飴屋法水の『3人いる!』−++

リトルモア地下に初めて行った。飴屋法水演出初めて見た。多田淳之介の戯曲が上演されるの初めて見た*1。8月3日の昼の回。

「3人いる!」特設サイト

飴屋法水は現代美術の文脈でも注目されていたので、そのせいか、客層としては演劇ばかり見ているのではない人もたくさんきていたようだ。舞台を離れていた期間に、演劇が成り立つ条件についての反省が逆に深まっていたということかもしれない。だからこそ、演劇のサークルの外からも観客を集めることができるのだろう。

今回の『3人いる!』は、日替わりで出演者が違うという仕掛けを施した上演作品になっていて、むしろ毎日同じ戯曲による別の舞台作品が上演されていると言った方が良いかもしれない。その一連の上演全体が、一つの作品として提示されているのも、面白い。

これは、上演というのは常にワンステージごとに別の作品とも言えるのだ、という、ある種ジャンルに対する批評的なパフォーマンスになっているとも言えるだろうけど、それ以上に、様々な背景を持つ人物がたまたま同じ場所を共有することで、そこから何かが生まれることを期待するという営みでもあるのだろう。

私が見た回の出演は次の3人(サイトから転載)

ワタナベハルコ 
小川弥生 
香本正樹 

以下、作品の内容に踏み込んで舞台の感想を書きます。


舞台は、ギャラリースペースのようで、狭い。客席も狭い。舞台の上には、三方の壁に棚があって、こじゃれた雑貨屋みたいだ。中央に机があって、僕が見た回では、前髪パッツンの女の子(ワタナベハルコ)が小さめのケーキにロウソク三本立てているところから始まった

戯曲の内容はとても単純なもので、ある種ドッペルゲンガー体験というか、自分の部屋に自分を名乗る別人がやってくる、という設定で奇妙な会話劇が進行するというもの。

途中で入場した女優(小川弥生)が最初からいた女に「なんで私の部屋に勝手に入っているの?警察呼ぶよ」と問いかけると「え、ここ私の部屋なんですけど、あなたこそ誰?」みたいなちぐはぐな会話がされていく。
お互いに不審がりながら、部屋にあるものの来歴とか過去の記憶とかを照らし合わせていくと、過去の経験が一致するので、まるで同一人物のようで、全く同じ人生を歩んできた二人であるとわかる、といった感じ。

ここで、本来のドッペルゲンガーと違うのは、もう一人の自分の容姿が全く別人だということ。そして、いつのまにか3人目の自分まで現れること。

この回では、3人目の自分が男(香本正樹)なので、そのちぐはぐさが笑いを誘っていた。サイトで見る限り、外国人というか、名前からみて明らかにネイティブに日本人じゃなさそうな人も出ているようなので、別の回には別のちぐはぐさがあったことだろう。

登場人物の役名は、出演者名と一致させられていた。そのあたり、元の戯曲の指示の範囲なのかどうか知らない。ひょっとするとプロフィールなども出演者にあわせて変更されているのかもしれない*2

おそらく、同じ舞台に日替わりで違う出演者が現れるという上演の構造は、自分の部屋に自分を名乗る他人が突然現れるという原作戯曲の構造をそのままなぞるようなものだ。
一つの作品の中に、様々な他人が、その場所に住んでいる人を名乗って、現れてくるわけだから。
おそらく、そこから、原作戯曲が描こうとしている状況を、演劇が成り立つ社会的条件に照らし返した上で、それを劇場の仕掛けとして仮構している。その点も、劇場という装置に批評的な仕方で介入するパフォーマンスとして解釈できるだろう。

舞台は、ハルコが友達の弥生に電話をかけて、二人のハルコ(ワタナベハルコ・香本正樹)が互いが本当のハルコであることを証明しようとする場面で新たな展開をする。そこで、電話の先にいる弥生の演技を小川弥生が行う。

ここで、舞台上の棚に並べられていたロウソクに火が灯されていって、舞台の転換を暗示する。

次に、舞台は一人でいる弥生の部屋にワタナベハルコが現れるのだけど、作品冒頭のシーンをほとんどなぞるような展開になって、弥生にも、もうひとりの弥生がやってきたことが描かれる。そして二人の弥生がいる部屋に、香本正樹がハルコ役としてやってくる。

そこで舞台上の3人が、二人いるハルコと二人いる弥生を演じ分けていくのだけれど、そこでは、互いに相手は一人に見えるが、自分は二人いるように見えている、という世界が、舞台上で演じられていくことになる。

台詞の上ではハルコと弥生の双方が正樹と付き合っていた、ということが示されていたのだが、さらにその部屋に正樹もやってくる。正樹も同様に、別の自分と二人でやってきたと言うのだが。

この3人それぞれがある種分裂しているというのが、それぞれの妄想のように描かれる場面は、特に収束を迎えないままに暗転。最後、ワタナベハルコ一人が、まるでそこに三人の会話が進んでいるような演技をして、作品は終わる。

演技の質においては、三者三様ではあったけれど、ポスト「現代口語演劇」的というか、特に何の演技術も無しで、誰でも誰かのフリができるというレベルで、素の演技というのに近いような感じで、進む。

とりわけワタナベハルコの演技はあまりに淡々としていたので、自分を名乗るもう一人が現れるという状況を単にお約束でやっているという雰囲気が強かった。まあ、それを好意的に、作品が描こうとする状況に現実性が欠けていることをはっきりさせて、それがただの芝居であることをあからさまにしていると評価してもよいかもしれない。

それに比べると、小川弥生はすこし大げさでテンション高めのキャラクターを作り上げていて、劇的な一貫性に対する意識が持続しているのを感じたけれど、それは外の二人の出演者と噛み合ってはいなかった。なので、お互いに見えないもう一人が居る中で対話が進み、その中で、ためしに分身の一人が外に出て行ってみるという込み入ったシチュエーションになると、その見えていて見えないという劇的状況を舞台に描くことには失敗していたと言えると思う。

香本正樹は、男女が入れ替わるという難しい役どころで、しっかり笑いを取っていたので、あるレベルで演技を達成していたと言うべきなのだろう。なんというか、あまりモテそうもない印象のキャラクターを舞台に提示していて、女子二人と疎遠な感じが独特の感触を舞台に与えていた。

さて、ポスト「現代口語演劇」的と評したのだけど、出演者が違う12演目を日替わり同時進行で上演しながら演出していくわけで、それぞれの舞台は綿密に稽古できないというのが前提の企画だ。演技の質という面で素に近く、演技の様式が練り上げられないのは当然と言える。

ここでは、それぞれの出演者の持ち味が素材のまま舞台上の偶然に投げかけられるようなことが意図されていると見てよいだろう。

自分の分身が現れて、同じ人物を複数の役者が演じていくというアイデアは、たとえばチェルフィッチュの舞台で、役と演者がずれていったり、長台詞のモノローグの語り手が、いつのまにか語りの中に間接話法で登場していた別人に入れ替わっていったりする様子を連想させる。

口語による演劇で現代を描くにあたって、青年団チェルフィッチュなど先行する試みのある要素を抜き出してその可能性を論理的に徹底するような試みが現在の若手の作品において進行していると思うのだけれど、多田の戯曲もそのようなものとして位置付けることができそうだ*3

この舞台作品が試みているのは、登場人物それぞれ相互の主観的認識が、舞台上で出演者が描き出そうとする場面と一致しない、ということを描くことだと言える。
演技という仕掛けが、誰しもそれぞれ別の視点から現実を見ているということを描く装置になっている。

そんな風にして、それぞれの出演者の主観と、外から見ている別の出演者の主観が一致しないことが舞台で描かれることが、アイデンティティの基盤がゆらいでいることを表している。そういう仕方で、逆説的に現代のパーソナリティーやコミュニケーションのあり方、その基盤がゆらいでいると感じられている状況を描こうとしているのだろう。アイデンティティに疑いを抱いていない日常もまた、ただその基盤のゆらぎを見ていないだけの幻のひとつに過ぎないとでも言うような*4。ここにあるのは、たとえば、流動性の過剰とかいったキーワードで読み解くことが許されているような、現代的な生の基本的なトーンだ。

自己同一性というものが、他者を内面化することによって成立するとすると、自己同一性の崩壊は、自己の内に他者が析出されてしまうようにしてあらわれるというのも納得できる。

ただ、それを最後にすべてが幻であったと言うようなモノローグ的な演技に還元しているのは、まとめ方として安易すぎるようにも思ったし、問題を広げるだけで回収はできていない、あるいは、問題をいわば生のままで突きつけることもできないで終わっている、と評価できるとも思う。それは、演出の問題というより、原作戯曲の問題かもしれない。

さて、公演のチラシには、企画したリトルモア側スタッフの言葉として、「ただの演劇ではなくて、空間プロディース的なアートとして受け取ってほしい、といった趣旨の宣伝文句が掲げられていた。実際、私が見た回の客層を見ると、演劇を見慣れていない観客も比較的多くて、素朴なリアクションをしていたという印象もある。

以前、キレなかった14才りたーんずという企画について触れたときに、社会から直接演劇を立ち上げられなかったから、その代替として、社会性を一時的に仮構する必要があったのではないか、と指摘した*5
今回の『3人いる!』の、ある種フェスティバル的な企画のあり方自体にも、似たようなものを感じる。相違があるとすれば、今回の企画の方が、同じ場所に集まりながら、見るものの違いの方が強調されているという点だろうか。

今回の『3人いる!』では、劇場を、様々なすれ違いの場が交差する地点として演出しているのが面白い。
12演目24公演を見たそれぞれの観客の間で、共有されるのはその場所と戯曲の設定だけであって、その場所が様々な視野から見られたということだけが、共有されるという仕掛けだ。

『3人いる!』の場合は、たとえば、同じお店に通う顧客同士の間で共有されるようなものが、舞台を軸に仮構されたと言えるかもしれない。いつも互いにすれ違いながら、その店について、テイストやもてなしの作法については、語り合える、というような。

いずれにせよ、劇場には、今まで以上に、ひとの集まり方の演出が求められている。そのニーズに答えを与えている企画は成功するだろう。
おそらく、演劇がアクチュアリティを持つためには、人がどう集まるのかという点から仕掛けを考えないといけない時代になっているのだ。

(追記)結論部分を削除の上訂正。注を加筆(8月10日)
(追記2)他の日の上演の感想や、初演のレビューを読んで加筆。(8月11日)

※関連リンク(2010年1月13日追加)
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_213

*1:多田淳之介演出は一度見たことがある。次のレビューを書いた:ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン

*2:3人いる!(脚本:多田淳之介/演出:飴屋法水)2回目 - 東京とうきょうとーきょー日記からリンクしていただいたので読みました(お褒め下さってありがとうございます)。演出や上演台本(台詞というか展開というか)を含めて各回かなり違うようですね。しのぶさんのレビューを見ると、初演時には出演者と登場人物の名前は一致していなかったようだ。

*3:先ごろ見たカニクラとも共通する点を見ることができると思う。カニクラVOL.2「73&88」を見た - 白鳥のめがね おそらく、プロットや物語が後景化して、仕掛けやギミックが前景化している点も、ひとつの傾向として指摘できると思う。その傾向をどう読み解くのかはまた別の課題として。

*4:そこから短歌における斉藤斎藤の試みを思い出しても良いかもしれない:斉藤斎藤/読む私書く私 - 白鳥のめがね それから、ID証明の問題も確かに自己同一性のゆらぎをめぐるトピックのひとつで、その点に触れた感想を書いているひともいたのだけど、学生証とか免許証とかパスポートとかIDカードを使った場面は無かったので、そこが作品において中心テーマであったとはいえないと思う。警察が呼ばれるけど来ないで終わるということの方が、その点では、むしろ重要だといえる。そこから問題になるのは、この作品では、IDの証明の問題には、あまりちゃんと踏み込んでいない、ということだ。IDの揺らぎが問題であって、IDを疑うことはあまり問題にされていない、ということだ。揺らいでいるアイデンティティアイデンティティ自体は、疑問に付されては居ない、とも言える。

*5:次の記事を参照:ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン