アルトロジーに触れて(ウルトラブッダギャラクシー/神里雄大)

アルトロジーというイベントに行ってきた。アルトーといっても演劇とか思想に興味が無い人にはわからない名前かもしれないけど、「器官なき身体」という言葉を残してドゥルーズとかデリダとかをインスパイアし、「残酷演劇」という理念を残して20世紀の演劇に影響を与えたひと。そのアルトーへのリスペクトをこめて企画されたものらしい。
ゆるゆるっとポストロックっぽいライブがあって、アルトーの戯曲のリーディング公演があって、企画趣旨を記したパンフレットが配られて、ワンドリンクつきというイベント。
アルトロジー
フリーメゾン(蚤の家って意味なわけだ)ってアトリエを共有した若手芸術家(?)の企画ユニット(?)みたいなものが(フリーメゾンアサヒビールの企業メセナ活動の一環であるアサヒアートフェスティバル(http://asahi-artfes.net/about/)の流れで開催されているイベントの一貫として(suppppper june : a-cita cafe 店長日記)シークレット企画として実施した、という位置づけだそうで。

冊子

鈴木真吾という人の長めのテキストが収録された冊子が配られた。『頭のストレッチ アルトロジー』という題。アルトーの演劇史への影響、『アンチ・オイディプス』への影響や、シチュアショニスト、ビートニクとの比較、などなど、アルトーについて知らない人にもアルトーの歴史的な位置がわかる、まじめでいて資料的に丁寧で、かつポップな文体とひろがりを持った良い導入になっていた。この本だけでも500円払う価値はあると思う。

アルトーの叫び」という名のペストに体中を蝕まれたぼくたちが、逃れられない死から呼び起こされる高揚感やピュアな感情を叫ぶことができるか、それこそが目や耳でアルトーを知った後、ぼくたちが考えなければならない課題であろう。 (『頭のストレッチ アルトロジー』 鈴木真吾 【序】より)

ウルトラブッダギャラクシー

ギターとドラムのデュオによるインストロメンタルのライブ。
twitterに感想書いてたので引用。

思いきり歪ませたタッピングとか、両手でリムショットとかなにげに初めて見た。いまどきのポストロックでは当たり前なのかな。
yanoz on Twitter: "思いきり歪ませたタッピングとか、両手でリムショットとかなにげに初めて見た。いまどきのポストロックでは当たり前なのかな。"

聞いているときには、「切れ味が良い感じ」で、「ドラムの小技が主役になっている」と思ったようだ。ポストロックという分類が適切なのかどうかいまいちわからないけど、そう分類されているものに似通った何かだった。お客が少なかったのがもったいない。その後の『チェンチ一族』だけ見た人がほとんどだった。

神里雄大演出『チェンチ一族』

「りたーんず」での上演が面白かったので、これがお目当てで私も足を運んだわけですが、神里さん自身はアルトーに特にこだわりはなく、主催者側からのオファーを受けて、演出家としてテキストに取り組んだということらしい。
前作についてのレビューはこちら↓
『グァラニー 〜時間がいっぱい』評(2) ノスタルジックな未来 - 白鳥のめがね

リーディング公演ということだけど、私は、リーディング公演と普通の公演の違いは、上演テキストを暗記して暗誦するか、テキストを手に持って見るかの違いだけだと思っている。近頃の日本の演劇では、リーディングと言っても凝った演出がなされることが多い。

出演者もりたーんず関連の人が多くて、客席にもさすがにりたーんず関連の人が多かった。りたーんずの雑誌を編集した藤原ちからさんがメモ書きをしているので、それにコメントをつけつつ自分の感想をメモしておこうと思う。
アルトロジー感想メモ - 新天地Q人日記(仮)

*演出家のポジションが面白い。あそこにいるし。でも背を向けてるし。支配者ではない。

会場はアサヒビールの持っているビルのホールで、平土間を二分して半分ステージ半分客席という感じ。ステージはテニスコートよりも広いくらいな感じ。その上手脇のあたりに演出家が音響卓みたいなものを前にして背を向けて座っている。

特に説明は無いので、それが演出家だということは知っている人でないとわからない。

しかし、こういう風に演出家が客から見えるところにいて、舞台に向けていろいろな操作をしたり介入するというのは、最近ではたとえばフランケンズの中野さんも照明卓を舞台袖の見えるところで操作していたりすることもあるし、リチャード・フォアマンなんかは客席の真ん中に陣取って効果音とか出している。
フォアマンの場合は客にも演出家が舞台に介入したりしているのが如実にわかる仕掛けなのでちょっと違うかもしれないが・・・。

客席から、舞台に対する操作が見えるようになっている、ということ。

たぶん、テキストが手に持って上演されていることと同様の、ある種の異化効果というか、語られる内容に距離を置く効果はあるのだろう。

>役者の見本市?
>現在生きる役者と戯曲の世界の登場人物とのなんか貫通トンネルみたいな?
>カラオケおじさん的な世界と知的教養の世界との架け橋?

それで、テキストに対して、新劇的だったり、アングラ的だったり、クナウカみたいに朗読と演技を分けてみたり、ラップ調にしてみたり、歌謡ショー的にしてみたり、多様式的に取り組むという上演だった。だから、藤原さんのこういう感想になるのだろうと思う。

基本的に、テキストの物語的な構造(起承転結)は生かしながら、最低限「筋」をはっきりさせることを優先して細部を省略し、ドラマ的な構造に対してはむしろ一貫させないで、その場その場でテキストの可能性を試してみせるようなことをしていたと思う。

出演者も、それぞればらばらな衣装を着ていて、フォーマルっぽいドレスだったり、スーツだったり、和装だったり、カジュアルだったりする。そこで、テキストや役とのズレができたりする。

パフォーマンスにおいて、テキストが描くドラマと平行するように別のドラマが併置される演出もあった。「カラオケおじさん的な世界」というのは、一方で、歌謡ショー的にテキストが歌われたり、マイクで酔っ払った演説調に示されたりとか、それと平行して、スナック菓子を座り込んで食べていたりしていた。

そこで藤原さんに「教養」VS「俗」みたいな感じでアルトーのテキストやアルトーの歴史的文脈が教養の側におかれてしまったことは、皮肉であって(アルトー自身がそういう対立を崩そうとしただろうから)しかし、これは、企画者の姿勢そのものを反映したものでもあっただろう。やはり、アルトー的な理念への憧れを、歴史におけるアルトーを振り返るようにして伝えようとすれば、それは、結局、教養でしかありえない。

*あとひとつ思ったのは、杉原邦生演出の『14歳の国』にすごく近いものを感じた。

共通点があるとすれば、テキストのリテラルな上演に対して注釈的に別のフィジカルなパフォーマンスが介入するところだろうか。

しかし、『14歳の国』においては、パフォーマティブな介入が批評として意味があったのに対して、今回の上演においては、それは、恣意的な撹乱でしかなかったようにも思う。つまり、演出家自身が、上演の意義を掴みかねていて、テキストの表層に対していろいろと戯れてみたということで、演出家自身がわからなかった、ということを正直に上演したから藤原さんにもわからなかったという感想が伝わったということなのだろうと思う。

演出家の意匠はあれこれバラエティに富んだしかたで見せてもらったが、アルトーのテキストである必然性は無かったということだ。

アルトーのチェンチ一族の上演自体が普通「失敗」と言われるわけだけど、その失敗を別の仕方で上書きしてるみたいだ。

*現代において、普通に朗読をする/聞く、ということはやっぱりありえないのだろうなと思う。その、テキストへの不信感のようなものはなにか? 言葉の問題なのか。テーマの問題なのか。空間(環境)の問題なのか。

最近鴨下信一さんの本とか読んだりしてますが、テキストの音楽性を演劇的に引き出す演出をできる人がいないという問題だとも思う。岸井さんの「文(かきことば)」もまた、逆説的な仕方ではあるが、音楽性をテキストから引き出す一つの方法ではあろうけど。

若手の演出家がリーディング公演すると声以外の要素に走りがちなのも、そういう問題かと思う。

江藤淳がイギリスとかで観劇して、音楽性に酔いしれるみたいなことが、日本でありえないのは何故かといえば、七五調的あるいは漢文朗誦的に成り立っていた日本語の音の世界を近代劇的な音の世界がうまく受け継げなかったし、批判はしてもそれ以上のものは作れなかったから、ではないかと思う。

でも、短歌がらみの朗読会とかに行くと、良い朗読というのもあるので、「ありえない」という藤原さんの断定は、狭い領域に限定されるものだと思う。

おそらく、新劇的な雄弁調の朗読を意識されているのだろう。それこそ、白石加代子の朗読とか?が受け入れられないということか。

では、古川日出男の朗読とか吉増剛三の朗読とかは、どう評価するのか。たぶん、演劇っぽくないものとして、良い朗読がイメージされる気はする。

*なぜだかめっちゃリラックスして観た。率直に言ってこの日はとても楽しかった。

たぶん、アルトー的に自由な空間にしようという企画者側の意図というのも反映されていたのだろうと思う。たとえば、カフェみたいにテーブル付きで客席が配置されていたりしたのも大きい。飲みながら見てください、という感じ。

企画趣旨から言って、twitterでライブ中継しても可だよな、と思わせるところがあった。