東に沈む朝日と出会いのダイアローグ/『生きてるものか』

僕は『生きてるものはいないのか』を見たことはなくて、今回も見なかった*1。なので、二作品の呼応関係は度外視して単独の作品として評価せざるを得ないのがすこし残念だけど、いずれ再演されるものと信じてその機会を待ちたい。

今回『生きてるものか』だけ見たのは、こっちが新作でもあるし、枡野浩一を出演させる前田司郎のお手並みを拝見したかったからという理由もある。その辺は改めて後から触れるとして、まず作品全体の印象を素描しておこう。

舞台装置と照明について

低いひな壇のように三つの段になった黒い横長のステージが組まれていて*2、開演前に完全暗転すると、役者がステージにあがっていく、薄い板を強く踏むような足音が暗闇に響く。そして暴れて床をのたうちまわるような音が舞台奥から聞こえるのにあわせて、なにか夕暮れのような明かりがうすぼんやりと舞台を照らしていくと、ステージには役者達が災害現場の遺体安置所にとりあえず並べられた死体のように整然と横たわっている。

しばらく、暗いオレンジの明かりに照らされた終末を思わせる重苦しい陰鬱な雰囲気のなかで全てが進むのだけど、次第に照明が明るくなっていき、それが一日の光の変化を逆向きにあらわしていることが理解されていく。昼間の光は高い位置からの光線になっているし、最後は朝の光をしめす斜めからの照明になり、そして、夜明け前に戻って暗転して舞台は終わる。そんな、一日のサイクルの逆転という照明の造形は、みごとに、作品の主題と一致している。

夕日が昇る物語

この作品自体、全ての人が死んでしまった後から始まって、奇妙な逆回しの展開をする。細菌かウィルスか何かによって突然あらゆる人が死んでいくという『復活の日』を連想させるような災厄の一日を、逆回しで物語っていく。

なので、それぞれの人が、死ぬ直前の苦悶の演技をしつつ起き上がって、死の直前の言葉を語り、そして死ぬまでのいきさつを逆順で演じていく仕掛けになっている。後ろを向いて退くことで、歩いてきたことを逆回しであらわしたりする。

ここでとても奇妙なのが、会話のやり取りの扱いだ。映像を逆回しにするように、全てを逆回しにするのではなくて、なんだか適当に要素を分解して、それを逆順に並べ替えたみたいにして、切り張りするようにして逆回しを成り立たせている。このちぐはぐさが生み出す絶妙な効果を言葉で説明するのはちょっと難しい。

たとえば、ある人とある人が偶然出合って、話をして、別れるというプロセスがあったとすると、それを、別れた場面、話をする場面、出会う場面、という風に逆に演じていく。だから、いきなり「さよなら」と言って話し初めて、順番が妙にちぐはぐな会話をしていた人たちが、「ああ、また会いましたね」と挨拶して後ろ歩きで退場していく、みたいな風に演じられる。

これ、なんとなく変だなあと思いながら見ていると、「ああそういうことか」と逆回しのルールがわかってきて、そういうものとして逆回しで舞台を理解できるようになるように巧妙に戯曲が組み立てられている。そして、それで作品世界で起きている大惨事のことが逆順でだんだん理解されていくプロセスに、細菌の研究をしている人が絡んできて、ひょっとしてこいつらが犯人ということか?でもそれも安易っぽいけど、どうなの?みたいに興味をひきつけられるという、ちょっとしたサスペンス要素も含まれている。

つまり、正順にもどして解釈すると、『グランドホテル』風な群像劇として破滅に向かう人々の最後の一日が浮かび上がってくる。順番を戻して考えると、切羽詰まったあがきとか、開き直って露呈される弱さとか、破滅にあたって愛を貫こうとする切なさとかがあふれたりするヒューマンなドラマになっているのだけど、実際に上演された逆回しの順番でも、ある種、謎が提示されてそれが明らかになるというような、ゆるぎなくエンターテインニングな物語的構造を持っている。

そんな緻密さはあくまで舞台裏のことみたいにして、単純に楽しめる奇妙な逆進行ドラマとして、下らないギャグのように軽妙なタッチで書かれている展開は、その複雑さが何気ないものとして受け取れるくらいに計算しつくされているものだったというわけで、こんなものが書ける前田司郎はほんとすごい。
まるで、ハリウッド的な物語の構成術を因数分解してさらに掛け合わせたみたいな緻密な操作がなされている。これってかなり高度な脚本技術だと思いますよ。

逆回しの悲劇は喜劇かもしれない

さて、逆回しというアイデアだけなら、まあ、そんなに画期的というわけでもないと思われるかもしれない。しかし、そのアイデアには演劇的に考えて興味深いものがある。

逆回しに場面が進んで、というか戻って、行くわけだけど、そこで交わされる会話は、少なくとも発話される文の単位では全部文法的に意味の通る普通の言葉の順番になっている。
そして、会話するときの発話の順番も、全部逆転されているわけではなくて、ある程度、話の流れが自然な会話の順番通りになっていることもある。
でも、その会話がある程度話の中身がわかる程度に細切れにされて、逆順に並び替えられていて、その切れ目ははっきりとはわからない。だから、会話がスキップしながら巻き戻されていくみたいな、変な時間感覚が生まれている。ナチュラルな会話が進んでいたら、突然感極まって叫ぶみたいに、どこかで突然途切れて変なところにつなげられるような、奇妙な滑稽さが生じてくる。

たとえば「これが地獄じゃないとしたら、地獄の方がましだ!」とか、わりと感極まったちょっと大げさなセリフが、会話の順番が逆転されているために、脈絡無く叫ばれるように舞台に示される。その大げささは、妙に滑稽な感じを与えるのだけど、その滑稽さは元の順番に戻して解釈すると、やはり悲痛な叫びにほかならないわけだ。
こうした、末期の叫びが唐突さにおいて滑稽に見えるという効果は、あらかじめ戯曲において誇張されていたから起きただとか、演技のレベルでもあえてパロディ的な調子で演じられていたから生まれたとか考えることもできるのだけど、順番が切り刻まれて逆転されている、というだけで、ある種悲劇的なものが、喜劇的なものに見えるようになる、ということも指摘できると思う*3

そして、そういう仕掛け自体が、誰もが逃れられない死というこの舞台の中心テーマに根本的なレベルで作用している。大げさに悲劇的な見方をすることで、死を意味づけてしまうことが、逆に死ということに粉飾を与え、死という事実を受け取る妨げとなる覆いになってしまうかもしれない。
そんな風に、大げさに劇的であることで隠蔽されてしまうものを、そのまま逆回しすることによって滑稽化することで暴露してしまうかのようだ。だから逆転による展開は、ただの思いつきやギャグのきっかけではなくて、死を真正面からテーマにするための巧妙な仕掛けとして受け取れると思う。
悲壮なものを裏返して奇妙に滑稽なものに見せてしまう、という、いわば、悲劇と喜劇の裏返しの一致、ということ自体が、生と死を演劇化することのふたつの極限をつなぎ合わせた、まるでメビウスの輪のような、ウロボロスの蛇のような*4構造になっているように思う。この形式自体が、テーマを具現化していると考えると、『生きてるものか』は、あまりに素晴らしい傑作と言わざるを得ない。

スキップ逆回しという条件が演技の質にもたらすもの

そう考えた上で、役者の人たちはどんな条件で演技していたのだろうか、と思うと、ちょっと気が遠くなるような複雑なことが行われてたんじゃないかという気がする。
それぞれの役者の人たちは、ある大災厄の一日の流れを当然イメージしているだろうし、それを遡って演じていくことを知っているだろう。でも、それぞれの場面では、今まで演じてきたことを完全に忘れて、まだこの先どうなるか知らない人としてそれぞれの場面を演じないと、その場面は成り立たないわけである。
もちろん、どんな芝居でも後で起こることを知っていて知らないように演じるという面では条件は変わらないのだけど、ついさっき演じたことが、まだ起きていないようにその場面を演じるのは相当困難だろう。
飛び飛びでセリフを遡って行くちぐはぐな流れを、あらかじめ逆転されたものとして順番に演じて行くわけで、そこでは、再現されるべき大災厄の一日に対して、舞台で行われる全ての演技は、あらかじめ一定の距離を置いて隔てられたものとしてある。
しかし、そもそもついさっき演じたことを忘れきることは不可能だから、ここでは、全ての場面において、これから起きることが、すでに起こったことであるかのようであるという奇妙な質が付きまとって、役者の演技を常にその場面から引き離すように変容させていると言える。
つまり、ある役柄を「役作り」して、そこに想像の上で同一化していって、舞台の上である一場面をそのひとになったつもりで生きる、ということがあらかじめ禁止されているわけだ。
いわば、それぞれの場面は、切り刻んでも成り立つものとして造形されていて、つまり「生きてるもの」ではない。この舞台で示される逆展開の一日のあり方を、死んだ後に切り刻まれた人生のいろいろな断面が残骸みたいにして横たわっているものだ、とたとえてみてもいい。
全ての人が、物語の結末を既に知った上で見る舞台のようなものなのだし、この舞台は、なんとなく、ブレヒトが言う叙事的演劇に近いような舞台だったという気さえする*5

演劇っていうものが生き生きした人生の瞬間の再現でありえるというのがそもそも錯覚で、フィクションとして舞台に提示されるのは、いつだって死後に切り刻まれた過去のようなものの幻影なのだ、と言ったら、ちょっと極端すぎるだろうか。

枡野浩一と前田司郎/なにを革命したりするのか

それで枡野さんの出番についてですが、「ねえ愛し合おうよお」といってオネェ言葉調で女の子にしつこくつきまとう人という役柄で、自虐的なギャグなのかとか思えるほどだった*6。ああいう役を枡野浩一にやらせることができる前田司郎はすごいと思った。もちろん、枡野浩一自身が出演者としてそういう風に見えることを選んだということもあるのだろうけど、枡野浩一にあそこまで「演技」させてしまうのも前田司郎の力というほかなくて、本当に前田司郎の演出家、劇作家としての才気には恐るべきものがある。

前田司郎と枡野浩一が演じる二人の役柄は舞台のなかで「漬物界の革命」を目指す人たちというお話になっているのだけど、枡野浩一が前田司郎に言う「それは、既存の漬物に対する冒涜ではないですか?」とかいうセリフはギャグっぽい形で芸術上の革新を暗示しているみたいでもあり、それを芸術の隠喩として解釈できることを当然前田司郎は自覚して書いていると思う。
前田司郎は『さようなら僕の小さな名声』という作品では「前田司郎」自身の役として舞台に立ったことがあるけど、今回の『もやしもん』を思わせるような微生物の研究者という役どころは、どこかで、演劇の探求者としての前田司郎自身の姿と重なり合ってくるところがあるように思う。というか、見ていてそっちで解釈してしまったので観劇の感想としてそういう風に書きます。
もし、漬物の革命が芸術上の革新のことを暗示していて、その暗示がただの冗談で終わってないと考えるとすると、漬物が生活の仕方を変えてしまうような仕方で、生活の隅々に入り込んでいくような芸術として、短歌なり演劇なりを、狭いジャンルの垣根を越えて着実に地に足つけて生きてる人たちに届かせたいというような、ある種まっとうな芸術的理想を、冗談めかした形でマニフェストしてるみたいにも読めるよなあという風に思った*7
そういう意味で、前田司郎がどんな気持ちでオーディションに参加した枡野浩一を採用したのか知らないけど、やっぱりお互いに作家として舞台に立とう、というような気持ちがあったような気がしないでもないし、そこには作家同士の信頼関係みたいなものが成り立っていたよな、と思う。
ただ、そういうことは、たまたま枡野浩一という人がそれなりに世の中に知られているから際立ってみえただけのことで、前田さんは、どの役者に対しても、そうした創作者同士の信頼関係みたいなものを、舞台の上に常に築こうとしてきたのかもしれない。

ダイアローグについて

ところで、最近、日本語の演劇でいかにしてダイアローグを劇として高みにもたらすことができるのだろうか、という風なことを考えていた*8

そんなことを考えているときに、理想的な対話劇として思い出したのは、五反田団による『ニセS高原から』のラスト近くの場面、二人の役者が寝転がって話をしている場面だった*9。そんなことを最近思っていたところだったので、『生きてるものか』のラストシーンというか一日の始まりの場面で、最後に死ぬというか最初に生き返るというか、妻に再会したいと思ってずっと歩き回って最後まで妻に会えないで死ぬ役柄の男と、その妻が、これから生まれるおなかのなかの子どものことを話している薄明の場面を見ていて、ああこれはあの『ニセS高原から』の腹ばいになってしていたダイアローグと同じ質のダイアローグだと思いながら、ダイアローグとして素晴らしいと思って見ていた*10

この舞台作品は、人の大量死という極端な場面を描いているけど、それは、人は生まれたからには必ず死ぬということをコンパクトに見せるための仕掛けみたいなものなのだろう。

だから、妊娠中の妻と夫の対話に遡って終わるというのは、この劇の主題を見事に縫い合わせ完結させていると思う。そこで交わされたのは、まどろみから目覚めかけた二人が、「おなかで鳴っている音がまるで生まれてくる子どもの声みたいだ」「それはただのおなかがなるおとだよ」という風なことを言い合ったりする、ゆったりとした何気ない会話なのだけど、仰向けに寝転んだ妻のおなかに横たわって耳をあてる夫がおなかの中の音を聞こうとするというのは、夫婦二人の対話のなかに、誕生という出会いの契機の声を聞き取ろうとする姿勢を縫い込んでもいて、二人の会話はモチーフを手渡しあい変容させあいながら、未来に滑り出していく形を、その逆向きの場面においても、示している*11
そして白々とした朝日は、まるで生まれる前や目覚める前と死んだ後とは同じことなんだと言いたいみたいに逆回しに沈みきって、舞台がゆっくり静かに溶暗するところで作品は終わる。

終演の挨拶という演劇を

しばらくしてまた明かりがついて、舞台に残った夫婦役の二人が立ち上がって一礼。そして、その二人は、なんと、舞台で進んでいた逆転をどこまでもきりも無く遡り続けるかのように、後ろ歩きで舞台袖に下がっていく。
これは、ちょっとした楽屋落ちのギャグみたいに観客に微笑みかける挨拶のようなものだろうけれど、虚構と現実を枠付ける終演の挨拶をすこし虚構の中に宙吊りのままにしておくことで、扱われた主題の途方も無さをあくまで虚構として社会的な現実の中に着地させようとする振る舞いであるようにも思えた。
最近、現実と虚構の境目をあいまいにして見せるような演出をいろいろと見たけれど、それらの中でもシンプルでありながら、飛びぬけて印象深いもので、そういうところのゆるぎないスマートさにおいても、やはり前田司郎は格段に冴えているなと思わずにはいられない*12。そういう勘の良さみたいなものが、前田司郎の演劇をとても強くしなやかなものにしているんだろうなと思う。

*1:どうでもいいけど、『生きてるものはいないのか』から「はいない」を引くと『生きてるものか』になりますね。つまり、「生きてるものはいない」の否定が『生きてるものか』であるみたいな深読みをしてみたくもなる。

*2:この三つの段は何故必要だったのかなとすこし考えてみた。まあ、見やすいようにというのもあるのかもしれないけど、ラストシーンの夫婦の部屋が一番高い位置の奥に来ることになるのには、何か理由があるような気がしないでもない。

*3:単純に言って、喜劇的想像力では、『トムとジェリー』のジェリーが、トムが仕掛けた罠にはまってペチャンコに潰されたとしても、次の瞬間には元に戻ってトムを元気に追いかけていたりするように、不可逆で取り戻しができない決定的な出来事というのは存在しない。喜劇においては、何事もやり直し可能なことになる。逆に、悲劇というのは、その不可逆な取り戻しの不可能性において、悲劇になる。だから、悲劇の逆転が喜劇的な相貌を帯びるのは、それぞれのジャンルの構成原理から言って、論理的な必然と言ってもいい

*4:ある意味では、今回の舞台で死から誕生に遡るような円環的なモチーフは、『さようなら僕の小さな名声』などであらかじめ素描されていたものの具現化のひとつであるともいえるだろう。ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン。ワンダーランドのインタビュー記事を読むと「キャベツの類」の頃から生と死が円環をなすような構造は舞台に具現化されていたそうだ。これは僕は見てないのでインタビューを読み返すまで気がつかなかった。http://www.wonderlands.jp/interview/005/04.html

*5:ブレヒトは、役者がある役に自己同一化するみたいにのめりこんで演技することで、まるでそこにそういう人がいるみたいに観客が錯覚して、そういうイリュージョンに感動するみたいな演劇のありかたを批判していて、そういうイリュージョンとは違う仕方で人の行為を考えさせるような演劇の理念を叙事的演劇って言ったそうだ、ということだけ押さえておきたいんだけど、前田司郎は期せずして?そういう近代演劇批判みたいなことを達成しているともいえるような気がしたりしたわけだ。小難しいことは言わない風にして、何気なく、演劇を革命しちゃってるんじゃないの、と。あとブレヒトを引き合いに出したついでに言ってしまえば、ベンヤミンの言う歴史の天使は過去だけを見ながら未来に吹き飛ばされているなんて風な一節も思い出したりしないでもない。

*6:出演者が決まってから戯曲が書かれたそうだけど、枡野浩一のことをプロフィールくらいしか知らずに書いたとはとても思えないところがある。ほんとはかなり枡野氏の著作を読み込んで書いたのを、韜晦しているだけなのかもしれないけど、劇作家的な想像力と観察眼の鋭さが見事ということか。大げさに言って、あて書きとして、枡野浩一の自伝的な痛さをパロディによって救い出しているほどじゃないかと思った。参照:栗原裕一郎 on Twitter: "「生きてるものか」続き。役柄やセリフのしゃべり方なども枡野さんのプロフィールや癖を強調あるいは誇張したみたいな印象をもたらすものだったが、終了後前田司郎氏に尋ねたら、脚本は役者が決まってから書いたが、その時点では応募書類のデータしか知らなかったとのことだった。ううむ。"

*7:そこで、何かのウィルスか細菌によって社会が壊滅し、人々が全滅してしまうという舞台設定は、アルトーにとっての「ペスト」を連想させるといったら、これまた大げさすぎるだろうか。

*8:形だけ対話になっていても、結局それって作者のモノローグを登場人物のセリフに割り振っているだけで、そんなの詩なりエッセイになり書いておけば良いことじゃない?とか思うことが度々あって、気になっていたのだ。多分、そういうことを印象論で終わらせずに、あくまで形式的に分析することも不可能ではないのだろうけど、まあ難しい作業を伴うだろう。

*9:参照:ニセS高原から 五反田団の上演 - 白鳥のめがね ものすごく印象に残っているので、自分の文章をみれば対話の場面の描写があるかな、と思ってみてみたら、ほとんど何も書いてないなー。

*10:その点では、次のエントリーで言われている「エッセンシャル・オブ・五反田団」っていうのは、確かにエッセンスだよな、と首肯できるのだった。http://passage.tea-nifty.com/firedoor/2009/11/post-60f8.html

*11:そんなあたりに、対話が劇でありえるための条件がクリアされているのだろうなと思う。おそらく、対話が出会いとして繰り広げられていて、出会いに向かって開かれているときに、対話は劇でありえるのだろう

*12:開演の挨拶や終演の挨拶以上に、演劇的なものは無いだろうし、その意味で、どんなダンス公演も、始まりと終わりにおいては、すこしだけ演劇になる。