CASTAYA project『Are You Experienced?』四日目+

8月25日版の『Are You Experienced?』を見た。LOVEの字を反転したものがキービジュアルとして使われていて、これは東京デスロックの演劇LOVEを連想させますね。

冬のサミット2003

CASTAYA projectは、ある種匿名ユニットみたいなもので、誰の作品で誰が出演するかとか、あらかじめ一般には公表しないで上演を行うという企画。

当日も出演者とか作家の名前、スタッフの名前が公表されなかった。

だから、そもそもこの上演に触れたことについて、固有名をあげながら記述して歴史に刻む作業をどういう風に行うのかっていうこと自体がデリケートな問題に触れている。大げさにいえば、固有名と虚構という問題がそこにある。しかし、ここでは、CASTAYAという固有名にも言及せず、他の関係者の名前も伏せたままで話を進める。今回の日記タイトルのような上演に対する確定記述が固定指示子として十分であるとして先に進む。

まあ、複数人が関わって劇場で上演する以上、まったく誰の作為か知られないってこともないのだろうし、実際、私も関係者からの又聞きとして事前に何が行われるのか大体知っていたので、そういう面での驚きはなかった。

ここで、問題になるのは、顔を晒して出演者が舞台に立つと、それが誰かということは、知っている人にはわかるということだ。女性二人男性一人の出演者が誰か私は幸か不幸か知らなかったので、私からすると、匿名の誰だか知らない役者が舞台に出たという以上の経験ではなかった。

と、ここで書き終えてしまってもいいのだけど、すこし考えたことが無くもないので、もう少し書き足しておこう。

最初の女優の舞台での立ち方が良かった。何気ない仕草とかを見ているのがとてもニュートラルに心地よかった。それは、女優の力でもあり、演出や現場の力でもあったのだろうけど、そういう立ち方を可能にしていた大きな要因として、モノローグにはほとんど負荷がかかる内容がなく、おおむねしゃべってもしゃべらなくてもよいようなことばしか発せられていなかったからだ、と言ってよいような気がする。

その水準で演劇的な達成が維持されていれば、それなりに良いものと受け取ったかもしれない。水のような舞台に心洗われて帰るようなそういう舞台があったっていい。でも、それ以上の仕掛けがあったのが残念だった。

上演テキストは、自己言及的メタフィクション的な調子が基調にあって、細かい説明は省くが、私を主語にするテキストは、戯曲の書き手の視点から書かれた上演テキストであって、それを女優がしゃべっているが、それは、女優自身の言葉ではない、といったことを語っていく。しかし、その私というのは女優自身に近づくこともあるし、作家自身に近づくこともあるし、もっと別の抽象的な私になることもある。その私の視点の移動のなかで、演劇の制度が問い直されていって、登場人物への想像とか、観客の主観といったものもテキストの中で反省させられていくことになるのだが。それは、わりと、どうでもいい、誰でもすこし反省すればわかるようなことだ。登場人物の設定を空想上に羅列するような場面があって、そこで彼女はなにそれが好きだとかなんとかあれこれ思いついたようなことが語られるところが、物語に拘束されないようなある種の恣意的な流れをあるていどコントロールして飛躍させていたりとか収束させていたりとかして、そのある種のスケッチのような描写の流れは、ある種月並みな感傷に傾いていたりしなくもないのだろうけど、下手な物語につき合わされるよりはよほど楽しいものだった。

実験的上演だという名目で許されたこの手の放恣よりもつまらない演劇の方が世の中に出回っていて演劇ってそんなものだと思われていることの方が問題だろうが、まあそういう残念さというのは誰もがよく知っている自明なことだという人もいるかもしれない。スタージョンの法則とでも言っておけばよいことかもしれない。

さて、そうした展開のなかで、しばらく沈黙があったりして、わけもなく初めの女優が退場して、もうひとりの女優が出てくる。舞台の終わりのことがメタフィクション的に言及されることも、たわいないことでしかないのでここではその意義を検討したりはしない。衣装を交換したりすることも同様にたわいない思いつきなので、考察の範囲外に捨て去っておく。

ひとつ気になったのは、そのあと最初の女優が別の衣装で再入場してせっかく二人の女優が向かい合うのに、モノローグの輪唱みたいなものになってしまって、対話的な展開がなかったことだ。それが意図されたものであるにしろ、これは、近代以降の日本の戯曲の多くが、結局、作者のモノローグを複数の俳優にわりふっただけの代物にすぎなくなってしまっていて、そういう筆致が戯曲と呼ばれることをだれも疑わないことをそのまま追認しているだけなので、結局、この戯曲は形式的にはよくあるドラマになりきれないエッセイもどきの日本の戯曲のひとつにほかならない。つまり、様式上の誇張があるだけで、形式的な実験は何もなされていない。そのことは注記しておくべきかもしれない。

最後、3人目に男優が出てきて、はじめシャツとジーンズをはいていたのを脱ぐと、ワンピースで、女性にわりあてられたセリフを演じているという風にモノローグを進める。これも、自明のことだが、それ自体つまらない思いつきでしかない。

その俳優が沈黙して立ち尽くしていると、客電がついて、劇場の扉が空けられて、しばらく舞台を見ていた観客も、ひとり、またふたりと見切りをつけて帰っていくという終幕だった。私も15分ほど見ていたが、劇場の閉館時間まで舞台を注視していた人もいたようである。

上演テキストの作者名や演出を主導した作家名を伏せることと、劇場に沈黙して立ち尽くし、終わりのアナウンスをしないことで作品を宙吊りにすることは、形式的に、演劇史に対する同じ態度の両面であるように思う。それは、ある種平坦な演劇史的記述に回収されないように抵抗する、ひとつの神話化の詐術を唆すことにほかならないと思われる。

上演に立ち会う経験が、歴史に回収されないある種の一回性を強く感じさせる、その幻想を作家と観客が共有することに固有のかけがえの無いものがあるというのは、演劇にとっては本質を構成する重要な要素に関わる何かだ。舞台に俳優が沈黙して立ち尽くし、作品が終わらない、ということは、さまざまな要素を捨象することによってある要素を純化して抽出するようなひとつの還元作業として、一回性に関わる本質的な何かを露呈させるかのように見える効果があるだろうことは容易に理解できる。
そのような還元作業は、たとえ先行する事例がいくらあるからといって、その都度、無意味というわけではないだろう。もちろん、そうした還元が、錬金術的まやかしでないかどうかを判定する基準は、演劇の本質に対する知的な検討をおいてほかに得られはしない。

しかし、還元主義的にジャンルの要素を限局化し、観客に挑発的に突きつけることで本質を垣間見せるというような描写を唆す類の作業がジャンルにおいてどのような作用を持つのか、ということもまた、くりかえし芸術の歴史において観察され類型として歴史記述に回収されてきたはずで、そういう歴史的な位置づけに対してある種の素朴な神話化の身振りを対置することは、それ自体では、単なる無教養や歴史への無知、忘却や隠蔽、ただの勉強不足を肯定する怠惰であるという謗りを排除できるものではない。

ここでいう神話化とは、上演に立ち会った経験を比類ないものとして語るような語り口がもたらす効果である。土方巽ニジンスキーの上演について、世阿弥の上演について、ある種の神話的な語りをぬきにして何も理解できないが、神話的な語りを絶対視しても得られるものは限られている。神話化を単に否定せずに、その価値について、知的に洞察する道がどのように確保されるのか、それが課題である。

公共劇場の理念は、社会に対して芸術的価値を説明するという義務と切り離されては成り立たない。その点で、神話化を唆すようなある種素朴な還元作業が持っている射程が、あらかじめ無害化され限定されているとしたなら、そんな試行を演目に選んだ公共劇場のディレクターについて、粗笨なカタログを一般市民に提示する働きの悪い営業マンになってしまっていないか、反省してみる余地が十分にある。

あるいは、そうした還元作業が唆す神話化の射程が野放図に広がるとき、極端な例を示せば、ナチスによる集会の演出が、演劇の還元によって現実に働きかける儀式の構築を可能にしたのだ、と考えてみることができる。そう例示しておけば、還元の射程が制限されない場合、公共性という観点からみて帰結することがどのような効果を持つのか、ほぼ自明だと言ってしまっていいだろう。
(9月4日記す。結論部に若干加筆)