「私的に公的」の東浩紀++

Lifeに東浩紀がゲスト出演したときに

東浩紀と言う人は、「私」を棄却させるものとして政治や思想を語るという仕方で、「私」的なものを政治とか公的なものから守ろう、守ろうとしている人なんじゃないか、ってことだ。
政治とか公的なものを、「私」とは無縁な水準に隔離しておきたいのだ。
Lifeでゲストの東浩紀/「私」を守る++ - 白鳥のめがね

という感想を書いた。
ちょっとその話の続きを。

Lifeの音声ファイルがWebで全部聞けるようになっています。それで、番組サイトのまとめを引用すると、次のようなやりとりがある。

・原理的功利主義者・ピーターシンガーが導き出すラディカルな結論(東)
ホロコーストの犠牲者の子孫のシンガーが、
                   歴史修正主義を容認する事の凄さ(東)
 →日本の左翼は遥かにレベルが低い(東)
文化系トークラジオ Life: 2009/05/24「現代の現代思想」(東浩紀ほか) アーカイブ

番組聴いていたときには気がつかなかったんですが、これ、南京がらみで批判が殺到した件のことを言いたいわけですね。東浩紀は。

ユダヤ系のピーター・シンガーは、親戚がナチに虐殺されている。それにも関わらず、オーストリア歴史修正主義的、「ガス室はなかった」的な記事を書いたジャーナリストが有罪宣告を受けたとき、シンガーは記者を釈放すべきだと言った。それができないなら、ムハンマドを風刺することを容認できないイスラム圏と変わらなくなる、と。
もっとも崇高なことを蹂躙されても、耐えるのが、ヨーロッパの自由主義の本質である。それは、ガス室についても認めるべきだ。シンガーはそこまでラディカルなことを言うので、そういうところがヨーロッパの知識人は本当にすごい。それに比べると日本の左翼はだめだ、と東浩紀は言っている*1

この話題では、デリダ歴史修正主義を認めなかった、という風な批判が出ましたが*2
まあ、東浩紀も一応予防線は張っていて
南京事件についてシュレディンガーの猫みたいな議論をしている人は何なの? - 地を這う難破船
別に、東浩紀デリダの人ってわけじゃないので、批判したい人は、デリダにこだわり過ぎない方が良いでしょう。

さて、シンガーが言論の自由という理念を徹底しようとするのと、東浩紀の南京がらみのお話は文脈が違うし、議論の構成も違うので、もし、東浩紀が、ピーター・シンガーを持ち出すことで『リアルのゆくえ』他での自身の歴史認識問題についてなされた批判に対して「レベルが低い」と言って退けられると考えているとしたら、それは話が違うといわなければならないでしょう。

大塚 南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ? 知識人としてのあなたは、そのことに対するきちんとしたテキストの解釈や、事実の配列をし得る地位や教養やバックボーンを持っているんじゃないの?

東 そんな能力はありません。南京虐殺について自分で調査したわけではないですから。(『リアルのゆくえ』p.210)
進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀 - 地下生活者の手遊びから。

大塚 (略)資料はすべて伝聞情報だからね。一次資料だって誰かのバイアスがかかっているわけで、南京虐殺論争だって、そのバイアスの部分で虚構と言うのか、あるいはバイアスを取り除いたところであったと言うのか。とにかく、東浩紀っていうのは、結局は人は何も分からないって言ってるようにしか聞こえないよ。

東 ある意味でそのとおりです。

大塚 (前略)つまり君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。

東 ええ。それはそういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。(『リアルのゆくえ』p.211)
進化論否定論者のように南京虐殺を扱う東浩紀 - 地下生活者の手遊びから*3

さて、いちいち東浩紀批判を蒸し返したりはしませんが、ここで東浩紀が守ろうとしているのは、言論の自由の理念ではないことは明らかだと思います。

むしろ、ある種の政治的判断を下す責任から、自分を守ろうとしているように見える*4

たとえば、昨年ネット上で批判の声が上がったときには、東浩紀は南京を訪れた経験を語りながら、あえて次のように「私的な感想」を書いていた。

むしろますますぼくへの不信感を呼び、こんどはこっちの文章が根拠に叩かれるかもしれない私的な感想ですが、ぼくがただ適当に南京大虐殺の例を挙げていると思われたらいやなので、書いておきます。それに、歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。
hirokiazuma.com

私は、この件で、東浩紀批判の全てが正当であると言うつもりも無いけれど、東浩紀の発言をダシにして歴史認識について議論がなされるのは良いことだろうと思う。東浩紀自身、彼自身の立場からすれば、東浩紀に対するどんなひどい誤認に基く批判も、容認しなければならない*5

また、この件で、東浩紀の振る舞いが正当であったと言うつもりも無いけれど、その上で、私は、東浩紀が、たとえ「知識人」を売りにして生きていくのだとしても、無際限に公的な責任を負わなくても良いのだ、公的な責任から逃れたって良いのだ、と言っているのは、それはそれで尊重すべき発言じゃないかと思う。

アキハバラ発』という本に収録されたインタビューで東浩紀は次のように述べています。

僕はこの事件に関しては、知識人のはしくれとして、社会的包摂の機能を完全に放棄して、防御的に振舞っていさえすればいいだろうとはさすがに思いませんでした。このように言うと、大きな物語はなくなったという僕の主張と矛盾するように聞こえるかもしれませんが、だからといってあらゆる社会問題に大文字の知識人として介入すべきだと思っているわけでもありません。どの事件に関わるかという判断は人それぞれでよい。小文字の知識人でよいのです。単純に、この事件に関してはアキバということもあり、僕がやるべきだろうという気がしたのです。(pp.64-65)

秋葉原事件についてだけ公的に振る舞っているのは、この事件が私的に僕に響いたからです。それしか根拠はないし、僕はそのことを隠そうと思わない。
 ただ、今後の公共性は、もしかしたらそういうあり方しかないのかもしれません。公的な知識人として中立的に振る舞おうとすれば、このポストモダン社会では、むしろ非共感的なメタ言説しか語れない。だから「私的に公的に」振る舞う。そしてそれは許されている。逆に、そういう事態を前にして、「公的であること」について過剰に真摯に考えると、むしろメタ言説以外を抑圧する効果を生んでしまいます。(p.73)

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

ここで、大文字の知識人というのは、つまり、サルトルに代表されるみたいな、知の英雄として道徳的にも政治的にも模範を示そうとするThe知識人になる、ということなんでしょう。

これは、知識人としての責任から逃れようとしていると見られても仕方が無い振る舞いであり、かつまた、逆説的な仕方で、現代に可能な知識人の模範を示す、というパフォーマンスになっていると言えなくも無い。その意味では、私的に振る舞うことの公的な価値を、まじめに、わが身をはって、公的に、示そうとしていると言えなくも無い。

ここには、とても奇妙で興味深い捩れがあり、その煮え切らなさや議論の不十分さも含めて、慎重に読み解くべき何かがあるような気がします。ある種、公的であることへの恐れと、公的でありたいという欲望のあいだで身を捩じらせているようにも思える。「私」の真実を「公言」することに、奇妙なまでに東浩紀は執着するわけです。

最近の次のような発言も、「私的に公的」という話と関連しているでしょう。

ぼくもいい年齢の大人なのだから、自分の発言には責任をもたねばなりません。それに社会が仮構してくる「人格的一貫性」も担わなければいけない。だから、そのレベルではきちんと個々の発言について「あれはネタだった」とか「あれは責任を取る」とか区分けする。その点の責任を回避する気はまったくないし、実際に現実社会ではそうやって生きているのだけど、しかしこういう場だからこそ言ってしまえば、発話の瞬間の感覚としてはつねに曖昧なのです。
serious/unserious - hazumaのブログ

ここで、発話の瞬間の感覚、つまり、どこまでも私的なことをあえて公的に語ることに意欲を持っているところが面白いところです。

結局のところ、マジとかネタとかが自分のなかで区別できるのは、20代くらいまでなのかもしれません。30歳を越えてくると、自分が過去にどのような発言をしてきたのか、そしてその自分自身の発言を自分があとでどのように「ねじ曲げて」きたのか、さまざまな記憶が蓄積してくる。したがって、だれよりも自分の発言が、そして自分の心の一貫性が信じられなくなる。もし30代、40代のひとでそんなふうに思わないひとがいるとすれば、それはよほどの聖人君子か、あるいは単なるバカかどちらかでしょう。
serious/unserious - hazumaのブログ

人格的一貫性が仮構に過ぎない、ということを、むしろ、ある種の真理として語ろうとしています。しかし、あくまで主観的かつ人生論的に。このレトリックのねじれに注意したい。たとえそれが慎重に書かれたものでないからといって、東浩紀のほかのもっとまじめな著述とは分けておくべきだ、と考えなければならないわけではない。いずれにしても興味深い。

ぼくの日本語には、どうしてもベタがまとわりついてくる/あるいはメタへの拡散に引き裂かれてしまう。ぼく自身がどれだけそれを振り払おう/収束しようと思っても。
serious/unserious - hazumaのブログ

ここに、東浩紀の人文系の著述家としての、批評家としての自認が示されています。
どこかあまりに素朴な感慨という印象もあり、あまりに素朴であると思われるかもしれないことを警戒する自意識の働きをあえてひけらかしてみせる仕方も、芸が無いって言えばそれまでだ。

この点で、東浩紀は一貫しているのだけれど、あまり明確に主題化して論じてはいないと思う*6。こういう話をするときの東浩紀はどこか歯切れが悪く、まるで脆弱さを温存しているだけのようにも見える。

ここで、東浩紀は、私的であることと公的であることのねじれを抱えていて、それを奇妙な仕方で繰り返し公言しようとしている。いわば、社会的な仮構から私の実感をどこまでも擁護しようとしている。

だからこそ、東浩紀は作家/批評家として、今、読む価値があるのだと思います。

補足

ブックマークに次のようなコメントが。

kogarasumaru 文意から行って最後の結論はやはり逆だろう/なぜ東が読むべき思想家なのかは皆目分からない
はてなブックマーク - 「私的に公的」の東浩紀 - 白鳥のめがね

確かに論拠を明示していなかったので一言加えておくと、私が言いたいのは、インターネットやモバイル機器をはじめとするメディア環境の変化によって「公」と「私」のそれぞれが大きく再編されている今、その問題に身をさらしている東浩紀の著述は、たとえ内容に不備や不十分さがあったとしても、慎重に観察すべき対象である、ということです。その点でも、東浩紀がルソー論を準備しているというのは非常に興味深い。無事刊行されてほしいものです。
これでもわからない人はどうぞスルーしてください。


※参考リンク
GLOCOM Forum 2005 - 東浩紀 情報社会の合意形成と設計の知:司会方針 (hazuma)
GLOCOM 「地球智場の時代へ-情報社会学シリーズ- 」(情報通信ジャーナル連載): 第9回 : ポストモダン 情報社会の二層構造

(追記1)注を付け足して補足しました。
(追記2)補足を追加しました。(6月10日)

*1:なんかこの話をする東浩紀は、うれしそう、というか、はしゃいでいるように聞こえるね。ま、それはあくまで私の主観でしかないのですが。

*2:Wikipedeiaの東浩紀の項目でも、2009年6月9日現在で、デリダ歴史修正主義関連の発言を長々と引用して注意を促している。東浩紀 - Wikipedia

*3:原文を確認の上誤記については訂正しましたが、コピペしました。あしからず。

*4:私自身も、「南京の件」とある種断定を避ける表現をしているのは、ここで特定の政治的立場を表明することにつながるような判断を保留しているからです。

*5:ここで容認というのは、どんな誤解をした批判者に対しても、発言権を与え続けなければいけない、という程度の意味です。ただ、東浩紀がたとえば名誉毀損とかで誰かの発言についての争いを訴訟に持ち込んだとしたらどうだろうか。私は、別に東浩紀自身の主張と矛盾はしないだろうと思います。法律には疎いので良くわかりませんが。。。

*6:私も東浩紀の公刊されたものを全部読んでいるわけではないので、見逃しはあるかもしれないけれど