成立したものとして受け取った。この「善意」をさらにたとえば「NPO的」と形容してもよく、そしてそれは揶揄っぽく聞こえそうだけどそんなことはけしてない。そういった善意をキープすることがどれだけタフで知的であることを要請される作業なのかは僕も想像の範囲内でだが知っている。けど、同時にやはりそこに物足りなさを感じはするわけで、「善意」ではなくて「正義」が、つまり北田暁大風に言えば「社会(学)的なもの」ではなく「政治(学)的なもの」が重要なのだ、みたいなことを思った。
http://d.hatena.ne.jp/nacht_licht/20051105

こういう試みでは、きっと寺山の『ハプニング』が先達として持ち出されると思う。でも、ポタライブにはあの頃のような、大げさな演劇的なテロリズムめいたものは、微塵も無い。岸井さんがどこまで自覚的かはわからないが、日常の街角に非日常を穿つひそやかな(やさしくもある)行為は、しかし、決してあの時代の力尽くのカウンターカルチャーに劣るようなものではなく、からめ捕られた象徴をずらし文脈を転換するという、危険さえも孕み得るような、とっても現在的な試みだと思う。
POTALIVE 「LOBBY」(impression): wander-dist.

私自身は、ポタライブが「危険さえも孕み得る」という評価に同意するし、そこには政治性があるとも思う。

さて、寺山修司の市街劇がどんなものだったのかを振り返っておこう。記録映像を見た人の感想を引用する。

たとえば、お芝居とかかわりのない一般人に「お伺いします」という予告状を、しかも一日一通十日に渡り送りつけて、その上で訪問したり。お年寄りが暮らす家に「ドキュメンタリーを撮ります」とヴィデオカメラを設置しておいて、役者さんがやってきて、おじいちゃんおばあちゃんを巻き込んでお芝居を始めたり。ストーカー行為をしたり。犯罪すれすれっていうか、犯罪行為ですよぉ。私でもお巡りさんを呼ぶかと思います。

また、内容も過激で。観客を箱詰めにして遠くに運んでいって(晴海だったそうですが)置き去りにしたり、目隠しをしたまま5時間都内観光したり。貸切にしてない、普通に営業中の銭湯でお芝居したり。

ほんと、想像以上です。

ある、お芝居をやってるところに入れなかった観客が寺山修司と口論しているシーンも納められていました。(ちなみに天井棧敷では「理論武装」のレッスンもあって、こういう論争にも対応できる体制だったようです)でも、「すべてを観られない」というのも市街劇の興趣かと。
『市街劇ノック』: BUFF's Blog

岸井大輔自身は次のように言っている。

ポタライブの先行事例というとよく寺山修司さんをあげる人がいるけれど、それより如月小春さんとか宮沢さんのワールドテクニックをあげろよと思う。
開かれていて閉じているで考えたことー2 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

それだけに、岸井自身が次のように言っていることは注目に値する。

意識的な影響を、ベケットスタニスラフスキー世阿弥の読書からはうけたけれども、、寺山からは無意識の影響以上のものはない。にもかかわらず、ポタライブをはじめてから、寺山の演劇論に助けられたことは多い。おそらく、彼が市街劇にたどりついた論理と、私がPOTALIVEにたどりついた論理は、同型の、反復といってもよいものだったと感じている。それは、簡単に言えば、ポストモダンにおいて劇をするための上演形式を要請したということである。
反復する予告 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

寺山市街劇の論理については、たとえば次のように指摘される。

近代がつくり上げた「劇場」という機制――すなわちはじめからそのつもりでそこにつめかけた一定の観客が、日常性から切り離された「虚構」としての芝居を「観る」という機制――を、「虚構のための施設」、すなわち日常の単なる補完物としてしかもはや機能しなくなった演劇そのものの危機としてとらえ:::略:::そして「劇が生まれたとき、はじめて劇場が出現したと言うべきだ」と述べる寺山が、現行の「演劇」が置かれている状況を「劇場が劇に先行するという倒錯」とみなし、そのような「現実/虚構」の切断を乗り越えようとして「市街劇」なる:::略:::方法論に至った
YoruHate: 寺山修司の「市街劇」について - livedoor Blog(ブログ)

岸井大輔は、寺山修司と同じ前提から、別のルートを通って、野外での演劇という上演スタイルにたどり着いた。ここにあるのは、系譜の関係ではない。あくまで論理的な同型性を見た上で、さらにその相違について考える必要がある。

その点を考えるためには、劇場についての岸井大輔の発言を確認しておくべきだろう。

*1:ここで、「寺山修司の意匠を今に引き継ぐ」という表現は、系譜関係を連想させる点であまり適切な表現ではないかもしれない。その点を考慮してあえて抹消記号を付した上で引用した。「意匠」という言葉も、アイデアとか工夫ということか、デザインということか、意味合いかあいまいだ。岸井自身の「形式化」というテーマとデザインという言葉は密接に関連する。この論点には後であらためて立ち戻りたい。「異化」という用語、「場の劇化」という言葉についても注釈と考察が必要だろう。ここでは検討を保留する。そこから言われている演劇と歴史、虚構との関係についても、詳細な検討が必要だろう。むしろ、小澤さんの議論は、寺山と岸井大輔の共通点をあげて、相違であると主張しているかもしれない。ここには明らかにたくさんの捩れがある。慎重な注釈が必要であるゆえんである。引用文末尾は文意がはっきりしないが、読者の便宜のために「ことにある」を消去した場合に通る意味を解釈として提示した。

*2:寺山修司の名前とかすぐに連想するところだけど、たとえば石井達郎『ふり人間』で紹介されている「アメリカのゲリラ演劇」の事例なども参照すべきだろう」と書いたポタライブ@吉祥寺「断」 (改稿版) - 白鳥のめがね