神の裁きと決別するために/管見『コンプレックスドラゴンズ』++−

The end of company またの名を、ジエン社の、『コンプレックスドラゴンズ』という舞台作品を見た。
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これまでまったく噂にも聞いたことがなく、何も知らなかったこの劇団を見に行ってみようと思ったのは、文庫本の表紙カバーを模したチラシのデザインが秀逸だったのと、次のような宣伝文句が書かれていたのが気になったからだった。

 すでに敷かれている現代口語演劇の轍を(いやいやながら仕方なく)踏みながら、いつかそこから逸脱して「やる気なく存在し続ける現在」を、演劇ならではのやり方で出現させてみようと模索している。
The end of company ジエン社 | 演劇・ミュージカル等のクチコミ&チケット予約★CoRich舞台芸術!

何かコンセプト的に面白いことを見せてくれるのかなとおもって行ってみたら、一見したところただの良くできた近代演劇だった。まじめに丁寧に作られた普通に面白い舞台だったので好感をもって楽しんだのだけど、チラシの宣伝文句に見えるある種投げやりですこし挑発的なポーズから考えると、あまりにストレートすぎる作風だ。しかしその落差において、いろいろ症候的なものが垣間見えると感じた。
いずれにせよ、この舞台作品にもまた、東京を中心とした現代演劇において今起きているひとつの大きな転回と屈曲の一面が先鋭に示されているだろう。それは、まさしく「現代口語演劇」とは何であったのか、そして何をもたらしたのか、という問に触れる事柄だ。そういう観点から、ちょっとばかり注解してみたい。今後再演されることになるかどうか知らないが、作品の終わり方について徹底的に描写するのでそのつもりで読んで欲しい。
あと話の都合上アニメ『東のエデン』のテレビシリーズの終わり方について触れるので、これから見る予定であって事前に情報を得たくない人は、関連する節は読まないほうがいい。

虚実皮膜

劇場に入ると、プレハブ倉庫の隅につくられた薄汚れて雑然とした事務所らしい空間が、現実感たっぷりに作られている。まずその手間もお金もかけただろう事務所の見事に現実的な再現ぶりにすこし驚く*1。ここまで作りこむ意味がある舞台なのかという疑問を抱きつつ見ていたが、作りこむ意義はある作品だっただろう。

すでに、客入れの段階で、幼い風情の女の子(萱怜子)が事務所の片隅の、雑魚寝できるような畳敷きの場所にうつぶせに寝転がり音楽を聞きながらマンガを読んでいたりして、そこに薄地のジャンパー風の上着を着た事務員っぽいなりの女(アラブという名の女優)がドアから入ってきて「音を小さくしてっていったでしょ」みたいな演技をしてみせたりする。客席からは後ろしか見えないテレビの音声でニュースのナレーターが何か言っていたかとおもうと、それが「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスになっていたりする。この舞台では、開演を告げる挨拶もあいまいな仕方で再現的な舞台の虚構の文法のなかに織り交ぜられていて、いつのまにかすでに始まるまでもなくそこにある舞台のうえに出来事がずるずると起きていってそれは本筋に入っていくといった風だ。
形式的にはまるで虚構と現実を枠付ける境目が無いかのような処理がなされている。それは、手持ちの資産と技術を持ち寄って、虚構の外面を現実らしいもの、現実と地続きのものにすることに、全力が尽くされているということだ。
そして、そもそもが虚構として提示されているその「現実と虚構の連続」に上乗せするように、虚構としてさらに現実と虚構の新たな断絶を重ねて仕込んでいくことが、作者の戦略として選ばれている。そこに、作者にとって演劇がどのようなものとして理解されているのかが示されている。

舞台設定

物語の背景には、次のような設定があるとチラシなどで事前に示されている。

天才芸人・孔子大先生は80年代を一瞬で生きた。そのマニアックな芸風は一般には受け入れられず、職業芸人としてついに成功する事はなかった。
95年の阪神淡路大震災を契機に思想家に転じ、ポスト・ポストモダニズムの旗手として独自の哲学を展開。言動や講演記録が彼を取り巻く弟子たちによって『論語』と称され編纂されたが、そのマニアックな思想体系は一般には受け入れられず、ブームが過ぎると多くの弟子が彼の元から去っていき、残った弟子たちは全員やる気がなかった。
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孔子と80年代を重ね合わせることの意味については後で触れるが、ここで重要なのは、舞台の上で流れる時間に先立つ過去がひとつの世界として綿密に設定されていることの演出上の効果だ。
それぞれのキャラクターが舞台空間に現れるまでの過去もまたその枠のなかで細かく設定されていることが当日パンフレットの登場人物紹介からもうかがわれるが、それらの設定からのシミュレーションのようにして、それぞれの役者が綿密に「役作り」をすることができ、そして、舞台上でその役柄の今を想像できる範囲で丁寧に生きることができるように作品が構築されている。そのようにして、舞台が構成されていたというのは、あたりまえのことだが近代的なリアリズム演劇の有力な作法が踏襲されているということだ。

そのようにして、舞台となっている事務所とそこに出入りしている人物の群像劇が展開することになるが、その状況は次のように設定されている。

現在は活動拠点を東京から郊外へと移し、弟子たちとともに地域の餅つき大会等のイベントに積極的に関わるボランティア集団として、あるいはお笑い芸人養成私塾として、あるいは草野球チーム「コンプレックスドラゴンズ」として、手ごたえのない日常を過ごしていた。
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こうした設定自体、宮藤官九郎のドラマが描く地元志向の擬似共同性を参照しているようであり、作者は宇野常寛による宮藤官九郎評価なども織り込み済みのこととして、虚構しているのだろうとうかがえる。
そうした、すでに種も仕掛けも明らかにされている設定をあえて使うこと自体が、しかし、ある種シニカルとも言えるような問題意識において選ばれたものであるらしいことが、自己言及的な舞台の進行において明らかになる。

舞台上で展開するのはおよそ次のようなこと。

明日は久々の練習試合を控え準備を進めていたが、くしくもその日、二発のミサイルが沖縄と佐世保に命中し、戦争が始まっていた。
沖縄へ単身向かっていた孔子大先生の生死は不明のまま、残された弟子達は、このまま野球の準備をするべきか、それとも何かすべきか、そもそもするべき何かなど、あったのかどうか、ぼんやりしているうちに時間は過ぎていった。
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ミサイルが打ち込まれた混乱を伝え続けているテレビがつけっぱなしになっている。ミサイルが何者によって打ち込まれたものなのかは不明のままで、それは話題にもならない。テレビは壊れかけていることになっていて、叩くと音が出るという演技が何度かなされる。音声が客席にも聞こえるのはごく限られた場面においてだが、その音声は極めて巧みに報道アナウンサーの調子を模倣したものになっている*2

「不条理劇」

論語』が80年代の天才芸人・孔子先生の思想をまとめた本とされていたり、日本がミサイル攻撃されていたりする作品の背景となっている事柄が現実離れしていることを除けば、舞台の上で起きることはどこまでも現実的なできごとに見える範囲に仮構されている。しかし、その現実感の枠組みの中にぴったりと納まるようにして展開されるのはある種の「不条理劇」であると言える*3

舞台展開の前半において基調となるのは、メカルという名の女の子(北川未来)が示すある種の不審な挙動だ。この女の子は、野球に参加する人員が足りないので誰でもいいから連れてきてといわれた若手芸人のひとりが「ナンパ」してきた女の子で、当日配られたパンフレットでは「人とコミュニケーションができないといい、人と話すことがもうないという。おしゃれには気を遣ってきたはずだが、気を遣っていると思われたくないと思っているうちに混乱し、現在のような感じになった。」とその設定が紹介されている。
服装はそれほどエキセントリックでもなかったけれど、髪型はアンバランスに三つか四つほど結んだ髪がてんでバラバラな向きに突き出ている風で、おどおどと緊張したような雰囲気を漂わせている。まあ、鳥居みゆきを一見おとなしくしたようなキャラクターと言ったら雰囲気がつたわるだろうか。舞台前半をひっぱるのは、いきなり知らない事務所に連れ込まれたメカルの挙動不審さだったので、そこを一貫して演じて見せた北川未来の演技は人物の造形として見事に成立していたと賞賛すべきだろう。
芸能事務所として様々な人が出入りするので、メカルは、そこにいる誰からもどんな人なのか理解されていないのに、居ても居なくてもよいように遇されていて、そのことにとまどいながら、どうしたらよいかわからないように心細げに立ち尽くし、何か問いかけたりしようとしても間が合わず言い出せない。突飛に「私はメカルです」と全員に向かって声をあげたりすると、それが突飛すぎてスルーされてしまう。そのうち、メカルを事務所につれてきた若手芸人:小池くん(松原一郎)もなんとなく他の仲間と外に出て行って帰ってこない。他の人が出て行くのにあわせて事務所から出ようとすると、前の人にドアを閉められてしまい、出ることができない。

そのあとのメカルをめぐる展開は次のようなものだ*4
帰るに帰れないまま何かしなければという思いに駆られている風にして事務所にいたメカルは、梨を剥くことをひきうけて舞台奥に退場したかと思うと、しばらくして包丁を立てるように手に握り締めて緊張した風に舞台にもどってくる。梨の剥き方がわからないようだ。しかし、その場にいた誰も、驚きもせず目にもはいらない風にふるまう。「包丁しまったら」といった声をかける人は居ないではないが、包丁を握って立ち尽くしていることは別にどちらでも良いといった感じにあしらわれたメカルは「どうしたらいいか聞いてくる」という風に、包丁を手にしたまま事務所の外に出て行く。

しばらくたったあと、次にメカルが舞台に入場してくるときには、そのときもまた手に包丁をにぎりしめたままなのだが、その包丁は血まみれであり、事務所のマネージャーをしている笑岡(エムオカと読む;伊神忠聡)が、何かのきっかけでメカルに刺されたため、血に染まったシャツの下腹部をおさえて事務所に戻ってくる。なぜ刺されたのかの詳細は舞台上では語られない。笑岡は「救急車など呼ばなくてもいい、たいしたことない」と言いながら、しかし血をたらしたまま、ベンチに横たわっていたりする。メカルも「もうごめんなさいってあやまったからこれはもう済んだことです」といって、血塗られた包丁をもったまま事務所のなかに居て、そしてメカルのふるった暴力を誰も問い詰めたりしない。

このような、無理やりつれてこられたメカルの挙動不審がエスカレートしていくいわば不条理な展開が、まるで当たり前のことのようにスルーされていくことで、戦争がおきていること自体をスルーし続けるその事務所自体の状況が不条理であるということがわかりやすく説明されていく*5

その説明が際立つのは、メカル自身が「ここにいるみんながギリギリで心が壊れているのにいっしょにいる。なんかわたしここに溶け込んでいる」と言って事務所の椅子に包丁を持ったまま座る場面だ。異質で挙動不審で意味も無くつれてこられたメカルがそこに居心地の良さを見出して溶け込んでしまうことが寓意的に説明するのは、それぞれ異質で不審である存在が特に意味も無くなんとなく同じ場所にいるのが、その事務所だった、ということだ。それ以降、怪我をしたままの笑岡と、包丁をもったままのメカルが、しばらくその事務所にいるという状況が続くこと自体が、不条理を全面化しているといえる。そしてそれが、日本社会の不条理さを表象しているということになるのだろう。

周囲の指示に機械的に従おうとしていて、しかし突発的に暴力的に振る舞い、受苦的でありながら、その状況を自ら正当化しているといったように特徴付けられるメカルの造形は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』に登場するラッキーになぞらえることができる*6。ラッキーのより現実的で、より暴力が安易になされるようなバリエーションとして。

そして、最大限好意的に評価するなら、ベケットの『ゴドー』が、破滅した世界を寓意的にあらわすものとして、ある舞台を、舞台にほかならないものとして自己言及的に茶化しながら、しかし、木の生えた道端と指定して現実感のある場所にしつらえ、一定の時間の幅のなかに起きる出来事としてすべてを造形しているのに通じるような構成原理が、ある面で、この『コンプレックスドラゴンズ』にも貫かれていたと言う事もできるかもしれない*7

三単一の法則

平田オリザが徹底した現代口語演劇的な様式は、ある場所に出入りする人々の淡々とした何気ない会話からある象徴的な状況を描いていくというものだ。その様式において、狭い人々の関わりの案外複雑な相関関係から、ある社会の全体が寓意的に描かれることになる。
さて、平田オリザの多くの戯曲は、日常的なある場所、多くは待合室だったり、美術館のロビーだったりするような、人が息抜き立ち寄るような場所で、ある一定の時間においておきる出来事から人々の関わり合いを示すという仕方においてなりたっている。
このいわば古典的な様式は、フランス古典劇で定式化された三一致の法則に従う様式のひとつの応用として位置付けることができるし、それ以上に何か画期的というわけでもない*8
Wikipedia:三一致の法則
こうした古典的な演劇の理念は、演劇の可能性のほんの一部でしかないが、演劇史的に、すでに古典化されている手堅さがあり、恣意性を排除する枠として、作品を緊張のあるものとして仕立てるための枠組みにはなる。問題は、どのようにして、今更そのような古典的な様式が選ばれなければならないのか、という、その理由である。

近代演劇の縮小再生産

平田オリザの演劇様式自体、近代演劇*9を低コストで完成させるための経済的な要請に基づいて成り立ったものだということができるだろう。
とりたてて高い演技力がなくても、ある種の丁寧さと知性があれば、身近な人物の自然な振る舞いを、ある種の擬似的なコミュニケーション状態として、舞台上に再現してみせることができる。
その意味で、平田オリザの演劇様式は若くて資産も乏しく経験も浅い役者が、無理をしないで一定レベルの達成を実現しやすく、身近な社会問題や生活感情をテーマにしてみせることが容易であるような様式となっている。そして、あらかじめそのような様式を採用する正当化は、平田オリザによって権威付けられ論拠も用意されていている。そのように考えると、現代口語演劇に追随する若手が後を絶たなかったこと、そして、当面、主要な様式のひとつとして現代口語演劇風のものが残るであろうことは疑いのないことに思える。
さて、ひとことで言ってしまえば、そのような現代口語演劇とは、近代演劇の縮小再生産であり、そのつつましい限定のひとつにすぎない。その限りにおいて、現代口語演劇の達成を事実として、そこから出発する後発世代によるバリエーションが、近代演劇史の反復のようにして展開されるのも不可解ではないし、それは平田オリザへの正当な反動であるといえる。
『コンプレックスドラゴンズ』の上演が、現代口語演劇の様式的な枠組みを模範にしてみせながら、その枠の中に、近代演劇史の展開を参照するように不条理劇を収めてみせたことは、現代口語演劇の批判的継承として、ありうる一つの方法であったように見える。ただそれは、それ自体としては、現代口語演劇の不徹底な脱構築のようなものでしかないようにも思える。つまり、その営みのすべてが近代演劇の縮小再生産というプログラムの中に納まっている。
日本で近代演劇を行うという、新劇やアングラが行った荒唐無稽な冒険の方が、より強い潜勢力を持っていたはずだ。演劇史的にその意義を正しく振り返っておかなければ、現代口語演劇の継承は、近代演劇のさらなる縮小再生産に終わるしかないだろう*10
「すでに敷かれている現代口語演劇の轍を(いやいやながら仕方なく)」踏むということを演劇史的な遠近法のうちに位置付ければ、以上のように素描できるだろうし、そのわだちからの逸脱として語られることもまた、この枠のなかであらかじめ解釈することができる。

第四の壁に寄りかかって

「第四の壁」というと、ある室内でおきる出来事を現実的に再現する類の近代的な演劇において、三つの壁を写実的に再現したうえで、もう一つの壁が、客席と舞台の間に透明なものとして立っているとみなす、というひとつの約束事のようなものを示す言葉だ。
Wikipedia:第四の壁
こうした約束事を、『コンプレックスドラゴンズ』も、逆説的な仕方で活用していた。それが極まるのは、客席に背を向けたモノローグという形においてだ。
この上演作品で、アリガという女優(山本美緒)と、いろいろ煮詰まった挙句に女装して女芸人とコンビを組んでいるアオガクという芸人(柿沼大輝)のカップルが、対照的な仕方で、この作品のテーマの中心に関わるようなモノローグを、客席に背を向けて行っている。

女優のモノローグは次のように示される。初めて対面した少女(萱怜子)から「芝居臭い話し方するのやめてください」と指摘された後に、いかにも芝居臭いわざとらしい演技しかできず才能に欠けると演出家から駄目出しされたことを回想しながら、女優がメランコリックに、客席に背を向けて、前にゆっくりと進みながら、語ってみせる。この歩みのリズムは、巧みに、「私まみれ」な自分の限界を自覚しながら芸能界の片隅で活動を続ける心細さや捨てきれない迷いがゆれるコンプレックス(葛藤的)な心情を造形している。ここで芝居臭い演技の演技と、そうした人物が垣間見せる心情とを演じきってみせた山本美緒は賞賛に値するだろう。

ここで示された女優のモノローグは、チラシなどで事前に示された次のような詩のようなものに正確に対応しているだろう。

こんな強い雨、服の下までどしゃ降りまみれの、
そう古くはない昔の、コンプレックスまみれの、
あたしまで、あたしまみれの、

さて、ある種の近代的な演劇において、たとえばハムレットの独白が客席に向かってなされるような演出があるだろうし、チェーホフの戯曲でも、フットライト(脚光)の近くまで前に出て客席に向かって独白を語るようにト書きで指示されていることがある。
この上演作品における客席に背を向けたモノローグは、その部屋に居る別人に向けた語りとして舞台という虚構の中に位置を得ているのだが、あからさまに客席に背を向けるという演出において、独白という様式を現代口語演劇の枠の中に収めることに成功している。
ある意味では、その点で、現代口語演劇という様式を内側から補完することによってその様式的な限界を正確に指示しているともいえる。

そうした意図は、アオガクのモノローグにおいてさらに明確化される。売れない芸人のアオガクは、売れない女優のアリガとの間に実らなかった恋愛感情を交し合っていたらしい。そのアリガは、水着撮影の仕事から逃避してこの事務所に来ていたらしいことが後に示唆されるのだが、そのアリガが芸能界にぶら下がり続けるためのとりあえずの仕事に向かうとき、事務所を立ち去る前に、一度アオガクの今の芸を見たいと頼む。

その言葉に対して、女装芸人として売り出そうとしている現在の自分のイタい持ち芸を個人的に感情を交し合った彼女に披露することができないことを自覚したアオガクは、もう芸人をやめる、といって、芸人をやめる理由をその場に居合わせた人たちに対して、客席に背を向けて、第四の壁の場所に立って、語りはじめる。

そこで、スポットライトがアオガクを照らしはじめ、舞台はゆっくりと暗転して薄明かりのなかにぼんやりと沈んでゆき、それと反対に、舞台奥から客席に向けて仕込まれた照明がゆっくりと明度を増していき、客席が舞台よりも明るくなっていく。

ここで、現代口語演劇の約束事は二重のしかたで反転されている。スポットライトという劇場の制度をあからさまに示し、虚構の中に俳優を特権化する操作は平田オリザの標準的な「現代口語演劇」の様式においては基本的に排除されていたし、舞台に観客が対面しているという事実が舞台表象よりも前景化するということもまた、「現代口語演劇」の基本様式ではありえないことだったのだから。

形式的には、このように照明の操作で第四の壁を反転させることで、いわば現代口語演劇からの意図的な逸脱として演出されているこのモノローグは、内容的にもまた、観客を照らし出し前景化するものとなっている。
というのも、アオガクが芸人をやめたいと思う理由は、観客もまた、決まりきったお約束のなかで楽しんでいるだけであり、そんな観客を相手にお笑い芸人を続けることがバカらしくなった、というような内容だったからだ。そしてこれは、作者自身を代弁する独白でもあるのだろう。その点でもまた、現代口語演劇の限界を、近代に向けて折り返すような作業が行われている。

おそらく、大雑把に言って日本の多くの戯曲は、対話を劇として成立させることができず、モノローグの連続になってしまうという欠陥を繰り返してきた。平田オリザが描いたセリフにその診断がどこまで当てはまるのかの検討は慎重になされるべきだろうが、こうした点でも、この舞台作品は、現代口語演劇の様式もまた、様式自体としては、日本の戯曲がくりかえした欠陥を無批判に繰り返すことを妨げるものではないという限界を持っていたということを、その限界を近代演劇に向けて折り返すという仕方で、示しているのではないかと思われた。

歴史的遠近法とセカイ系的想像力

孔子が80年代のお笑い芸人に擬せられている点について、最低限の注釈をつけておこう。この重ね合わせは、日本社会において、父や師となりえる存在が見当たらなくなっているように思われることを象徴的に示すために選ばれたのだろう。それは良いとして、問題は、そのことをあらわす仕方である。
この孔子と芸人のかさねあわせは、時間軸上において近景と遠景が短絡されている点で、空間軸上の中間項を消去して世界全体と卑近な現実を短絡してしまうセカイ系的な想像力と同じ機制の下にある*11
おそらく、「ポスト・ポストモダニズム」という言葉に関連付けるようにして孔子が参照される点で、たとえば呉智英浅羽通明のラインなども考慮されているのかもしれないが、おそらく、孔子はコミュニティの再興といった思想の最終的な論拠として、日本社会の道徳を再度根拠付ける起点として参照されているのだろうし、80年代的なお笑いがそこに短絡されるのは、現在の社会を空気のように覆っている気分の源として参照されているのだろうし、あるいは北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』なども踏まえられているのかもしれない。
さて、その重ねあわせが短絡に過ぎないと言う上で、簡単にこの作品が欠いている中間項を示しておくとすれば、ひとつには、儒教的なものは日本では限定的にしか受容されなかったこと*12、そして、80年代の神話を相対化するためには、むしろ70年代を参照すべきであることを指摘しておこう*13
あるいは「大きな物語の失墜」という風に語られもする、父/師となりえるものの不在がテーマとなりうるとしても、それを歴史的遠近法の短絡的な錯覚でイメージすることは、それをテーマとして扱ったことにはならない。そして、おそらく作者はそんなことをしようとしてはいない。
そうした短絡を作者があえて選んだことは、そのことによって問題を問題とすることの困難な条件を指し示したかったのだという風に解釈できるのかもしれない。おそらく、セカイ系的な想像力の働き方が、現代社会の条件をダイレクトに反映しているように、歴史的遠近法における短絡も、ある種不可避な選択として作者には意識されているのかもしれない*14。しかし、それは、それ以外の選択の余地がないような選択ではないということについて、作者がどれだけ自覚的だったのか、疑う余地がある。

世代論という危機の危機

そうした時間軸が短絡される遠近法においてこの作品で描かれるものを世代論として解釈し直してみることができる。
孔子の古株の弟子、参さん(岡野康弘)と、19歳にして孔子の担当編集者をしている葛西(藤村和樹)、そして、芸人志望として事務所にいるアラタ(寺内淳志)などの年齢差のある人物同士の関係の描写は、世代間の関係、ないし断絶、として描かれている。
たとえば、葛西は上の世代の煮え切らない態度を見て、「そんなことやめてしまえ」と放言して見せたりする、そうした敵意を隠さない人物として造形されている。あるいは、芸人をやめたいというアラタに参さんが説教をする場面では、アラタは参の話を聞き終える前に、説教をされているという空気を読んで、「じゃあ芸人やめません」と言い放つような、あらかじめ関係が深まることを遮断することで表面的な関係を保つような行動類型を示す、今風の若者として誇張されて造形されている。また、参さんの方は、そうしたアラタに「そうやって狭い壁をつくって閉じこもっていないで、こっちがわにこいよ」という風に怒鳴ってみせるような、ある種の古い道徳観を後輩に押し付けるような人物として描かれている*15
今、40歳も間近の私からすれば、こうした世代間の確執の描写については、20代半ばからみると、世の中はこんな感じで見えているのか、といった興味以上のものはなかった。作者も、単に断絶を断絶として当たり前のこととして描きたかっただけだろう。そこでいくつか、表面上ドラマチックなことが舞台で起きるのも、お約束という以上のことではなかったかもしれない。だから、そうした人間関係の描写について細かく注釈することは、それなりに意義はあるかもしれないが、ここでは差し控えておく。
ただ、こうした世代論への眼差しが強迫的に前景化されていること自体が、現在の批評のモードへの参照になっており、それらの批評と問題を共有しているという点だけを指摘しておきたい。
東浩紀の『動物化するポストモダン』や、東が用意した枠の中で東浩紀批判という形をとって東と馴れ合ってみせた宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』が、強迫的に世代論を反復していたことを思い起こした上で、さらに一般的に考えると、これらの世代論は、そろそろ世代論自体が成り立たなくなるという、「世代論の危機」の表現であったといえるだろう*16
そして、世代論自体が、明治維新という内戦の経験から、第二次大戦に至る対外的な戦争、そして、ベトナム戦争をはじめ冷戦下でのさまざまな紛争と関連していた学生運動などが、年齢差において決定的に別の仕方で経験されたこと、そして、そのことにおいて年齢を異にする集団が集団として分節されていた事実の反映でありその表現であったことを思い起こそう。世代論とは、戦争経験の相違についての表現であり、その意味で危機的なものの表現にほかならなかった。
この舞台作品において、世代差が描かれること自体が、わりとどうでもいい諍いの中に還元されていたように見える。その点で、世代論そのものの危機を反映する舞台になってしまっていたといっても良いだろう。それを、世代論に表されるようにして経験されていた世界感覚や世界史の感覚が失われていくことへの注釈とみなすことができる。その意味で、孔子の不在は、ある決定的な不在、日本的な近代化の過程を身をもって生きた人々がひとり、またひとりと鬼籍に入りつつあることをあらわしているとも言える*17



東のエデンの東

誰のものからともわからない突然のミサイル攻撃というモチーフは、アニメ作品『東のエデン』の物語展開を想起させる。テレビ版『東のエデン』では、ヒーローとヒロインのボーイミーツガールの物語が展開するなかでミサイル攻撃による最終的な破局は阻止されるのだが*18、『コンプレックスドラゴンズ』では、ミサイル攻撃がエスカレートして東京は壊滅してしまい、埼玉にあるこの芸能事務所も崩壊してしまうらしいことを示唆して舞台は終わる。
そこで、日頃小学生のふりをしてこの事務所に入り浸って暇をつぶしていて、座敷わらしっぽいので「座敷」と呼ばれているらしいという設定の女の子(萱怜子)とアラタ(寺内淳志)との会話が終幕において提示されたことは、『東のエデン』に対する批判的注釈となりえているのではないかと思う*19
そこで「座敷」が、ゆっくりとつま先を手前の床に伸ばす仕草を繰り返しながらゆっくりと進みつつ、アラタと会話する場面はとても美しかった。ここでふたりが言葉を交わすのが、この舞台作品で唯一、対話として成り立っていると言える場面だった。
別にその対話を通じて、何か問題が解決されるわけではないが、お互いがどういう問題を抱えているのかということは、互いに理解されている。ここには、言葉の正しい意味での出会いが、萌芽的な姿ではあれ、描かれていたように思う*20。もちろん、そんな出会いにミサイル攻撃をとどめる力はないのだが、ミサイルが降りそそぐ町に出て行くことはできる、これはそうした出会いの萌芽的な姿なのかもしれない。
外に出ようと約束しあって終わる対話のあと、アラタは先に事務所の外に出る。小学生のふりをするしかない女の子は、「相対性理論」の曲を聞き終わったら外に出るよ、と言って、部屋に残っている。すると、部屋の外から爆発音がひびいてきて、事務所の窓が炎に照らされる。「相対性理論」の曲は響き続け、照明が溶暗していく。そしてテレビの画面の光は白く少女の近くを照らし出し、アナウンサーがカタストロフィックな情景をヒステリックに伝えようとする声が大きく響きわたるなか、完全暗転して、全てが終わる。
そうしたエンディングの処理は、極めてセンチメンタルな仕方で黙示録的な想像力の図式に舞台を雪崩れ込ませている。その点で、この処理は、終幕間際に垣間見えた対話の可能性を打ち消し、潰えさせてしまっているだけのように見えた。
それは、むしろ大災厄を描く映像作品の語法を舞台に借りてきただけのことであり、この先には演劇の可能性は残されていないだろう。もちろん、それが十分に自覚的に提示されていたのだとしても、そういう風に、それが演劇の限界であるようにあえて示して観客を逆説的に挑発してみせることには何の可能性も残されていない。それは実際は演劇自体の終わりなどではなく、もはやお約束に過ぎない終わらせ方のわかりきった効果を客席と共有するだけに過ぎないという意味で、ただの観客との馴れ合いにすぎない*21


さて最後に注釈すべきことがふたつ残っている。それは、どちらも近代演劇に対してどのような批判的視座を持つことができるか、という論点にかかわっている。

子不語怪力乱神

ひとつは竜に関するモチーフ。これは、孔子が「怪力乱神を語らず」と言われていることに関わるのだろう。アラタが川の神としての竜をみた、と参さんに語る場面があって、竜が水神として語られる点で、それは近代が見失ったものへの回顧になっている*22
この竜への言及は、様式的には、平田オリザの劇作において、しばしば舞台の外で目撃される奇妙な物や事態への言及がなされることと同じであり、「現代口語演劇」の枠のなかにぴったり収まっている*23

一方でこの竜のモチーフが、作者によって内向きに幾重にも折り重なるような自意識と重なるものとしてもイメージされていたことは、チラシなどであらかじめ詩のようなものが観客に提示されていたことからも伺える。

私の中の私が
何重にも折り重なって火を吹いて
ああでもきっとこれは、竜だ

しかし、この重層的な竜のイメージは、舞台上では十分に展開されない。

舞台上ではただアラタが川でみた幻としてすこし触れられるだけで、モチーフの提示の仕方としてはあまりに唐突だ。竜のイメージは、すこし安易に説明的すぎるような仕方で、戯曲の全体に添え物のように加えられているだけであり、それ自体として十分に展開されたとはいえないだろう*24

この点では、作品の重要なモチーフとは一見関わらないような異変を示唆する平田戯曲の方が洗練されている。竜のイメージを、そこで戯曲自体の中心テーマに関わるモチーフとして、あえて作品の周縁でしかしあからさまに示してみせることは現代口語演劇からの単なる踏み外しでしかなく、近代への折り返しは、ここでもやはり縮小再生産のサイクルのなかに収まっていたと思う。

ただし、この作品の複雑な構成と、過剰なほど詰め込まれた内容の多さを考えると、このような処理は未完結感を残すものではあるが、そんなモチーフが解釈の誘導として周辺におかれる程度で作品は十分成り立っていたともいえる*25

そうだとして、近代的な自我とその自意識が反省において無限退行することを、近代をはみでるものと結びつけようとする竜のモチーフは、十分テーマに至るまで掘り下げられて造形されていたならば、作品自体の構成を根底から覆すことができる可能性を秘めていたもののようにも思える。

神の裁きと決別するために

もう一点は、モノローグの前に芸を放棄したアオガクの代わりとして、参さんに命じられて芸を披露するアラタの場面だ。この場面は、他のモノローグと同様に、客席を背にした一人芝居として、舞台上で居合わせる人物に向けて演じられる。

それは、「神の裁きを受けるドラえもん」と「神の裁きを受けるコロ助」といった、同じシリーズのショートコント的なものを二回繰り返すという仕方で示される。

このネタは、床にひざまずいて両手の指を人形のように動かしながらか細い裏声で「ドラえもん」や「キテレツ大百科」の一場面をパロディとして演じて見せた上で、唐突にその場面を断ち切るように立ち上がり、「滅びろ!滅びろ!」と叫びながら、さっきまで指で演じていた小さな世界をヒステリックに踏み潰してみせる、というものだ。

この一種の劇中劇が、ミサイル攻撃に晒されている舞台の作品世界全体を入れ子状に反復していることは明白だ。これはつまり、ハムレットの劇中劇がハムレットの心情を代弁してみせるものだったように、作者の作為を導くものが代弁されているということなのだろう。
いわゆる無理にシュールな笑いがすべるイタさにおいて、なにか生きることの本質的な困難を直に示してしまうような事態にオマージュをささげつつ、この劇中劇は、現代口語演劇の限界から近代的作家像を参照するという折り返し点に位置しているのであり、現代口語演劇が、作品を劇作家/演出家に帰着させるという意味で、近代演劇の縮小再生産であったことを、その限界において示しているのだろう。

もちろん、作品全体を背景において枠付けている、ミサイル攻撃が軍事的な危機の形で表象しているのは、現代の日本社会を覆っているある種のセキュリティ意識の高まりや、働くこと/働けないことをめぐる鬱屈した危機意識にも通じるような日常感覚そのものなのだろうし、今回の政権交代で示された民意においても、そうした危機意識が破壊願望のようなものを裏に含んでいたということもまた、ミサイル攻撃のイメージは言い表そうとしているのだろうけど、そうした作品の機制自体が、矮小な仕方で劇中劇としてあらかじめ代表されることで、作品全体が背景に描くような仕方で社会を表象してしまうことの限界はあらかじめ作品の中に書き込まれ、既に相対化されているのだろう。

そう解釈できるとして、しかしこのような構成は、あらかじめ自分で描いた閉域のなかに、作品を還元しただけのことのように思う。たしかにその外に立てるわけもない閉域の外に立ったつもりになる錯覚よりは、その閉域を自覚するほうが、より慎重な態度ではあるだろう。しかし、それを近代演劇という閉域の縮小再生産として示すことは、ただの安全策であり、あらかじめ作者としてふるまうことへの言い訳を担保する以上のことではない。

裁く神と想像的に自己同一化するようなしかたで、どうしようもない現実のどうしようもなさを定められたものとして受け入れるとしても、それは結局作家性を自意識のなかに折りたたんでみせる以上のことではないことは、作品自体の構成が十分示していることだろう。
ある種の破滅が避けがたいとしても、破滅は断罪ではないし、破滅は終末でも目的でもない。そしてさらに、何かを破滅として表象すること自体の限界を矮小に相対化しておくこと自体が、正しい意味での危機の所在を隠蔽する表象をもたらすことにほかならないだろう。

ここで、今更のように唐突にアルトーの名前を参照してみせても仕方が無いのかもしれないけれど、近代的劇場という閉域を閉域として批判する試みが、もう一度思い返されても良いのかも知れないと思う。『ペストと劇場』の津野海太郎と共に、もう一度アルトーを読み直してみる余地は十分に残されているだろう*26

(以下略)

※関連リンク
作者本介インタビュー! - 左隣のインターフェース
http://www.geocities.jp/hacki_nen/ittave1.htm
第四回公演は終了いたしましてありがとう/本介さん: ジエン社社内報

*1:どれだけ綿密に事務所の空間が作られていたかすこし描写しておこう。正面の上部には薄汚れたスリガラスの窓があり、その真下に事務机が奥にふたつ。その上にはスケジュールを書き込むホワイトボードがあり、壁には注意書きや標語のようなものをとめたコルクボードのようなものも掛かっている。床はリノリウム調で下手奥には窓のはまった小汚いドア。その手前には一段高くなった畳敷きのような場所があり、そこに、カラーボックスを横に置いた本棚が壁際に置かれていたり、マンガなどが散らばっていたりする。客席に裏側を向けるようにテレビが置かれている。上手の隅には鉄パイプで組まれた棚に大きなダンボールが束のようにビニールに梱包されたものが固まりのように置かれていて、ダンボール箱も雑然と置かれている。その脇に、古びた革張りのソファーが正面向きにおかれ、その前にテーブル、それと向かい合って待合室などにありそうな、人工皮革かなにかで張られた三人掛けのベンチのようなものがある。

*2:911のテロのとき、院生として大学の寮に住んでいた私は、誰もが食堂のテレビを見ながらすこし興奮して話していたことを思い出す。そして、インターネットで情報を漁ったのも思い出す。この舞台において、携帯電話が前景化されず事務所の電話が使われていること、テレビを誰も注視しないこと、そしてインターネットが前景化されないことは、ひとつ注釈を加えるべきポイントかもしれない。簡単におもいつく結論を示しておけば、モバイル的実存とかネット的な主体の相互関係は、舞台自体において表象されてしまっているのであり、インターネットの空間が舞台全体に表象されているから、そこにあえてインターネットを表象するものを加える必要が感じられなかったということなのかもしれない。

*3:スーザン・ソンタグは「悲劇の死」(『反解釈』所収)において、「不条理の演劇」という、マーティン・エスリンが導入した用語について、いくつかの戯曲を不当にも一括する「恩着せがましいレッテル」と形容している。従って、ソンタグの見解に倣って言えばベケットの戯曲を「不条理劇」と呼ぶことは、一定の制約のもとにベケットの戯曲の可能性を狭く受け取ることにほかならない。ここでは、この上演作品がベケットを参照しているとして、それは、日本語において不条理劇という言葉が、通俗化しているその制度的限界の範囲のなかに収まる程度での参照に留まらざるをえないし、作者自身その範囲を出ようなどと思ってもいないだろうと考えられる限りで、「不条理劇」という貧しい言葉をあえて使うことにしたい。日本語では、不条理劇という言葉はその原典となるエスリンの著作への丁寧な参照を欠いたまま、通俗化している。というのも、原著は1980年に第三版が出ているのに対し、日本語では初版の訳が1968年に晶文社から刊行されてはいるが、その後版は改められず、絶版のままになっているからだ。浅田彰蓮実重彦も、不条理劇という言葉を無造作に使うことを厭わない点で、そうした通俗さをまぬがれていない。これらの鋭敏な批評家をして、通俗的な用語法に居直ることを許すほど演劇に関する知的反省は不十分な状態に放置されたままだったということを、あくまで演劇史的に回顧しておくべきだろう

*4:このあたりの展開は、記憶があいまいなので、ちょっと違うかもしれないが、まあ、こんな雰囲気の展開だったということが伝わればいいので、思いつくままに描写しておく。実際は、群像劇として、メカル以外の人の間でもいろいろな展開が進行している

*5:この戯曲の弱点を、ところどころで説明的なセリフがあからさまに説明的である点、その処理が若干不器用に見えるところにあると指摘できるかもしれないが、実質的にこの戯曲の展開はすべて設定の説明だけをしているということもできる。ある意味で、現実的な物語展開の中にすべてを収めるということはあらかじめ破綻することが予定されるわけだから、そうした準備的な説明が現実性において多少不徹底であったとしても、それは瑕疵であり、そうした細かな不手際の些細な違和感は、作品を成立させる上ではほとんど問題になっていなかった。説明的であることが作品の本質的な欠陥となって見えていたのは、竜のモチーフの展開においてだろうが、その点については本文の末尾で触れた。

*6:あるいは、作者自身が『ゴドー』を意識的に参照して造形したのかもしれない。そうだとすると、ひょっとするとメカルという奇妙な名前は、メカニカルの縮約形かもしれない。喜劇的なものを成り立たせる機械的なものを体現するのが、ラッキーにほかならないからだ。そうだとすれば、ラッキーが「考えろ」と命じられて行う演説に相当するのは、メカルが座るときに客席に向かって行う説明的な独白だろう。あのセリフは、明確に客席に向けられた独白として演技されていた。それは、メカルが舞台に対するコメンタリーを行う位置にいるということ、つまりメカルが座る位置が客席に近いということであり、そのことが示唆するのは、観客の任意のひとりがメカルと交換可能であるという作者の現実認識であり、説明的セリフが観客との馴れ合いの様式であるという作者の演劇的な認識である。ところで、作者本介は来る早稲田祭で『劇団対抗24時間耐久即興ゴドー待ち』という企画を立てたそうなので、当然『ゴドー』は視野に入っているのだろう。しかし、即興でゴドーを待ったとしてそれはただの即興以上の意味があるのだろうか?はなはだ疑問である。

*7:もちろんいうまでもなく、『ゴドー』の方がより洗練されていて、より先にすすんでいて、より完成しており、より深く伝統を咀嚼していて、遠くまで射程が及んでいるからこそ、古典として時代を超えて生き残り続けているわけだが。例えていえばその違いは、この舞台では、フェイクの孔子さえ見失いかけているが、『ゴドー』は福音書のキリストに直に匕首をつきつけている、というようなものだ。

*8:会話が同時平行で進むというようなことは、技術的にそれを実現する工夫も含めて、現実感を醸し出してみるためのちょっとしたアイデア以上の何だろうか。

*9:ここで近代演劇というのは、人格が行為において同一性を保ったものとして関わりあうことにおいて、舞台に再現として社会的な人間関係が造形され表象されるような演劇のことだと仮に説明しておこう。議論の射程や精度をもっと高めることもできるだろうが、それは私自身の課題としておきたい

*10:既に繰り返しこのダイアリーで述べたように、五反田団や地点が平田オリザの近傍から進んでいった道は、それぞれまったく正当であり、有意義さを持っていると思う。今回の文脈に従って注記しておけば、彼らの活動には、近代演劇の条件に対する批判的な視点と戦略があるからこそ、有意義でありえていると言える。単純に言えば、その重要なポイントは、観客をどのように獲得し、上演を社会にどのように提示するのか、という点にあり、そこにおいて、批判的な視点とたしかな戦略があるということだ。付け加えておけば、Shelfに欠けているのはそのようなものであり、ダルカラもその点でおぼつかないところがある。

*11:余談だが、この点で、宇野常寛の評論もまた、時間軸的な遠近法が短絡されている点で、セカイ系と同じ機制の下にあると考えてみる余地がある

*12:教科書的に確認しておけば、武士階級においては儒教が規範的役割を果たしていたとして、明治以前の一般民衆の生活において近代以前には儒教的には許容されないような性的なおおらかさがあったこと、儒教的な規範は明治以降の義務教育において規範として一般民衆にも示されたといえることなどを簡単に振り返っておこう。

*13:おそらく、1970年代の石油危機とスタグフレーションにおいて、欧米と日本の状況がずれ始めたこと、80年代に英米で進められた新自由主義的政策が日本での導入が遅れたことに、日本的80年代の問題がある。その世界史的なすれ違いにおいて、日本の80年代を考えるためには、70年代を回顧しなければならない。その点において坪内祐三の『同時代も歴史である 一九七九年問題』などが参考になるだろう。

*14:ここで付け加えておけば、こうした中間項が度外視される遠近法的錯視は、たとえばアリストテレス詩学が参照されて、フィクションの構成原理は既にアリストテレスが明らかにした枠の中に収まってしまうといった話題の提示の仕方においても見ることができるかもしれない。そうした短絡の中で、可能性があまりに性急に切り詰められているように思える。地道にこまかく歴史を回顧することによって遠近法的錯覚を覆すことで、忘れられた可能性が見えてくるということも、あるかもしれない。

*15:この点で、岡野康弘の演技は、実年齢よりも年齢の高い役柄をかろうじて演じることができてはいたが、どこかで存在感に欠けるところはあったようにもおもわれるが、作品として考えた場合は、そうした希薄さは、役柄の人物のたよりなさとして、作者が求める質でもあったかもしれない。若い観客が見たら、十分に年上に見えたかもしれないが、私からみると、やはり、若い人にしか見えなかった。まあ、そういうことは、年齢を重ねないとわからないこともあるので、20代半ばの作者にしては、よく観察していると褒めるべきところかもしれない

*16:この点については、改めて詳しく論じてみたいと思っている

*17:アラタが、世界情勢を陰謀論的に考える人物として示されていて、陰謀論がナンセンスであるというまわりの大人たちの指摘によってミサイル攻撃という現実への反省が一切停止されてしまうこともまた、そうした問題構成の中に位置付けることができる

*18:このくらいのことでネタバレとか言われたくないだろうが、まあどういう風に阻止されるのかはここでは伏せておく。テレビ版の続きは映画館で上映される予定になっているというが、映画版でも大枠においてこの物語構造が反復されてハッピーエンドにならないと、観客は納得しないだろう

*19:ヒロインが小学生のフリをしていて、ヒーローはただ芸人になりたいと思っているだけ、ということも、萌えとかアイロニーとか、現在の文化状況への批評的注釈として根拠付けられるものだろう。

*20:その点でこの若いカップルは、やめることや諦めること、そして別離を体現しているアオガクとアリガのカップルと対をなしている。おそらく、モノローグの限界を超えたところに、対話の可能性を体現したカップルを置きえたところに、この作者が演劇を続ける根拠がかろうじて掴まれているのだろう。余談ながら付け加えておけば、アニメ『東のエデン』では、正しい意味での出会いはひとつも描かれてはいない。出会ったことにされているだけであり、話の都合上、そうした形の上での出会いに力があることにされているだけである。こういう筋立て上の処理を揶揄する言葉として、「ご都合主義」という言葉が用意されているのだろう。

*21:もちろん、観客と馴れ合えるところで「その劇団の演劇」は終わっているか、できあがっているか、するわけだが

*22:竜が語られる点で、諸星大二郎の『孔子暗黒伝』を参照していたりするのかもしれない。諸星大二郎のマンガもまた、近代の限界に対する思考と重なりあう表現だったといえるのだろう。また、川の神が竜としてイメージされることから『千と千尋の神隠し』も当然想起される。この作品の竜のイメージは、一面ではこれらの先行する作品のイメージを単に借用しているだけのように思える。

*23:その点について、以前、次のように指摘した。「平田オリザの劇作において、しばしば舞台の外で目撃される奇妙な物や事態への言及がなされることだ。蛇の交尾であったり、ミイラ男であったり、舞台上で交わされる人々の静かな会話の輪に戻ってくる人が外で目撃したと語る、どこか不穏であったり、突飛であったりするような、舞台の外にあって、どこか意味ありげに語られるものは、おそらく、舞台上で交わされる会話から浮かび上がってくる人間関係や思いなどに収まらない、戯曲のリテラルな表象の外にあるものの全てを象徴的に戯曲の中に取り込むような特異性として作用している。」『少年B』あるいは、自意識の劇場(中) - 白鳥のめがね

*24:そのこと自体が、日本の多くの戯曲がテーマをテーマとして示唆しながらドラマに体現できなかったという欠陥を反復しているといえるかもしれない。それが、批評的な継承というよりも単なる反復だったとしても、それは最低限の批評性がなければ反復できない反復ではあっただろう

*25:この点でも平田オリザの継承という点で、『少年B』と問題を共有しているように思う

*26:おそらく、岸井大輔の試みはそうした近代的劇場の閉域を批判する営みにのうちで、もっとも先鋭なもののひとつなのだろうし、柴幸男の試みに意義があるとすれば、その一見つつましい作法において、近代的劇場が閉域であるその臨界において上演を試みようとしているからだ、と言ってみることもできる