shelf「私たち死んだものが目覚めたら」雑感/日本近代演劇の批判的継承の不可能さ

shelfの公演「私たち死んだものが目覚めたら」を見た。
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私は矢野さんがやっていることにもともとあまり興味はなかったけど、やっぱり興味を持てないということを再確認したというところだ。

今回の舞台も、私にはどのような意義があるのかわからなかった。なので、意義がないと感じられた理由を以下に思いついた限りで書いておく。私の限られた見方において率直に感想を書くので、そのつもりで読んでいただきたい。

物語は世界的に著名な彫刻家が若い妻と海辺のホテルに逗留していると、そこでかつて名声をもたらした傑作のモデルとなった女と再会する、というような話。

この舞台は、いくつかの様式がごっちゃになっているように思える。その雑多さに、何か積極的なものがあるとは思えなかった。いろいろ思いつきを並べているが、一貫するものはないように思われた。

役者の技量においても、技術の習熟度がちぐはぐで、その齟齬が積極性を持つところまでは至っていないように思われた。特に、主人公の芸術家とその若い妻が対話する場面は、技量の差と演技の質のあまりの違いが、どうもそぐわないという印象を残した。おそらく、その質の相違を戯曲の解釈として示したいという意図もあったのだろうが、成功していたとは思えない。

私から見ると、この舞台で劇としてなりたっていたのは、結局、2幕の後半、主人公の彫刻家とモデルだった女性との間で、普通に対話劇が成立していた瞬間だったとおもう。その瞬間も、脇の方で他の演者があれこれ余計なことをしていて邪魔だなあと思った。

それ以外の時は、なんともちぐはぐな発話や叫び声やジェスチャーが並べられていただけのように見えた。特に、対話として書かれている場面で、あえて視線を逸らしあうように人物を配置したり、対話として書かれているセリフを、互いに言葉を聴いていないかのように、二人がてんでばらばらに客席に向かって投げかけるだけのようにして、抑揚も、モノローグを分割して交互に言っているだけのように響かせているのも、効果を感じられなかった。
あるいは、図式的には向かい合っていても、それも単に対面の図式があるというだけで、それを劇的緊張として成り立たせることにはなっていなかったように思う。

あるいはそのようなちぐはぐさというものを、「死んでいる人々」の言葉として響かせたかったということだったのかもしれないけれど、戯曲の解釈としてあまり説得力を感じなかった。

そういう印象を強めるのは、出演者の衣装がリアリスティックなものになっていたという点も大きい。結局、より「自然」で「現実的」な会話の場面が立ち上がった方が衣装のリアリズムにも相応のものになったということではないか*1

確かに、この上演では丁寧に質のコントロールがなされていて、そこには一定の技術もある。しかし、技術があるがために、成り立っていないものを成り立っているように錯覚してしまうこともあるような気がする。私には、この舞台は、そのようなものにしか見えなかった。それは、私に見る能力が欠けているだけのことなのかもしれないが。

山田宏平さんが舞台に出ているのを見るのは『少年B』以来、二度目になる。確かに、ト書きの情景を朗詠するようなある種リリカルな質を保った発声にはゆるぎない技術を感じたけど、多くの場合、そこから風景が立ち上がるような想像力への刺激というものはあまり無くて、まるで、聞いた音を一度テキストに変換してから解釈の作業をしないと何を言っているか理解できないかのようなものだった。
この舞台では、舞台装置は白い正方形の大きな敷物の上にベンチを置いただけの簡素なもので、ト書きで指定されているらしい情景は、それを朗唱することによって描かれるのだった。

あるいは、そのように想像力をかきたてないように言葉を響かせるという意図があったのかもしれないが、あえてそんな発話をすることで、戯曲に対する批評性がそこに有効に機能しているのかといえば、そんな風には思えなかった。

そして、猟に出かける地元の野卑な地主の役とナレーターを山田さんがひとりで行うことにも、戯曲の解釈としての有効性があるようには思えなかった。たとえば、観客の視点を戯曲の中ではなよなよした芸術に対する荒々しい自然の側を体現する人物の方に誘導したいとか、同一化させたいとか、そんな風な考えがあったのかもしれないけど、それが舞台に何か立ち上げているようには受け取れなかったし、戯曲の解釈として面白いとも思えなかった。

そういう感想になるのも、結局、上で述べたように、対話劇として成立しているところが一番劇として面白かったからだ。どうせなら、もっと自然な対話劇として一貫して演出したほうが、戯曲の解釈をもっと豊かに引き出せたのではないかと思う。中途半端に象徴的な演出を施すことは、逆に、戯曲の劇的構造を平板化させてしまっていたように思う。

私はイプセンにはほとんど思い入れが無い。『人形の家』を見たことがあるだけだ。小鳥クロックワークの『人形の家』は素晴らしかったな、と思い出す。

なので、イプセンが、晩年にこんな戯曲を書いているとは知らなかった。だから、そういう戯曲に触れる機会が得られたということは、それはそれで、ひとつのきっかけをもらったな、とは思う。

確認していないが、今回の上演は、おそらくト書きも省略せずに全て朗唱する形で、原作戯曲をまるごと忠実に舞台になぞっていたのだろう。それはまるで、戯曲を読むような経験だったので、これだったら舞台を見るよりむしろ戯曲を読む方が面白かったかもしれないと思ったほどだ。

その限りで私に見えてきた戯曲の像から考えると、おそらく、この戯曲はある種のアイロニーに彩られたものなのだろう。こんなものをイプセンが書いていたのかと思うと、歴史的に振り返ってみたい気がすこしばかりしないでもない。

そうしたアイロニーを、ある種の振幅というか、無価値の裏側にへばりつく厚みのようなものとして舞台に立ち上がらせるように演出するのでないと、この戯曲は、結局、軟弱な芸術家的自意識と痴話喧嘩だけに終わってしまうようなことになるのではないか。そして、この上演は、ほとんどその域を出られなかったような気がする。

おそらく、彫刻家の若い妻の価値を両義的に立ち上げられないと、この戯曲の上演は失敗すると思う。表面的には、尻軽で軽薄のように見えて、しかし、したたかでたくましくもあるようで、といった、解釈のゆらぎを唆すような人物像が造形されないといけないのではないか。

その点で、残念ながら、女優はただきょろきょろしていただけの時間が多かったようだし、ただのわがままで視野が狭く品がないだけの女に見えた。特に、この役で重要なのは自由の歌を歌うところなのだけど、それも平板でそれっぽいだけのメロディーだったので、まったくいただけなかった。

おそらく、モデルの女と妻がある種の拮抗関係になっていなければならないはずなのだが、演技の強さは、モデルの女に対しては及ばなかったと思う。まあ、技術が及ばなくても良いのだけど。

最後の場面で、逃げ去っていく若い妻が歌う歌の場面というのは、自由について若い妻は何か勘違いしていて、しかし、その勘違いや過ちにおいてこそ、逆説的に、自由を体現するかのような、そうしたある種のうらはらさが、異様な仕方で立ち上がってくるとか、そんな風でないと、この戯曲の上演は失敗するのではないか*2

そして、そこに近代劇というものの限界をめぐる、ある種の苦いアイロニーが滲まないといけないわけである。あるいは、そんなアイロニー自体の限界を限界として、批評的に示してみせるのでもないと、この戯曲の今日的意義というのは浮かび上がってこないのではなかろうか。

その点で、postmodernという言葉すら陳腐化している現在において、イプセンのmodernとは現代だ、と言い切ってしまう矢野さんは、近代以降の劇場なり芸術という制度に対する批評性を一切欠いているのではないかという疑いが残る。

イプセンがいたヨーロッパと21世紀の日本が同時代的でありえるとしても、そういう姿勢で上演をするのなら、少なくとも西欧世界の一員であるかのような錯覚を抱けた日本の近代を逆照射するくらいの手続きはなされてしかるべきだろう。

shelfの今回の舞台のような、ある種まじめで西欧風の、古典的な審美性をたたえた舞台というと、同じ春風舎で見た「地点」の『桜の園』は忘れがたいものがある。あの方法的徹底において、日本語で劇を立ち上げるということが実現されていたことに比べると、shelfの審美性は、なんとなくそれっぽいだけで、中途半端なのではないか、という風にしか思えない。

日本近代劇の批判的継承はいかにして可能なのか不可能なのか

今回の舞台に示されたようなshelfの様式は、日本の近代劇の屈折を確かに舞台に引き継いではいるのだろうが、その屈折を只受け継いでいるだけで、その屈折の意味合いに対する反省や批評性というものは、欠けていたのではないかという疑いが残る。なので、ある種の様式の惰性、無自覚な折衷、という風に見えてしまう。

shelfがやろうとしていることは、おそらく、かなりな難題であって、ほとんど成功の見込みが無いような事業だ。アメリカの自動車産業はもう再浮上しようがないし、日本の家電メーカーだって将来どうなるかわからない。それと同じような意味で、日本の近代劇を継承しながら再浮上させるというのは、とても簡単にはできないことだ。

それを、何でshelfがやらなきゃいけないのか、というところに、さらにねじれた問題があるように思う。矢野さんがはまり込んでいる袋小路はそれはそれで大変な袋小路なのだけど、そこでの戦いにあまり有意義さを見出せないのだ。

そう思う理由を考えていたらちょっと時評的な思いつきになってしまったので、ここに上演評とは別に項目を立てて思いつくことをメモしておこうと思う。

私は、日本語で、劇を立ち上げるということに関連して、たとえば山の手事情社のやっていることにどういう意義があるのかわからない。劇が立ち上がるという新鮮さを全く感じない。でも、それをやり続けている人が居て、見続けている人たちがいるわけだから、何かの意義があるのだろう。よくわからないけど。

私には、shelfや山の手事情社含め、この手の演劇は近代的な演劇理念や劇場の枠の中に安住して済ますための方便の一つという風にしか見えない。その点で『わが星』の方がましだと思うのは、近代的な演劇理念が危機にあるという視点からの照射はあるだろうと思うからだ。後退戦と安住とはえらいちがいなのだ。

日本の近代的な演劇をただ継承したって、歌舞伎や文楽以上のものは出てきっこないのだから、もうそこはすっぱりやめちゃって、歌舞伎や能や文楽をすこしでも次の世代に継承することに国として全力を尽くすというのが今の日本の演劇を豊かにするために一番するべきことなんじゃなかろうか、とすら思う。

おそらく新劇/アングラから小劇場までの日本演劇史を継承しながら、現代日本が迎えている局面において捉え返すというのは、よほど綿密な検討と修練が必要になるだろうし、そこから今日的な演劇を立ち上げるということに成功しているひとはほとんど誰も居ないんじゃないかと思う。

たとえば、木下順二ではなぜ駄目だったのか、という問いに正面から向き合っている人がどれだけいるか知らないけど、その問いを明確に解いてその先に進めた人はいないんじゃないか。木下順二がぶつかった、日本語で劇を立ち上げるという困難な壁を迂回して、別の方向にちょっと進んでみたというだけのことなんじゃないか。

だから、近代演劇なんてリセットして、まるで平田オリザから演劇史がはじまったかのように演劇を再構築するっていうのは、戦略としてまったく正しいし、そういう意味では、むっちりみえっぱりとか五反田団みたいに、低いコストで手近な材料だけで口語演劇をやってるほうが、実は、現代にそぐう演劇は立ち上がってしまうわけである。
そのために必要なのは、若い人が好き勝手できる稽古場と劇場を提供するだけのこと。安上がりだ。

ある意味ではどくんごは日本各地を巡業すると言う仕方で日本の近代劇をまっとうに継承しているのかもしれないけれど、それは近代的な劇場制度にたいする批判が貫かれているから可能なことだ。
その点では、津野海太郎『ペストと劇場』における近代劇場批判をそのまま受け継いで成果を挙げているのがどくんごだろうし、21世紀初頭の現在、あのスタイルで日本各地を巡ることには、十分な意味があると思う。

しかし、これもひとつの偏見だろう。なので、そういう偏見から評価しているということを承知しておいていただければ幸いだ。

※関連エントリ

演劇千年計画のワークショップ発表会 - 白鳥のめがね

*1:もちろん、こういう抽象度の点で、たとえばデレク・ジャーマンの映画がコスチュームプレイ的でありながら背景は抽象化されているとか、そういう様式もありえるのだろうが、今回の舞台はそういう点で成立していたとは思えない

*2:それは、私から見ると、陳腐さをいかに肯定できるのか、というテーマとして捉えられるような何かだ