『ミメーシス』読書メモ/悲劇喜劇

 先日も触れましたが仕事してない期間にアウエルバッハの『ミメーシス』を読んでました。まだ読みきってないけど半分足らず読んで力尽きたところで図書館に返すのでちょっとメモ。

 哲学史を勉強していれば、ヨーロッパ精神史がギリシャ的伝統とヘブライ的=キリスト教起源の伝統との葛藤=コンプレックスによって成り立っていて、その緊張をどう見るかってのが基本になっているとわかるわけですが、『ミメーシス』は、『オデュッセイア』と旧約聖書の描写スタイル(文体って訳されてるけど)の違いから説き起こしていっている。そういう古典的な問題構成の下に構想されている本なわけですね。

日常性の要素はホメロスにおいては牧歌的な静穏さの範囲をでないが、旧約においては、日常茶飯の現実に、最初から崇高性、悲劇性、問題性が突入している(ちくま学芸文庫版上巻、51頁)

 それで、ギリシャ、ローマの古典古代におけるレトリックの洗練が古代世界の凋落にあわせて閉塞していく様子を一方で描き、ジャンルの分化と純化が描写を制限する様子を語る。他方、キリスト教の文献も参照して、個別の現実が救済の歴史に回収されてしまうユダヤキリスト教的な解釈法もまた現実描写を制限してしまうってことをふまえつつ、アウグスティヌスとかキリスト教側の書き手がギリシャ・ローマ的な古典古代の教養も摂取した上でジャンルの混交を進めるなかで現実の捉え方が豊かになったりする事情を事細かに論じる。ここまでまだ古代の話だった。

 聖書の言葉が古典的教養の持ち主にとっては卑俗すぎて、それがローマ世界でのキリスト教の受容をはじめ制限したとかって話も出てきて、「へー」と。日本だと聖書の翻訳がはじめから独特の荘重さを持ってただろうから、そういう感覚って思想史的なパースペクティブを教養インストールしないと見えてこない話だよな。
 なんか、聖書ってキリスト教以前のローマの市民にとっては、今の日本の「読書人」がケータイ小説の文体を貶すのとおんなじ感じで粗野なものに見えてたんだろうか、とか思った。

 それで、ローマ帝国がほろびて野蛮なゲルマン諸族の中から封建制が芽生えて西欧世界が勃興していく中世の、粗野なキリスト教文献とか、武勲詩とか、キリスト教聖史劇とかを見ながら、現実描写が様々な仕方で豊かさを獲得していく過程を論じていく、と。このあたり、聖フランチェスコの演劇史的な重要性の指摘だとか、熟読すべきところか。

 まあつまり、各時代のいろんな文献の断章をとりあげつつ、スケール大きな精神史的眺望において分析していくわけですね。そこに、経済史の知見が入ってきたりもすると。二次大戦頃の著作なわけだけど、ディルタイの解釈学が文芸学とかに影響するってこういうことだったのね、とか昔の哲学史で習った断片的教養をいまさら補填した気分。

 上巻も途中まで、下巻はちょっとだけ拾い読みした程度だったのだけど、モンテーニュの章が「悲劇的なものの欠如」で閉じられて、それがシェイクスピア論に受け継がれ、それがセルバンテスに続くとか、もうめくるめく展開が素敵ですね。あと、上巻ではプラトンとかはお呼びでない感じだけど、ラブレーモンテーニュを語るところでソクラテスとかプラトンが参照されるっていうのも、ヨーロッパ的な思想史/精神史の重層性を彷彿とさせます。上巻だとむしろレトリック史が参照されるので反レトリック的な哲学が敬遠されるのはまあ話の都合上当然というわけか。

キリスト教的中世は悲劇を知らなかったとよく言われる。が、もっと正確に言うならば、中世ではすべての悲劇がキリストの悲劇の中に吸収されていたというべきだろう。(同下巻、89頁)

 ここんとこを読んでソンタグの『反解釈』にある「悲劇の死」を思い出して読み返してみたよ。スタイナーの『悲劇の死』より、エイベルの『メタシアター』の方が面白いっていうある種残酷な書評と言えると思うけど、ソンタグが展開している悲劇の本質論だと「キリスト教的悲劇は厳密な意味では存在しない」って話になっている。ギリシャ悲劇が典型となる悲劇というのは世界の無意味さと非人間的な力の恐るべき支配に直面する「英雄的なニヒリズムのビジョン」から生まれるって整理をするから。キリスト教は世界を意味付けるからそういうビジョンを遠ざけるってわけでした*1

 ソンタグは「厳密な意味」と言っているけどある意味悲劇という言葉を極限まで切り詰めているから厳しいわけで、先鋭的に本質を語るわけなんだけど、逆に言うと悲劇という言葉を貧しく使っているともいえて、アウエルバッハが言っている広義の「悲劇」にこめられている、ジャンル論的な背景(たとえば、悲劇に割り振られていた「身分の高貴さ」というファクターのこととか)がごっそり捨てられている。

 悲劇と喜劇という古典的なカップリングは前からいろいろ気になるところだったのだけど*2、『ミメーシス』はそういう(演劇史的)観点でも重要な本だったんだなということを今回学びました。

 以上、夏休みの読書感想文メモでした。

(おまけ)
シェイクスピアは・・・きびしく無前提」(同、125頁)って言葉になんかぐっときた。 




 

*1:ちなみに、ソンタグの「反解釈」論文の方では『ミメーシス』の一章だけ微妙に敬意を払われて言及されてた

*2:いや、いまさらそういう区分は有効性を持たないっていうのは重々承知の上で、でも古典的な区別に当てはまるようなことが逆に復活してたりする気もするので。最近のお笑いとかわりと古典的な喜劇論がベタに当てはまるようになってきていると思う