要は、日本語補完計画がないんでしょ?

このあいだ、「簡体字は便利だから使ってみよう」、という記事をたまたまみつけて読んでみた。

 グローバル化によって中国国内の情報もそのまま伝わる時代。中国の漢字もよく目にするようになった。だが、その字体は簡体字(かんたいじ)といって日本の漢字とは違い、手書きしやすいように画数を大幅に簡略化してある。

 日本人からすると簡略化しすぎているように見えるが、その分手書きしやすい。他人が読む手書きの文章に簡体字を使うのは差し控えたいが、自分が読むだけのメモ書きなら、簡体字に慣れていくと便利なものだ。中国語に慣れるメリットもある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nba/20090219/186731/?ST=print

これを読んで思ったのだけど、どうせなら日本語の公用語表記を簡体字にしてしまったらどうか。

当用漢字以降の戦後つくられた日本だけの略字などは所詮ローカルな文字なのだから、どうせ漢字を簡略化するなら、中途半端なものは捨て去って、より徹底して簡素化され、よりユーザーの多い大陸の簡体字に乗り換えることの方が合理的じゃないか。

世界で約3000万人ともいわれる中国語学習者のほとんどは、簡体字を使っています。また、中国系住民が7割を占めるシンガポールでは、『漢字簡化方案』を採用し簡体字が正式な中国語表記法とされています。また、国連では2008年以降、中国語表記は簡体字に一本化されるそうで、簡体字が漢字のグローバルスタンダードになりつつあります。
http://secondlife.yahoo.co.jp/hobby/master/article/h101iyuus_00074.html

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』の発表以降、かまびすしい日本語の価値や地位をめぐる議論だけど、「読まれるべき日本語作品が有能な書き手によって書き続けられる」ために何ができるのか、結局有効な対応策はほとんど示されていないと思う。

日本語が<現地語>に成り下がらず、<国語>としての命脈を保つためには、すこしでもユーザー数を増やす努力が必要だろう。裾野が広がらなければ、頂点も高くならない。

簡体字公用語に採用すれば、日本語へのアクセスが容易になり、日本人もグローバルな漢字文化圏に参入しやすくなる。これは、英語に日本語が対抗する上で、極めて有効な言語政策じゃないか?

そこまで考えて、もう一歩、踏み出していい、と思った・・・・。




それは、日本語の公用語としての表記に、ハングルを採用するということ。



簡体字+ハングル交じりの日本語表記。



これって日本語を英語に対抗する<国語>として補完する対応策として、最強じゃない?

そう思ったのだ。


途方も無いアイデアと思われるかもしれない。



そんなの無理、と思われるかも知れない。



しかし、日本は半島の人々が日本名を名乗り、日本語を使うようにするという政策を実施したくらいだ。日本が日本列島の人々に、同じことができないはずがない。ぜんぜん不可能ではない。


そもそも、かつての日本と今の日本では、世界の状況も異なり、国内の体制も違うのだから、かつての日本語をそのまま残そうとしても、未来の日本語がかつてのような<国語>としての輝きを保てるはずもない。

問題は、<国語>としての日本語を守るために、ハングル簡体字交じり表記にどのようなメリット、デメリットがあるかだ。今日のこの日にあわせて、思いつくところをあげて、ちょっと議論をしてみてみようか、と思った。


かきことばとしての日本語の表記が、かなと漢字を混ぜている点でユニークであるとは良く言われる。ハングル・簡体字交じりにしても、表音性と表意性がブレンドされるという特徴は保持される。

もちろん、仮名を使わないことで失われるものも多い。しかし、仮名は表音文字としては、所詮借り物の仮のもの。漢字を崩しただけの代物にすぎない。

現代仮名遣いを使い続けるくらいなら、本来の表音主義的な理念を徹底して、世界でもっとも合理的といわれるハングル文字を採用したっていいだろう。カタカナとひらがなの区別は失われるが、それ以上に得るものは大きい。

ハングルは半島の言葉にマッチするもので、日本語を十分表現することはできないといわれるかもしれない。それは、仏語や独語においてアルファベットにアクセント記号が付されているように、補助的な符号を付加することで、ハングルを拡張すれば良いだけの話だ。

先にも触れたが、簡体字ハングル交じり表記を採用することで、言語的な相互交流が促進される。これは大きなメリットだ。

簡体字ハングル交じり表記にすれば、大陸や半島の人々が日本語を目にしたときに、なんとなく読める、なんとなくわかる、ものになる。
それは大陸や半島のエリート層を日本語圏に取り込むことにつながり、観光案内などの他言語表記のわずらわしさも軽減されてゆくことになる。

反対に、日本人が大陸、半島に向ける視線も大いに変わることになるだろう。大陸や半島の言葉が、意味ははっきりわからなくても、読めることになる。この違いは大きい。

そうして文化的交流が促進されることにより、結局はハイブリッド化された日本語圏を豊かにすることになる。



政治的には、大陸と半島の反日的なナショナリズムをなだめ、馴致することが可能となる。
どのような謝罪や補償よりもその効果は大きく、大陸と半島の文字を日本が取り入れるというパフォーマンスに対して、それぞれの国民は日本を許してしまう心情を禁じえないだろう。


日本が公用語としてハングルと簡体字を採用するインパクトは、他のアジア諸国でも文字として簡体字・ハングルの採用を促進させるかもしれない。そうすれば、それだけ、英語に対抗する文化圏は強固なものとなり、その対抗文化圏の中心を占める日本語の相対的な地位と価値も向上するのである。

このことによって日本語は大きく変質せざるを得ないが、しかし、逆に、変容した上で英語の覇権にたいして最低限抵抗し、<国語>の地位を守るだけの基盤を得るのだ。



さて、便宜上ここで、公用語として採用される簡体字ハングル混じり表記の日本語を新国語と呼ぶことにしよう。

公的な言語や学的な言語は新国語表記を採用し、国際的にオルタナティブなスタンダードとして英語に対抗する言語として磨き上げていくのだ。
その意気がなければ、とても<国語>としての地位は保てない。

新国語を普及定着させる上で、学校での国語教育は根本から改変しなければならないが、一般市民に対しても、公用語教育を施す必要が出てくる。
そこで、日本に留学した経験があるなど、それに相応しい大陸、半島の人々を、教育に必要な人員として採用することが手っ取り早い施策である。

かつて志をもって日本に留学しながら日本で差別的待遇を受け、不遇をかこって反日的感情に流されている人々がいると聞いたことがあるが、新国語普及政策において、そうした人々も報われる。そのことが国益に資するものは大きい。
新国語教師として誇りを取り戻した大陸、半島出身者は、自ら進んで日本語を守り世界に広める役割を果たしてくれるわけだ。


さらに、新国語の普及において、マンガやアニメなど、戦後的な文化の伝統は一端切断される。
これは、国語として読まれるべき日本語と、読む価値のない日本語とを明確に区分するために役に立つことだ。
旧国語表記の文化は存続するかもしれないが、それは、新国語に比べて低俗なものであるということが一目瞭然なものになる。これで、チープなテーマパークのような<現地語>としての日本語と、グローバルに英語と対抗する<国語>としての日本語とがはっきりと差異化されることになる。こうした差別が、文化的価値を守るためには、極めて有益なのだ。*1

そして、天皇陛下の御言葉もまた、大陸や半島の人々に読むことができるものになる。意味がわからなくても、読めてしまうということが持っている力にはあなどれないものがあるはずだ。*2
新国語採用によって、トロイの木馬のように、大陸や半島に天皇制が浸透するのである。ハングル・簡体字交じり表記の日本語は、21世紀の天皇制日本が半島や大陸を覆うためのソフトパワーとなる。

ここから帰結するのは、日本語圏が半島、大陸に広がり、日本語圏の文化的優位による必然的な結果として、大陸、半島の文化が日本語圏に取り込まれていくということだ。



かつて日本の国語は、軍事的産業的な覇権によってアジアの盟主となるという帝国主義的政策の支えがあってはじめて、<国語>としての栄誉を謳歌することができた。

未来の日本の新国語は、ソフトパワーによってアジアをリードすることで、再び<国語>としての栄冠を勝ち取ることができるのだ。

これこそ、日本語を<国語>として存続させるための最強の策ではないかと思うのだけれど、どうだろうか。

(追記)エイプリルフールのネタ記事でしたが、ホッテントリーメーカーでタイトル付けてたのにトラックバックしてなかったので、タイトル変えて贈りなおしました
http://pha22.net/hotentry/

*1:もちろん、記紀万葉から戦前までの読まれるべき日本の古典は、それとして読み継がれることになるだろうが、繁体字歴史的仮名遣いによって一部のエリートだけが特権的にその美質を享受するものになるだろう。

あくまでハングルを使いたくない人々は、公的にはやむなく新国語を使いながらも、私的には、戦後の混乱した政策によって歪められる前の本来の国語にもどり、大切に守り続けることになるだろう。

半島や大陸で新国語を身に着けた人々のなかでも、エリートと呼ばれうる教養と知性を兼ね備えた人々は、旧大日本帝国時代の国語への憧れを抱かざるを得ず、少数の選ばれた人々だけのあいだで、ひっそりと旧来の国語の文芸が花開くということもあるかもしれない。


*2:「日本語圏は、三流芸人が軽薄にバカ騒ぎするバラエティー番組やスポーツマンや芸能人の下半身の話題をさも重大事件のように扱うゴシップ雑誌、知性のかけらもない動物的で脊髄反射的なネット書き込みばかりがあふれる言論空間に堕ちていく。」
英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ

 この記事で描かれている堕落していく日本語圏には当然、天皇の言葉も含まれなければならない。天皇が執り行う儀礼やそれに伴う祝詞が英語化されることなど考えられるだろうか。そうでないなら、この議論には、天皇制の廃止が暗に前提されていることになる。