終わるルーチンワーク、始まる何か

yanoz2008-11-27

まず、岸井大輔さんの演劇のひとつの節目になったであろう、potalives RのRoutine workについて。
ルーチンワークの終り - 白鳥のめがね

このルーチンワークは、その日の上演自体として言えば、「約束をしてそれを果たすこと」だけで成り立っている。ひとりの観客は、集合場所に行き、指示通りに開始の合図を送る。すると、上演を開始するという約束が果たされる。観客には、ひとりの出演者(木室さん)から、指示を記した手紙が手渡される。「1時間10分待つからそれまでに来てください」、と告げられている。ある場所までたどりついて木室さんと再会すると、「Routine workは終わる」と書かれた紙が渡された。約束通りにすれば、約束は果たされる。それだけのシンプルで本質的なドラマ、いや、ドラマティキュル(dramaticule)だ。

ひとりでしか参加できないこの日の作品の、主役は観客自身で、勝手に差し出される約束を反故にするも約束通りにするも、観客次第だ。どのみちを歩いても良く、何を見ても良く、どこかにいるという出演者を探して、町を歩く目の運動がすでに、「町それ自体が演じている演劇」を見るドラマに他ならない。そうした遂行のすべてが、ひとつの儀式として世界に刻まれる。

約束の遂行だけで成り立つ儀式的演劇作品というのは、コンセプトとしてはシンプルで、単に実行するだけなら造作もないことだろうけれど、それを確信をもって世界に刻みつけられたのは、ポタライブを地道に続けることで観客の足や目を創造してきたからなのだろう。今回のルーチンワークが傑作であるとしたら、ポタライブというジャンルがまぎれもなく存在しはじめたということをシンプルに形にしてみせたからで、言い換えれば岸井さんの代表作はジャンルとしてのポタライブなのだということだ。

叙述上のトリックに類比できるかもしれないような仕方で、たとえば『Museum』の上演がそうだったように、岸井作品ではタイトルという制度や作品という制度にトリックが仕掛けられることがある。今回は、上演の開始と終わりという制度が、ルーチンワークというタイトルの範囲を広げ再定義するような仕方で、脱臼されている。

ここに見られる妙なこだわりは、傍目には独りよがりな言葉遊びと思われかねない危うさも持っていると思うし、その遊びに真剣に加われるひとは少ないのかもしれないが、私は岸井さんがこの遊びに彼の生まるごとを賭けていることを知っている。

岸井さんのどこか突飛な言語操作は、半ば韜晦なのかもしれないと思うこともあるけれど、本気でやっていると通じやすさというものなど忘れてどうでもよくなってしまうのかもしれない。

それでも、この記事はかなり率直に語っているなと思う。
routine workの終わり/play workの始まり | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

岸井さんにインタビューして記事をまとめた1年の間には、PlayWorksという展開があるとは予想できなかったことで、その第一歩が、どのように岸井さんの演劇計画を進めることになるのか、興味は尽きない。

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いよいよ今週末に始まる新しいプロジェクトは、どんな未踏の地に向かうピクニックなのか。たとえば裏山のどこかに一度も人類が踏み入ったことのない場所があっても、おかしくは無い。
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(追記)

ルーチンワークという言葉は、岸井さんが関わった上演を評するにあたって使ったことがあった。

生活の中にある、ルーチンワーク的なものを示唆しながら、舞台全体が、細かなルーチンからなるモジュールの組み合わせによって生活の場面が生成してゆくかのように進むわけである。

つまり、生活そのものを織り成している構造自体を模造することがこの作品のモチーフになっているであろう(中略)

教室という場所の、生活とつながりながらもそこから切り離されてもいる抽象性、その抽象性を誰もが生きてきたという具体性、が、そのモチーフを全体において枠付けている。
a round の『青の辺りまで、暮らす』 - 白鳥のめがね

そして、Root in workという作品もあった。
(-2)LDK の root in work - 白鳥のめがね
読み返してみると、役割を果たす(約束を果たす)というモチーフがこんかいのルーチンワークにも一貫していたことに気がつく。

上に参照した二つの上演についての自分の評価は、岸井さんのルーチンワークに対する最新の言説を前にしては、大きく見直さなければいけないものかもしれないと思う。おそらく、岸井さんがどのような射程で、あえてあのような、いたずらに舞台におぼれるような審美的視線からすれば退屈としか思えないパフォーマンスを舞台に据えようとこだわっていたのか、その希望と洞察と哀悼と祈りとを、その愚直さを、わかっていなかったのかもしれないと思い始めている。

僕は、演劇とか舞台とかについて、政治とか文化とかについて、たいして知りもしないくせに、狭い了見で理想を振りかざしていただけなのかもしれない。