書評を読めばダメな理由がわかる―二つの「知」と古臭い感性+8

なんかダンコーガイ氏がひどい書評を書いたという噂がTumblrを流れてきたので、久しぶりに当該書評を見てみたら、シノドス*1の本を口汚く罵っているのね。

日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)

日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)

こうやって貶めて何が楽しいのかがよくわからない。dankogai的表現をあえて使うなら、こういった書評には「生産性がない」。
memorandum@tumblr. - 血、じゃなかった、知、でもなかった、痴の匂いに惹かれて購入。

"dankogaiブログビジネスモデルは、必死な編集者からの献本を一読。まず煽りの一言、次目次、その後は本の内容に全く関係ない俺理論を書籍内容を切り口に展開、最期は英語で一言締め。dankogai書評の問題は、本の内容から全く学ばずに単に対話するだけに終始しているのが評判が悪い要因"
Twitter / igi
http://yuco.tumblr.com/post/115132440/dankogai


で、当該エントリーを見てみたら、なにやら経済成長についての質疑応答が気にいらん、ということみたい。本に参加している飯田さんが、経済成長が無限に可能だって言った*2のが小飼先生の気に障ったようだ。

不断で無限の経済成長は可能であり、それ以前に不可避だと考えています。

有限の世界で幾何級数的な成長が永遠に続くと信じているのは、キチガイと経済学者だけだ

404 Blog Not Found:人文科学者がダメな理由がわかる - 書評 - 日本を変える「知」

それで、こういう間違った結論が出るのは、ダンコーガイ先生によると、自然科学者が居ないせいらしい。

自然科学者は、微細な数値の差から理論を根本的に改良するくらい、研究対象への畏敬の念が強いけど、人文学者とか社会学者とかは、研究対象を大雑把に扱ってもいいと思っているから間違うんだ、って言いたいようだ。

なぜ人文学者は「知」というものに対してこれほど傲慢でいられるのか?
自然科学者もなしで、「正しい問題解決は、正しい『知』から」などとオビに書いてしまるのか。
研究対象に対する畏敬の念が絶無だからではないか?

まあここで、論理的に飛躍があるとか、個別の事例から一般化する話の進め方がおかしいとか、いちいち言いません。結局、「私は良く知らないが、そう思う」以上のことは何も言ってないんだから。

ただ、書評するなら、本に出てきた経済学者の主張がおかしいと言うだけで良いだろうし、自然科学者が入ったほうが有意義だっていうなら、具体的に誰かうってつけの学者さんの名前をあげるなりして、その人が加わったらどれだけ有意義かを説明したら良い。
いっそ、知り合いの編集者をたきつけて、うってつけの若手自然科学者なりIT研究者なりをシノドスの連中に紹介してあげればよいではないか。

それを、このおじさんは、何をむきになって、ささいな揚げ足取りを決定的な証拠のようにして、「馬鹿の集まり」とか「痴」とか、便所の落書きみたいなことを書いているんだろうか。
本当に、シノドスの集まりに自然科学者が加わることを心から望んでいるなら*3、こんなレトリックにはならないと、私は思うのだけど。


そもそも、私を含む、ほとんどの人間には、ことの善悪や美醜を評価する能力なんてない。
にもかかわらず、何かを価値評価するような発言がネットにあふれているのは、
(1)自分にその能力があると勘違いしている
(2)無意識的or意識的に権力ゲームをしている
のどちらか、もしくは、両方による。
「真実性を求めて分析・洞察した結果、みなが幸せになれる、政治的に正しい結論になりました」というパターンのブログ記事 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

とりあえず、件の書評でダンコーガイがやたら罵っているのはそれが権力ゲームだからには違いない*4宇野常寛風に言えば、まさに動員ゲーム*5
『ゼロ年代の想像力』の用語を整理してみる 日記&ノート(転叫院)
「動員ゲーム」「バトルロワイヤル」がわからない 日記&ノート(転叫院)


それで、その動員ゲームにあたってダンコーガイが持ち出しているのは、自然科学と人文的教養の対立っていう、実に古臭い物語だ*6

スーザン・ソンタグが「一つの文化と新しい感性」で、そういう風な対立を設定するのは古臭くて間違った見方だって書いたのが1965年のことだった。

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

林達夫だって『思想のドラマトゥルギー』で、これからの人文学者には数学の素養がいるようになるって言ってたし。

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

思想のドラマトゥルギー (平凡社ライブラリー)

結局、自然科学者だって間違った理論に固執することはあるし、人文系の研究者にだって緻密な仕事をする人は居る。ただそれだけのことを、さも本質的な相違がそこにあるかのように小飼弾は印象付けようとしている。
それによって、誰に、どんな得があるのか。得をするのが、自然科学者でもなければ、一般読者でもないことは明らかだ。小飼弾にどんな得があるのかうかがい知れませんけども。

まあ、いまさらこんな記事に釣られて「自然科学的な厳密さがなければ知の資格は無いのか」って納得するだけの人もあまりいないだろうけど、シノドスの人たちも、良い宣伝の機会が得られて、喜んでいるかもしれませんね。


追記)

ブクマコメントでも理系と文系とかって話が出ておりますが、
はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:人文科学者がダメな理由がわかる - 書評 - 日本を変える「知」

この手の話題であれこれ考えていて思い出したのがこの本。

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

社会生物学論争史〈2〉―誰もが真理を擁護していた

社会生物学論争史〈2〉―誰もが真理を擁護していた

エドワード・O・ウィルソンの大著『社会生物学』(1975)は、出版されるやたちまち非難の嵐を巻き起こした。とりわけ動物行動の研究を人間社会に適用すると明言したその最終章をめぐって、社会の現状維持を正当化し人種差別を肯定する悪しき遺伝子決定論であるとの批判が向けられたのである。

論争はイギリスにも飛び火し、やがてドーキンスとグールドは、やや論点をずらしながら、大洋をはさんで果てしなく思われる応酬をくり広げていく。だが、四半世紀をへて、社会生物学は一方でたとえば進化心理学のような学問分野を生み、また論議の焦点のいくらかはサイエンス・ウォーズやヒューマン・ゲノム・プロジェクトのほうへ移り、等々、社会生物学論争は、少なくともほぼ、終幕を迎えているといっていい。あの仮借ない戦いは、何だったのか。
社会生物学論争史 1:みすず書房

ウィルソンと彼の社会生物学に向けられた批判の多くは、たしかに公正ではなかった。しかし、社会生物学論争が、よく言われてきたように、ただの政治的動機による〈氏か育ちか〉論争でもないことは、本書に明らかである。科学者たちは、自分たちの科学について、真剣に戦っていたように見える――これは、四半世紀の道徳劇か?
社会生物学論争史 2:みすず書房


科学というとすぐ物理をモデルにしようとするあたりもすでに問題ありなわけですが、社会と科学の関係っていってもそんな文系と理系ってわけてすむような単純な話じゃありませんよ、ということで。
科学の側でも、何をもって科学的とするか、厳密とするか、について、立場や考え方の違いがあるし。

たぶん、上の本は、社会科学者が自然科学について対象への深い敬意を払って緻密な仕事をした例でもあると思う。小飼弾さんは同書の書評を書いていないようなので、ぜひこの機会に書評していただきたいものだ*7

以下、同書の書評など。
文系、理系、政治的な立場を超えてよい本といわれているわけです。

第14章「科学の本性についての対立する見方」と第15章「論争につけこむ」は,とてもおもしろい.前章に続いて,社会生物学批判派(ならびに反IQ運動)を率いたルウォンティンの科学観をさらに分析する.実験科学的な方法こそ「善き科学」の本来のあり方だとみなす彼の(そして批判派の)立場からすると,進化生物学や行動遺伝学で実行されているモデルに基づく立論やさらには統計学的な推論まで含めて「容認されざる行為」という判決を下されることになる.これは,事実関係のレヴェルでの違いなどではなく,認識論のレヴェルでの断絶があったのだと著者は言う.
http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/sociobiology.html

ここでいうような「認識論的断絶」が科学内部にもあるということが重要なこと。

道徳の自然化の是非は、人間に対する科学的アプローチとしての社会生物学の妥当性とは別問題でもある。しかし社会生物学が人間の社会的行動のある側面を理解するうえでの有効なツールたりうること、また社会生物学を政治的反動と短絡させることに無理がある* 、ということは間違いあるまい。
Apes! Not Monkeys! > 読書メモ06 > 『社会生物学論争史』

ほか、関連する抜粋や雑感など。
進化生物学――科学と価値のあいだ : 科学的世界観のblog
A・ブラウン「ダーウイン・ウォーズ 遺伝子はいかにして利己的な神になったか」/U・セーゲルストレーレ「社会生物学論争史」(2)



話は変わって、無限の話で終風翁がつっこみしてた。
2009-05-30 - finalventの日記

あと、ブクマコメントに。

fromdusktildawn 本質的な論点は、経済成長が無限か有限かじゃないよ。GDP成長率0%時代になるのが5年後なのか1000年後なのかが実際的に意味のある問い。1000年後の限界は900年後に考えればいいが、5年後なら今から考えておく必要がある。
はてなブックマーク - fromdusktildawnのブックマーク / 2009年5月30日

なるほど。


社会生物学関連書誌:参考リンク
http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/book/ep_b.html


追記2)

いくつか当該書評に言及したブログが出てきたのでリンク。

逆に正しさの基準が共有されていないからこそ、新しい基準を提唱することが比較的容易になる。それなりに容認されるような基準を提唱できた人は天才とみなされるだろう。
その結果が今の人文学だ。
2009-05-30 - うっくつさん本を読む。

ソシュールとかフッサールとかチョムスキーのこととかを考えているのかな。そもそも社会学にしろ言語学にしろ、確かに人文系の学問は、新しく学問を作ることからはじめなければならなかったのだった。

まあ、「文系」「理系」(大学受験生の世界観)と言えばよかったところを、「人文科学」「自然科学」と言ってしまったので、「科学」をめぐる奇妙な対立項を立ててしまったんだろう。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090531/1243708075

そういえば、ダンコーガイ自身が、文系理系の話をしてたところなのね。
はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:理系バカよりなのには訳がある - 書評 - 理系バカと文系バカ
文系/理系の話は結構根深そうだ。

ブクマにブクマコメ

takanofumio これにかぎらず、この人の文章って「俺もまぜろ」「俺の話を聞け」って言ってるだけでしょ
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51218475.html

まあつまり、発言権ゲームだ(笑)

いまいちわからんが

稀少性が問題ではなくなる無限の経済成長の可能性に真剣にコミットしてたのは、小飼弾さんの方じゃなかったかな?
あれえ? - shinichiroinaba's blog

と稲葉先生がつっこんでおられる。

(5月31日)

追記3)

はてなブックマーク - 404 Blog Not Found:人文科学者がダメな理由がわかる - 書評 - 日本を変える「知」
気になったブクマコメから。畏敬編。畏敬って言葉が召還されたゆえんをじっくり考えたい。もう一本批判記事書きますよ。

lingo_coffee 寧ろ一部の人文は、「研究対象に対する畏敬の念」が過剰分泌されすぎて、自虐ネタにすらなっているというのに。
はてなブックマーク - lingo_coffeeのブックマーク / 2009年5月30日

文学研究が、文学者の賛美で終わっちゃうみたいな話だろうか。カノン形成の話とかだろうか。

bunjack 「少なくとも自然科学者からびしばし伝わってくる、あの研究対象に対する呪術的ですらある畏敬」という「客観主義的幻想」が抑圧のテクノロジーにつながるイデオロギーであると批判したのはハーバーマスでしたね。

「呪術的ですらある畏敬」が「客観主義的幻想」と同値というのは、自然法則の実在性だとかそういう話のことなのだろうか。サイエンスウォーズ系の話につながってそうだけど、そういう話は慎重にしないと結局文化左翼批判みたいに終わっちまうし、気をつけたいところ。
(5月31日)

追記4)

ぶくまコメ追っかけ中。

takanofumio ちなみに本屋的世界観にあっては、専門書は人文・法経・理工に分類されます(まめちしき)。
はてなブックマーク - 本田由紀は教育学者なのか? - 女教師ブログ

ふむ。社会学は法経じゃなくて人文になるのかなー。お店の判断かな。
図書分類の歴史も面白そう。
図書 分類

fromdusktildawn 「まだ成長の天井を考えるべき段階には達していません.」←「無限」と書いても、これ以外の意味にはならんと思いますよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20090530%23p1

(5月31日)

追記5)

お返事いただきました。

人文学・社会工学で広く支持を得ている理論には、未検証にも関わらず、教条として扱われているものが多々あります。それどころか、万能理論や循環論法ではないか、と疑ってしまうようなものさえあります。

その辺りから、新しく学問分野を作るのに熱心なのに対して学問分野自体の検証が足りていないのではないか、という印象を私は持っています。
2009-05-31 - うっくつさん本を読む。

なるほど、天才ってまつりあげられちゃう人が多いのも困りもの、という話だったわけですか。

物理学的立場からのコメント。

本質的に成長が頭うちになるとしても、その頭打ち現象がずっと先のことであるのならば、現代の近傍においては、数学的帰結として無限成長が出てくるような方程式を用いてもかまわないのである。
http://hakase.g.hatena.ne.jp/KazuyaMitsutani/20090530/1243690880

途中の話にはついていけないのだが、ここだけはわかった。
(6月1日)

追記6)

シノドスに訂正の上、シノドス関連の注を追加しました。
(6月4日)

追記7)小飼弾にはコーガイとしての文脈があるのさ。

このへんに、当該書評の「バカ」とか「無知」発言につながる文脈があったのね。
404 Blog Not Found:こら!たまには実証しろ!!

小飼弾の自然科学者のイメージってこのあたりか。
404 Blog Not Found:「科学者よ、責任を果たせ」 - 書評 - 大槻教授の最終抗議
404 Blog Not Found:愛を科学した男に捧げる弔辞

疑似科学関連の議論。小飼弾の科学観が伺える。
水伝から派生した小飼弾氏のブログでの論争 | ミーム吉田のネットニュースクリッパー
404 Blog Not Found:疑う者を信じよ - 書評 - 疑似科学入門

*1:参照:お肌の美容のケア方法

*2:当の飯田さんが訂正のエントリー書いてた。2009-05-30

*3:シノドス関連のイベントやセミナーの案内を見る限り http://kazuyaserizawa.com/seminar/index.htm http://kazuyaserizawa.com/event/index.htm 自然科学者が講師やパネリストとして参加したことは無いようだ。客席には居たかも知れないが(演壇の論者との対話もあったかもしれないが)、確認していない。

*4:もちろん、私も権力ゲームや動員ゲームをしているのですが、権力ゲームや動員ゲームを避けることが重要なのではないと思うわけです。

*5:件の本が単著ではなく、シノドスがグループを形成していて何かの勢力みたいに見えることが、小飼弾をして反発させているポイントなのだろう。そういえば、こないだのラジオでは鈴木謙介と勝間某さんが仕事するとかチャーリー自身がリークしてたしな。ひょっとしてダンコーガイもそろそろ読者に飽きられ、見放されることを本気で心配し始めているのかもしれないね。

*6:小飼弾の書評は、人文学と自然科学の通俗的イメージをねじって見せていて、もう一段手の込んだレトリックであるが、同じことだ。いずれにせよ、ロマン主義の変形であることは間違いないので、ソンタグ以前の「古い感性」で書かれている。あと、社会科学の話には踏み込まなかったけど、社会科学も理系的なものと文系的なものにまたがっているっちゃいえる。

*7:ちなみに私は読了しておりませぬ