王子小劇場「夕鶴」リーディング

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の企画を見に行ってきた。

小劇場が新作戯曲を公募して上演を後押しするっていうのもすばらしい企画だけれど、そこで評価された作品がリーディング公演という形で上演されるのも興味深いわけで。

スローライダーって見たことなくて、ひょっとしたらこれから先もなんとなく見ないままかもしれないともおもうけど、山中隆次郎さんによる演出は、なかなかそつなく巧妙なものだった。

戯曲が設定している風俗店の楽屋というか「控え室」風なセットが簡単に組まれていて、そのうしろにリーディング用の席があって、でも、その前のセットでも演技が部分的に進行していったりする。

テキストの上演が複数のレベルでずれながら進行する仕掛けになっていて、セリフだけが演技される水準と、リーディング席に座ったパフォーマーによって演じられるセリフにかぶせてセットに立った別のパフォーマーが無言でその場面を再現する場面もあれば、元店長の母親が語るパートがそうだったのだけど、セットの中で声を出して演技をしている場合もあるし、一言だけセットで演技してみせるような場合もあった。リーディングの席に、ロッテリアのドリンクがまわされたりもして、リーディングのスペースも再現的な演技の空間に侵食されたりもする。

そうしたなかで、言葉と所作や存在が場面においてどう機能するかが様々に計られる。

そうした興味深い(まあ、斬新ではないにしても、巧みではある)実験によって浮かび上がったのは、戯曲の魅力である以上に限界ではなかったのかとも思う。

この戯曲はト書きが過剰になっていて、表面的な場面には現れないドラマが設定として説明されていたりする。あるいは感情の動きがト書き的に書かれている。

多分、ト書きを十分効果的かつ忠実に上演するには、かなりの演技力というか演出力というかが必要となるはずで、その点では上演がかなり難しい戯曲なのだろうなあということが、リーディングからうかがえた。

今回のリーディング上演では、ト書きの一部が選ばれて声に出されていたのだけれど、それは設定的な部分ははぶいて、行動の説明の部分、人の出入りだとか、そういう点を主に選んでいたようだ。

戯曲の上演というよりも、上演台本を、台本として上演した、という感じ。あくまで、台本が舞台の上にあらわれたような感触を生んでいて、それはひとつ演出としては成功だったのだろうと思う。

で、戯曲の限界というのは、会話の運びの細部にはリアリティがあるのにたいして、人物の行動にはほとんどリアリティが無いということだ。

たとえば、元店長が店にもどってくる必然性がぜんぜんないし、母親の行動も説得力がない。ただ、プロットとして要請されているものを会話の細部のリアリティでつなごうとしているだけにみえる。

アフタートークでも、会話の細部のリアリティにたいするこだわりが、当日参加した若い演劇人の間でこ共有されているようで、たぶん、そういうのは平田オリザが切り開いた地平が意識しようがしまいが若い演劇人にとっては制度的に働いているというか、感受性を規定しているのだろうと思うけれど、あるいは、若い演劇人がそもそも持っていた感受性が演劇に根拠を見出せるような装置として働いているのだとおもうのだけれど、そうした「現代口語演劇」的パラダイムみたいなものが、平田オリザではまだしも強力に舞台をドライブさせていたドラマの骨格に対する認識を無効にさせて単に会話の場だけ、ドラマをやりすごす会話のうわべのディテールにとらわれてたわむれてそれでそれが演劇だということになって終わってしまうようにさせているのではないかというような感じを今回の公演の企画に立ち会って私は抱いた。



話をちょっと戻すと、元店長の母役を年齢が上の役者さんが演じていて、若手の劇団だとそういう年上の人が出ること自体が難しいことなわけで、劇場のプロデュースだからこそこの配役が実現したのだろうと思うけれど、それはとてもよかったと思うし、世代の隔たりみたいなものが、リーディングスペースとセットに分裂して上演されたのも、なかなかうまかったと思う。ドラマ的な水準のリアリティーがドラマをやり過ごす会話の中に対置されていたみたいだ、と思う。

(06・5・10 一部削除)