ダルカラ、サイコシス 雑感

ダルカラ(DULL-COLORED POP)の4.48 Psychosisを原作にした舞台『心が目を覚ます瞬間〜4.48サイコシスより〜』を見た。
CoRich 『心が目を覚ます瞬間〜4.48サイコシスより〜』

私はSarah Kaneに特に思い入れはないし、原作になっているテキストも目にしたことはなかった。最近、日本でも4.48 Psychosisがわりと良く上演されているのを知らないではないけど、見たことは無かった。

なので、翻案がどのようなレベルに及んでいて、どの程度原作テキストがそのまま使われているのかもわからなかった。
ただ、原作戯曲の原文を谷賢一さんが直接参照して、そこから訳したものが上演台本に取り入れられているということと、Sarah Kaneがこの戯曲を書き上げて自殺してしまったという事実、原作戯曲がいわゆる脚本の形をなしていない、むしろ現代詩に近いような形式で書かれたテキストだということなどを事前に知った上で見たというだけだ。

谷さん自身が出演し、「6年来の演劇的パートナー」という女優、堀奈津美と二人で舞台に立つ。堀の方は、Sarah Kane自身を思わせる人物として現れる。

舞台は、下手にベットとカーテンで示された窓があり、上手にデスクトップPCが置かれた机のある書斎のような場所が作られている。カーテン奥から白い照明が当てられて、夜が明けかけていることが暗示される。

開演前から、半裸の谷賢一とワンピース姿の女優がベッドで物憂く寝転がって、タバコを吸ったり、だらだらしている様子が演じられていて、舞台は、男が女のもとを去るシーンから始まる。もう朝になるからでかけないといけない、と、4時48分を連想させる場面になっている。

舞台の下手の隅と上手の隅は、別々の部屋をあらわしているようだ。そして舞台の中央は、もう少し抽象的な空間として使われる。舞台奥の壁は、スクリーンとして使われて、PCの画面と同じ画面が大きく映写されている時間が多かった。

この、3層の構造が、舞台全体を枠付けていて、上演にあたって、Sarah Kaneのテキストを解釈するということと、テキストが書かれたという事実の間で、ある種自己言及的なドラマが造形されているといっていい。

3つの層を登場人物に即して整理すると、原作者のイメージに重なるような、ベッド=病室で苦しみ、草稿を筆記用具で綴るシーンと、原作を解釈する演出家/劇作家のイメージにつながる、PCで原稿を書くシーン、そして、原作者と演出家の想像上の関係を演じてみせる場面、に分けることができる。

自己言及的な構造を、もう少し抽象的に整理すると、それは次のような三層に区別できる。

1.戯曲を執筆している作家像が比較的リアリスティックに描かれる、再現的な場面
2.作家の心象と作家に感情移入する演出家の心象が描かれる、象徴的にイメージが描かれる場面
3.作家と演出家の間でテキストが受け渡される関係を描く 図式化され抽象化されたドラマが造形される場面

1.のレベルに関しては、特筆すべきことはあまり無いように思う。私が見た回の上演では、演技の質はそれほど練り上げられたものには思えなかった。原作者をイメージさせる女性作家が患者として入院している病院での、医師との関係や、恋人との関係が、説明的に演技で示されただけであるように思えた。
それは、谷賢一自身の創作活動上の苦悩を自分で演じている風な、PCで原稿を書いたり消したりしているのをスクリーンに映してみせるという場面においても、同断である。
この点で、原作戯曲の舞台化は、月並みな挿絵を文章に添えた程度の価値しかもたないもののように思えた。

2.のレベルに関してそれなりに印象に残ったのは、風船に紙ふぶきが仕組まれていて、作家の恋人役や医師役を演じてみせる谷賢一が、天井から吊り下げらていった風船をライターの火で割っていく場面だろうか。これは、ある種、存在すること自体の苦痛や、自身を無に帰してしまいたいという破壊願望のようなものを、それなりに造形してみせてくれていたと思う。
ただ、それは、心象として解釈できるな、とかと考える余裕が残る程度の強さに留まっていた。

3.のレベルは幾つかの仕方で上演された。そのひとつは、テキストが書き付けられた紙片を紙飛行機にして投げ渡すというもの。もうひとつは、劇中に舞台中央に据えられた脚立の上で、サラ・ケインを連想させる人物を演じる女優が言葉を書き付けては落としていった紙片を、その下にいる谷賢一が拾い上げるというもの。そうしたところでは、実景であれ心象であれ、テキストの内容から連想されるイメージが上演されるのではなく、テキストを書くこと、そしてそれを解釈することの関係そのものがdramaticな図式において造形されている。

しかし、その造形は、たとえば上に立つ作家は何か不安定な場所で危険に身をさらしてインスピレーションを得るとか、解釈者はそれを仰ぎ見て受動的に受け取るとかという以上の何かを見せてくれるものではなく、そうしたイメージは、結局、作家が書き残したものを読むという経験の、いささかromantic過ぎる、そして十分通俗的な理解を図示する以上の何かではなかったように思われる。

この点でひとつ興味深いのは、医師の白衣をつけた谷賢一が、脚立の上に立って、あまり高くない天井近くに据付られた照明器具を手で動かして、女優に照明を当てている場面があったことだ。
そこでは、演出家と女優の、ある種権力関係とでも言えるようなもの、舞台イメージを自ら枠付けコントロールしたいという作家的欲望をあからさまに図示するものとなっていたかもしれない。
ただ、そういうアイデアもあった、という以上のものにはなっていなかったように思うので、そこから特にそれ以上の強い感銘も受けはしなかった。

1,2,3と仮に区別してみた層をまたぐような演出もあり、たとえばテープに音声を吹き込んで聞かせてみせるとか、ベット脇にあるものを人形仕立てのように積み上げてテープレコーダーを頭にみたててテキストの朗読を聞かせるとか、その積み木人形みたいな像が崩れるにまかされるとか、そういう試みもあった。斬新とはいえないが、アイデアとしてそれなりに面白い。

しかし、これらのアイデアの積み重ねは、上演としての成功にはつながっていなかったように思われる。

さて、Sarah Kaneのことは、若くして自殺しちゃった劇作家という以上のことはあまり良く知らなくて、この舞台を見ても、精神的につらくて自殺したという以上のことはわからなかった*1
Sarah Kaneのテキストが欧米で高く評価されるには、それだけの理由があるのだろうけど、それもわからないままだった。ということは、おそらく、谷さんは、Sarah Kaneの仕事が何だったのかを日本にきちんと紹介したとはいえないのだろうし、谷さんの模索は、Sarah Kaneが形式において英語圏の演劇史に何かを付け加えた格闘とは、ほとんど何の関係もなかったということなのだろう。
そして、様式的に言っても内容的に言っても特に目新しいところは無いと思われる今回の舞台上演が、上演があったという以上の何かを日本の演劇史に付け加えたとも到底思えないので、そう結論付けるほか無いというのが正直な感想だ。

谷さんは、Sarah Kaneに自身の苦悩を託しておきながら、そこで作家として谷さん自身はどうなのかという点について、肝腎なところは韜晦とほのめかしで済ませてしまっているだけのように思う*2。谷さんがSarah Kaneをどう読んだのか、ということは、まあ、ちょっとはわかった気がするが、結局谷さんはSarah Kaneに寄りかかっただけのことではないのか、という疑いが消えない。

おそらく、この舞台作品が扱う芸術的苦悩と健康な生活の困難が相伴うといった風なテーマが何を描こうとしていたのかを考えるとき、むしろSarah Kaneという「原作者」のことは忘れてしまったほうが良くわかるのかもしれない。

そのことを考えていてたまたま思い出したのでここにメモしておくが、この舞台は、内容的にも、形式的にも、Bob Fosseの映画“All That Jazz”の線で見た方が良かったような気がする。

もちろん、その華麗さやあけっぴろげの率直さ、そして演技の細やかさにおいて、まったく比較の対象にできないくらい格が違いすぎるとしてもだ。

さて、そう考えたとき、この上演には、ある種のcomicalさがもっとあっても良かったのではないか、という疑念が残る。自嘲的で苦い comic のセンスをもっと叩き込んでよかったのではないか。その点で、どうしても、自己陶酔的な臭みや甘さが抜けきらない舞台だったと思う。演出家の自己陶酔に共感できるファンにとっては、甘美だったのかもしれないが。

今回の舞台作品の冒頭の場面を見ていて一番連想したのは、実は友近となだき武の二人がアメリカの青春ドラマをparodyにしてみせるコントだった。翻訳調の芝居が、翻訳調ゆえに持ってしまう滑稽さというのは、おそらく、「作家」という翻訳語の物語を生きてしまうことの滑稽さそのものに重なる何かであるはずだ。

この舞台の作家には、そういう滑稽さに関する知的誠実さなり洞察力なりがどこかで欠けていたのではないか、とすこし無いものねだりをしておきたくなった。

※関連エントリ
DCPOPの「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」/陳腐さの絶対肯定+ - 白鳥のめがね

(追記)
この手の上演が難しいテキストをあえて上演するということに関して、書いていて、大岡淳演出の『伴侶』の上演は、なかなか巧みな処理をしていたな、と思い出したりした。
その上演では、演者は沈黙していて、録音された言葉だけが響き、ステージに広げられた大きな布一枚を使った簡素なセノグラフィーが、しかし雄弁に、テキストの魅力を示していた。

*1:テキストを実人生に還元する解釈を遠ざけることで作品自体の価値を擁護するという論者も居るようだけど、この舞台上演では、むしろ、自殺するほど苦悩した作家というイメージだけが強調されていたように思う

*2:女優の写真をプリントアウトしておもちゃのピストルで撃ってみせるなど、韜晦なんだかほのめかしなんだかという感じで、まったくいただけない