演劇千年計画のワークショップ発表会

演劇千年計画のワークショップ発表会を見てきた*1
http://web.archive.org/web/20070220095545/sennenkeikaku.net/index2.htm


日時 2006年9月23日(土)
場所 学習院女子大学やわらぎホール

講師陣
大岡淳(商品劇場) / 倉迫康史(Olt-d.d) /
志賀亮史(百景社) / 関美能留三条会) /
鳴海康平(第七劇場) / 矢野靖人(shelf) /
山田裕幸(ユニークポイント) / 横山仁一(東京オレンジ)
http://dainanagekijo.org/works/ws/0609_1000ws.html

8人の講師のうち、大岡さんは10年来の知り合いでもあるので、彼の仕事がどんなものか見てみたかったということもあるが、三条会の関さんがどんなことしてるのかは気になった。他に作品を見たことがあるのは倉迫さんくらい。ユニークポイントと東京オレンジは名前は知ってるけど見たこと無い。

多分、数年前ならこの面子で集まることはなかっただろうとか思う。

ロミオとジュリエット』については、
http://www.jade.dti.ne.jp/~stspot/Mag/28th.htm
という文章を書いたこともあった。

上の文章を準備する上で、戯曲を精読し、注釈の類も読み漁った過去があって、そんな記憶を呼び起こしながら、8人の演出家が分担して全編を通して上演という企画に立ち会ってみた。以下、見ながら考えたことを雑駁に記しておきたい。

2週間の間に各講師が4時間のワークショップを3回行って本番。というわけで、もともとそれほど精緻な作品が作れるわけでもない、という条件での発表会。ワークショップ参加希望者の都合で、人数も演出家は選べず、集まった人の数に応じて発表に仕上げないといけない。そこで、逆に、演出家の発想や引き出しが問われもする、といったところだろうか。演者の質も選べない。

そういった条件のせいか、ロミジュリの役を演じている役者を演じている、といった風なメタ演劇的なアプローチが取られることが多かった。

全くメタ演劇的でなかったのは、バルコニーの場面を演出した矢野さんの舞台だろうか。これは、ジュリエットとロミオのセリフを自由に再構成して、複数の演者に割りふって声にださせるどこか抽象的な類のもの。(鈴木忠志的な?)前衛的なコラージュ的手法を踏襲したような構成から、場面の展開として戯曲を解釈するのではなく、セリフの力を様々に浮かび上がらせるような質のもの。戯曲の言葉と役者のパフォーマンスが重なり合うことは無いというところで上演と戯曲との間の距離は常に意識されると言えなくも無い。

倉迫さんの演出は、ロミオが殺人を犯して追放されたことをジュリエットが乳母から聞くという場面を、乳母を3人の女優が、ジュリエットを7人の女優が入れ替わり立ち代り演じるというもので、乳母の猥雑さとかジュリエットの興奮が女性の集団の狂騒としてあらわされる。向かい合った丸椅子に座って演じる順番をその後ろで列をなした女優たちがくるくる入れ替わり立ち替わりして上演していく場面など、なかなか秀逸だったが、これもある意味メタ演劇的といえなくも無い。

冒頭の場面を演出した横山さんのパートは、教師と女子高生二人がロミオとジュリエットを演じていくといった風なもので戯曲の中の権力関係を教師生徒の関係に置き換えたりとか、いろいろ巧みに処理していて、翻訳調の臭さみたいなものを逆用する手つきが面白かった。

大岡さんは2幕の後半をリーディング公演風に演出。ブレヒトの手法を継承したいといったことを上演前にあいさつで語っていた。そういうわけか、上演の途中に数回ハンドベルの合図で演技が中断され、演者が互いに「ロミオについてどう思う」とか「恋愛とお金とどっちをとる?」とか注釈的に質問しあって、互いに演じ手としての戯曲への姿勢を率直に語ってみせたりするというもの。

志賀さんのパートもメタ的だなあと思って見ていた記憶があるのだけど、どこがメタ的と思ったのか忘れてしまった。3人の役者が役を演じ分けるのだけど、「ジュリエットの父です」とか役に入る前にコメントするあたりは明白にメタ演劇的と言えば言える。ジュリエットの周りをその両親が円を描いて移動するとか、劇的関係を位置関係の図式に再構成してみせる手法はなかなか手際よかった。

鳴海さんのパートは、それぞれの役を象徴するネクタイとか造花とかエプロンとか杖を役者同士が奪いあったり押し付けあったりしながら役者の間を役が移動していくという展開。ジュリエットが死んだ(ふりをする薬を飲んだ)あとは、花だけでジュリエットがあらわされたりした。仮死したジュリエットを前に神父が説教かなにか長広舌を振るう場面で、ジュリエットを象徴する造花を体育座りした女の子が頭の上に載せられて、頬杖して上目遣いで頭の上の造花を気にしている風にしていたのが、印象深い。役と役者の関係からちょっとずれた、無邪気な観客のような位置に演者が居るというのは、戯曲の解釈の上で面白い領域を掬い出しているような気がした。

山田さんのパートは、ロミオが馬でジュリエットのもとに駆けつける場面を映画の撮影シーンみたいにして舞台化していた場面がなかなかの見せ場になっていた。馬を騎馬戦みたいに三人の役者が演じて(?)いて、照明とか扇風機とか、撮影スタッフみたいに他の役者がロミオ役の役者が駆けている風に見せようとする。紙吹雪まで散らしたりする。何度も映画化、映像化されてる歴史も踏まえているのかもしれない。

最後の関さんの演出は、横一列に並んだパイプ椅子に座った役者たちが、順番に演じていくパフォーマーに対して、待機している役者としていろいろとツッコミを入れるような展開。あいさつで「つっこみ入れるのではない仕方で演出できたら良いとは思うんですが」という風なことをおっしゃっていた。これは、そこにある問題をちゃんと自覚されているのだなと思った。



きっと8人の演出家がここに集まったことには、利賀村の演出家コンクールという場から生まれたつながりというのも大きく働いているのだろうと推察される。

近頃は、チェルフィッチュとかポツドールとかシベリア少女鉄道とか、新劇からアングラを経て80年代小劇場へと至る、という文脈とは別の所から演劇を発生させているような(そこでの切断が伝統を自覚的に踏まえた上でのものだったり、伝統と無関係なところからスタートしているから切断されていたり、いろいろだろうけど)演劇がもてはやされているという印象がある。

そうしたところで、新劇・アングラ・小劇場の文脈を、いろんな仕方で受け継いでしまった上で、さてこれからどうするか、という場面で何らかの危機感なり閉塞感なりを共有した(20代後半から30代の、若いだけではやっていけない、社会のなかに地位を得なければならない、という自覚のある)8人の演出家が現状を打開すべく集まっているのかなあと思ったりした。


メタ演劇的な処理が目立ったということは、短期間で戯曲を消化し切れなかった、という事情の反映でもあるのかもしれないけど、そこには、翻訳劇につきものの消化しきれなさというのも露呈していたような気もする。それはきっと西洋演劇を摂取してきた歴史の上にある新劇以降の今の演劇の状況の消化しきれなさということとも通じるもののようだなあと思ったりした。

まあ、でも、そういう大げさな感想とは別に、ワークショップの発表会として、戯曲に取り組む姿勢そのものを舞台化する結果となった、ということなのかもしれない。
ある種、演劇への反省的姿勢が自覚的に打ち出されている、ということなら、それは日本の演劇史の批判的な継承への意志が舞台化されていたということかもしれない。
でも、演出という技法を自覚的に用いることが、上演史への注釈みたいな翻案を避けられなくて、戯曲とか演技術とかというものに対して絶えず一定の距離を置かざるを得ないものとなるとしたら、良く言えばマニエリスムになるだろうけど、下手をすればマンネリに堕す、ということになるよなあとか思わないでもなかった。

「1000人のメンバーが所属する、日本最大の劇団を設立します!」とかと宣言されていて、多分やたらと小劇団が乱立してやたらと資源を消尽しているよりは大きな連携の中で社会資本が集中されたほうが質の高いものは出てきて良いだろうなあとは思う。

今ある劇場が上演の場として使われている時間の半分を稽古場として使うことにして、さらに、上演の半分が再演になるように誘導できたら、それだけで演劇の質はかなり向上すると思う。

才能とお金と機会の使われ方が、効率悪すぎることにうすうす誰もが気がつきつつ、そういう問題を素通りできてしまうようなしがらみみたいなものが制度化されているんじゃないかとか思う。

「千年」とか言っていて胡散臭いと思われているそうだけど、10年くらいは少なくとも続けていただいて、「劇団」という言葉のイメージを覆すような協同のあり方がそこから示されたら面白いと思う。

*1:2008年10月時点で再確認したら、公式サイトは消滅しちゃってた。十年続けてっていうのは幾分皮肉も込めて書いてたんだけどなー。その後のいきさつは知りませんけど。