西郷信綱追悼

西郷信綱が亡くなった。古事記注釈も未読だけれど、『日本古代文学史』の初版以降3バージョンを比べ読みしてみたりしたこともあるので、感慨深い。

 『万葉私記』を読むと、西郷信綱が古典の世界にのめりこんで行ったきっかけに、斉藤茂吉の『万葉秀歌』を読んだ経験があると語られている。
 『貴族文学としての万葉集』や『日本古代文学史』の初版では、教条的というのに近い唯物史観文学史の骨格が貫かれているのだけど、万葉集が戦時下に動員の思想として読まれていたことに同時代人として批判しなければならないという動機があったというわけだろう。情熱的な筆致を思い出す。
 どこかで、古典は声に出して読まないとだめだ、と西郷信綱が言っていたと読んだことがある。そういう響きがもっているドラマを慎重に捉えようとした生涯だったのだろうなあと思ったりする。

 「えーまだ本出すくらい元気なの」、と『日本の古代語を探る』を読んだときには思ったくらいで、学者としては最後まで現役だったのかな、と。

日本の古代語を探る ―詩学への道 (集英社新書)

日本の古代語を探る ―詩学への道 (集英社新書)

この本には、「ヲコとヲカシと」という論考があって、柳田国男が馬鹿とか阿呆とかの語源はヲコだ、と論じたという「鳴滸の文学」の知見をもとにして、古代の芸能(お笑い)とヲコ(愚)という言葉のかかわりが、どういう意味合いを持っていたのかについて探っていく。

世界のナベアツのアホになる3について(1)
で、アホという言葉のことを少し考えたけれど、いろいろ考える上でヲコの意味合いと芸能の基層みたいなものを視野に入れておかないといけないと思っていたところだったのでこの機会に少し読み直してみた。

『劇場の廊下で』の戸井田道三が清少納言とお笑いという話をしていることを紹介したけど
『劇場の廊下で』
西郷信綱のヲコ論も、「枕草子」のヲカシをヲコとのかかわりで論じていて、清少納言の父親の笑い話から始めている。戸井田道三のことが西郷信綱の念頭にあったかもしれない。