playworks#0をみた

昨夜『沈黙のトークショー』の第四部だけ見た。演劇だったと思う。

第四部「本番という言葉を使わせてくれ」20時30分ー22時30分
ゲスト:神村恵(ダンサー・振付家/神村恵カンパニー主宰)

米光さんにひとつ質問した。「ゲームとギャンブルの違いは?」という質問。米光さんがゲームの本質としてあげている、ルール、インタラクティブ、ジレンマって、ギャンブルにも当てはまるとおもうけど、ギャンブルとゲームの違いって何でしょうかと聞いた。
エンタメニュース|RBB TODAY

米光さんは、「ギャンブルは面白いと思わないんだよな。なんでかな・・・・ルールを一方的に押し付けられてる感じだからかな」といった風なことを言っていた。

そういう質問をしたときに、僕が考えていたのは、岸井さんが「自分が何をやっているのかわからないけど、何かすごいことをやっていると実感するときには、ウソとかホントとかの区別もどうでもよくなっている」という風なことを言っていて、その話題は『論理哲学論考』の最後の一節の話に流れてしまったので逆に焦点がずれてうやむやになってしまったのだけど*1、つまり、そこでは虚実皮膜というか、虚構と現実という区別が問題になっていたはずで、ゲームも演劇も、PLAYであるとして、そこには虚構性というか、フィクションであるという点が共通するんじゃないかということを考えていた。

そこで、では「本番」ってどういうことだろうか。

岸井さんはdump typeの『S/N』に出てくる言葉「愛という言葉を使わせて」から、第四部のサブタイトルをとったと言っていた。芸術は現実をダイレクトに扱っても良いはずだという姿勢から生まれた舞台作品。

ところで、賭けは約束によってなりたつし、その約束がうそでしたということになったらそもそも賭けにならない。賭けられるものは常に現実だ。お金であれば、それは未来の可能性、未来の自由の一部が差し出されている。命がかけられていれば、未来の自由のすべてが差し出されている。

純粋な遊びとしてのゲームには、そういう現実とのかかわりは無いし、何度でもやり直すことができるという意味では、ゲームの上での失敗は虚構の失敗とも言える。けれど、ゲームをクリアするためには、ミスを避け続ける努力が現実に続いていなければならないのだった*2

そういうようなことは、僕が聞いていない間に話題にあがっていたのかもしれないけれど、なんとなく、そんな虚実の関わりあいといったことが今回のトークショーの本質的な問いにかかわっていたような気がしている。

トークショーなので、結論が整理されて認識が共有されたってわけではない。話は脱線したり錯綜したり、行ったりきたりして、聴衆が緊張したり、だらだらだらけていたりした。そういう場所の持続が演劇として成り立っていたようで、今日はもうあの場所には行けないのだとおもうと、なぜかむしょうにすこし寂しいような気がした。

playworksがこの先何をどうするのかぜんぜんわからないけど、「岸井さんはいろいろしゃべっている間に勝手に結論を引き出すんですね、私は黙って考えてから結論を話すタイプですが」と神村さんが言っていて、米光さんが「勝手にって入っているのがいいね」とか言っていたのだけど、なんだか岸井さんの本質的な傾向を言い当てているみたいで、そんな風に岸井さんは進んでいくのだろうかとか思った。

*1:岸井さんの言いたかった「うそとほんと」というのは、有意味と無意味、真と偽、などとは違うことだと思う。虚構は無意味でもなく、偽でもない。

*2:虚構とやり直し可能性とかってことでは、悲劇と喜劇ではまったく別の様相を呈しているっていうようなことを連想しなくもない。