少年Bとアジカンと
どちらかというと個人的にはキュートンが使った曲として印象に残っているわけですが。
カラオケである人が歌っているのに居合わせて、初めて歌詞の内容を意識した。それで「少年B」のことを思い出した。
歪んだ残像を消し去りたいのは
自分の限界をそこに見るから
自意識過剰な僕の窓には
去年のカレンダー、日付けがないよ消してリライトして
くだらない超幻想
忘られぬ存在感を起死回生
リライトして
意味のない想像も君を成す原動力
全身全霊をくれよ芽生えてた感情切って泣いて
所詮ただ凡庸知って泣いて腐った心を、薄汚い嘘を消して
リライトして
くだらない超幻想
忘られぬ存在感を
Rewright, ASIAN KUNG-FU GENERATION
この歌詞を見ながら、『少年B』は、「リライト」しないから偉かったな、なんてことを思ったのだ、が。
Asian Kung Fu Generationってバンドのことは良く知らないし、何の思い入れもないのだけど、この歌詞は、「中二病」とかって気安くネタにされるくらい陳腐化している自意識過剰な状態とか、あー去年あんな恥ずかしいことしちゃったよ、とかって頭を抱えるorzみたいな感じをうまくフックにしている。
そういう自意識過剰を否定したい感じ、でもそれも自己慰撫である感じ、そのへんをうまくパッケージして、若いリスナーの気分におもねっているなあと思う(ファンの人には悪いけどね)。消したいけど消したくない自意識に格好のポーズを与えてくれているよね。
くだらない幻想を消し去りたいけどそれも自分の原動力って、モチーフだけ取ると『少年B』も一緒なんだけど、起死回生なんて言わないわけだな。
- 作者: ドストエフスキー,江川卓
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1970/01/01
- メディア: 文庫
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『少年B』の場合は、そこまで悪循環を徹底していなくて、ともかく合唱の場面で終わる。合唱は自意識に閉じこもるのとは違う。コーラスって、ギリシャ悲劇で言えばコロスであって、いずれにせよ共同性に戻っていくってモチーフはあるわけだよね。
それをどう評価するかとか、そういう共同性ってどうなの、とか、そういう反省は作品には組み込まれていなくて、だから、そこであやふやで、解釈は開かれたままになっている。
まあ、これは祝祭ってトピックにつながることで、その点にはワンダーランドのレビューでも触れた。
「キレなかった14才 りたーんず」、あるいは演劇の再起動 - 白鳥のめがね
祝祭と歴史といえば、大げさに演劇史を参照すれば、ワーグナーはどうなんだ、みたいな話にもなる。イスラエルでワーグナーが演奏できるまで半世紀近く待たなければならなかったとかなんとか・・・・。そこから、どう話をつけるか、まだ見えていない。
もうひとつだけ『少年B』については書きたいことがあるので、とりあえず気が向いたらまた書きます。