創造者remix 中野成樹+鈴木ユキオ

というわけで、李禹煥のあと、見に行ったのです。演劇とダンスの、これからの活躍が期待される作家をカップリングするという好企画。

まず、石神夏希の戯曲を中野成樹が演出した『新聞のすみっこに載ってる小説』について。

「誤意訳」という独自のコンセプトで翻訳劇の上演を試みてきた「中野成樹(POOL5)+フランケンズ」の中野成樹さんが、日本の(ほぼ)同世代の劇作家が書いた戯曲を上演するということで、どう料理するのかな、と思ったのだけれど、思いのほか正攻法に戯曲をそのまま上演しているようで、でも結局は翻訳劇の上演の時とそれほど違わない印象が残った。

いつのまにか仕事と家庭の間ですれちがっていた若い夫婦の家にセールスマンがあがりこむことで、夫婦の問題が顕在化していく、という、とても古典的といってもいいドラマが丹念に展開される。戯曲そのものは見ていないのでどこまで演出家が戯曲に手を入れたのか知らないのだけれど、クライマックスでシャンソンを熱唱するあたりは戯曲の意図からちょっと離れていたりしたのかもしれない。

戯曲のドラマの骨格が、場面展開とちょっと離れたところに浮かび上がるような、ある種の距離感がずっと持続するような演出の感触は、いかにも中野さんらしいと思う。観客は、やはりドラマの骨格とか戯曲の筆致とかを丹念にたどるようにして、舞台を見ることになる。

って、ディテールをはしょった感想を書いているのは、記憶から遠ざかっているからということもあるけれど、ディテールがどこかすり抜けてしまうような見方しかできなかったという面もあるので、直後に書いてもあまり変わらない文章になったと思う。それが、自分のコンディションと、上演のコンディションと、戯曲と演出の相関関係と、どこに由来する結果なのか、私にはどうも判断がつかない。

ついで、鈴木ユキオ『dulcinea』について。
なんか、『ドンキホーテ』を基にした作品だったみたいで、作る側としてはいろいろ原作にたいする交渉とか応接があったのだろうど、見るほうとしてはそれはどうでも良い感じで、見せ方としても原作との関係の解釈などどうでも良いといった風でもあった。

で、同じ言い訳を繰り返すと、ディテールがあんまり記憶に残っていないのですよね。

無責任に言ってしまうと鈴木さんの作品なら「ミルク」の方が好きだった。単純に、今回の全体にとっちらかった展開に私がついていけなかったというだけのことかもしれないけれど、はじめて、鈴木ユキオ率いる「金魚」を見たのもSTで、そのときもいまいちピンとこなかった記憶があるので、これは、STと鈴木さんという組み合わせに対して私の方でうまくピントがあわないという事情がなにかあるのかもしれない。

いや、これは些細なことのようだけれど、空間のあり方と舞台効果の出方のあいだには、微妙な身体感覚の違いがかかわっていて、単純に小さいほうが間近で見られるという風な言い方では尽くされないデリケートな問題があると思う。どこがどう違ったのかうまくいえないけど。

んで、作品なんですけど、洗濯バサミを使ってロボット作ってたとか、そんなディテールを語っても仕方ないしなあ。それで、何かこううまく描写できそうな細部も記憶のそこからあまり浮上してこないのだった。どこか、日常の動きとダンス的な彫塑的(?)な動きの質というのが同じ平面にあるような感触は、ニブロールなどとはまた違った位相にあるような気もするが。

ひとつ面白かったのが、身長ほど長い細い板一枚つかって、壁と板と体のあいだのバランスだけで、壁の上にあがっていって、板の上におなかでぶら下がるみたいな動きをしていたあと、暗転し、再び明るくなると板だけ残っているという場面。

や、こういう照明による視覚トリックで場面をつなぐって、ダンスそのものをつきつめる見方からすればスペクタクル的な不純なんじゃないかと思ったりしなくもないけれど、舞台だからこそ逆に印象深くなるという効果はありますよね。

それはだから振付とか身体表現とか言うより演出の次元の事柄なのだった。公演アンケートに「暗転が上手い」とか書いたのは、われながら馬鹿っぽいなあと後から思ったのだけど、そのくらいのことしか書けないくらいに、ディテールを取りのがすような見方をしてしまったのだった。

さて、暗転に限らず照明の処理ひとつとっても、振付家って結局振付だけでは収まらなくなってしまうわけですけど、だから、舞台作家という言い方を私は何度かしてきたのだけれど、今まで振付家の方が「舞台作家」的な自覚のある人が多いのではないかと思っていた。でも、そのへん、演劇を中心に見ているひとからすると、振付家には演出が無い、と思う人もいるみたい。

スペクタクル性とはまた違う、舞台の造形性ってことを私としては何度も語ってきたつもりだけど、そういう視点というのは(端的に言えばセノグラフィー的視点で『視線と劇場』なわけだけど)まだなかなか今の演劇の観客は持ってないということなのかもしれない。

ちょっと話がそれてしまった。

(2006・1・22、1・28一部修正)