沈黙のトークショー第五部

『開かれていて閉じている(沈黙のトークショー第5部 場所と金編)』
playworksトークショーの続きは大阪って - 白鳥のめがね
プレイベントから二次会(午前1時を超えた)までフル参加。

カジノ資本主義とか過剰流動性とか新自由主義とかに抗して公共的な場所(あるいはサードプレイスというか)でこそ継承される文化的な価値や美やらをいかに守れるのかといったことをモチーフにして、M-1の話題とかカフェの動向とかざくばらんな話もまざりつつラストには3人の緊張感が会場全体にみなぎるみたいな感じで、岸井さんと米光さんと山納洋さんそれぞれが認識や価値観を共有しながらも違う立場にいることが浮かび上がりそうになったところで、でも時間切れに。

2次会まで出てあれこれ楽屋裏の話もでたところで、私は、岸井さんがやりたいことってなんだったのかをいままでちゃんとわかっていなかったなと思い、岸井さんのこの先の隘路がいかにあやういものかと考え、その目指す先はほとんど理解されないだろうなと予想して、すこし重たい気持ちで帰途に着いた。
ニブロールを仏、米に追いかけたときにもその運営体のあり方が逆に鮮明にみえてきた気がするけど、場所が移ると見えてくるものもあるもので。

http://www.talkin-about.com/cafelog/
SINGLES PROJECT-DIARY
岸井さんの結論は、コモンカフェはジリ貧の現状でアートなり文化なりが持ちこたえる方法としてアリだけど、そこに本当の希望は見出せないって所なんだと思う。篭城戦みたいなイメージか。

岸井さんは、かつての神社とかポタライブで言えば路上とか公的な場所での演劇がなりたたなくなりつつある状況で、お金を払って場所を確保する必要に迫られているのではないか、そういう場所を確保することで文化の命脈を守らなければいけないところに追い込まれているのではないか、という認識を示しつつも、それは自分がやることではないと思っているようだ。

環境的に破綻しかけていた日本を救った文化的な英雄として空海の名前があがり、岸井さんは、芸術家がたんなるエンターテナーと違う意義を社会的にもつとしたら、かつてのお坊さんとか宗教家が共同体において必要とされたように、社会に必要とされるのでなければいけないと考えているようだ。

そこで、モデルを近代以前に範例を求めるように純粋化してしまうと、お金で場所をまわすことはナシになってしまうってことではないか。そのあたり、岸井さんのラディカリズムは、純粋にして正当なのだろうが、ロジスティックス的には隘路へ隘路へと突き進んでいるようにも見える。

流動化とあわせて証券化によってリスクが世界に塵のようにばら撒かれたのと類比的に資産や場所や時間の公的/私的といった区別もまたミキサーにかけられたようにマーブル状に入り組んでどこが公的でどこが私的ともいえない状況なのだろうし、金銭の授受も何が何の対価なのかますますわからなくなっていくのだろうし、あらゆるものが断片化してシャッフルされてしまっていて、だからこそ金がすべてを左右するようにも見えるのだろうけど、何が芸術で何が芸術でないのかという区別にしても、きれいに線引きできないような入り乱れ状態にはあるのだろうから、理念は理念として貫くにしても、演劇が成り立つ隙間、一瞬公的なものが泡のようにつかのま開ける状態を、金なり権利なり権力なりの既存の枠組みの転用によっていかようにでもヒラクことはできるのだろうしそれしかないとも思う。

必要なのは、場所や共同体を恒常的に維持することではなく、公的と言えるようなつながりをそのつどヒラクことができるような技法を編み出して持ち運びすることではないかというようなことを考えないでもない。まあでもこれでは抽象的なおしゃべりで実行可能な行動指針に落としこめない。

ところで、『金と場所編』って聞いて思い出したのが庄司薫の『ぼくの大好きな青髭』という小説で、解放区みたいな場所が出てくるのだけど、それを維持していたものは何なのかという話でもろに「金と場所」がひとつのテーマになるのだった。トークを聞いてみて、ますます、この見立てがあたっていると思えてきた。岸井さんがコモンカフェをぎりぎりにしか肯定できない理由も庄司薫がちょっとどぎつく描いている解放区の成れの果ての姿に通じるものなんだろう。

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)

岸井さんの問題意識は庄司薫がすでに先取りしていて、庄司薫が下していた診断(極めて暗いビジョンと希望ともいえないようなほんのかすかな願いの余地)は圧倒的に正しかったのではないかという気がしている。そもそも世界=青髭公(の城)って認識なわけだから・・・・でもそんな残酷な世界が好きだという肯定か。。。と、うろ覚えで書いていて、この件については大塚英志もかつてなにか言っていた気もするけど、エッセイも含めて庄司薫を読み直してみたいと思った。